第27話 『国家のための駒』として育てられた少年
書斎の灯りは、とっくに夜更けの色になっていた。
机の上には、さっきまで私たちを黙らせていた光の板。ラグランジュ家旧契約の条文が、まだ薄く残像みたいに揺れている。
《過去ログ、再生します? こういうときは、証拠がいちばん正直ですよ》
女神様の声が、私の耳元にだけひそひそ落ちてくる。
私は喉の奥で息を詰めた。正直、見たい。でも、見たら戻れない気もする。
「……セルジュさん。さっきの、『あなたは本来守られるべき人です』って」
椅子の向かいで、彼は書類を揃える手を止めた。いつもの丁寧語の仮面が、少しだけ薄くなる。
「覚えています。第1部の控室で、あなたに申し上げました」
「ええ。だから、なおさら……どこで覚えたのかなって」
沈黙の間に、外の風が窓を叩いた。
セルジュさんは、決裁印を押すときみたいに小さく頷く。
「再生してください。私が説明するより、ログのほうが早い」
女神様の羽ペンが、空中でくるりと回った。
◇◇◇
《ログ再生:ラグランジュ領・地方屋敷 冬の終わり》
光が切り替わり、私の前に古い食堂が立ち上がった。
壁には額縁に入った契約書。傍らに、子ども用の木製戦略盤。盤上の駒は、まるで家族の数だけ並んでいる。
『召集状だ』
低い声が響く。父親だ。地図の前に立ち、封蝋を割った羊皮紙を持っている。
少年のセルジュさん。まだ肩が細くて、制服の襟が少し大きい。
(また、来た)
ログの中の「僕」が、心の内側で呟いた。
私は胸の奥がきゅっとなる。彼の言葉は静かで、だから余計に硬い。
『長兄、次兄。お前たちだ』
駒が2つ、盤からつまみ上げられる。
長兄は笑って「はい」と言い、次兄は歯を見せて「国のためなら」と言った。立派。誇り。そういう言葉の形をして、ぜんぶ刃だ。
母親は、手元の布を握り潰す。音がしないのに、痛い。
『ラグランジュ家は、国に駒を差し出す家だ。家は、国の駒箱だ』
父が少年に視線を投げる。
少年は、頷くしかない。頷いた瞬間、駒箱の蓋が自分の上で閉まる気配がした。
(僕は……どの駒だ)
戦略盤の端に、まだ動かされていない駒が残っている。
その駒に書かれた名前を、私は読めない。でも、盤面が減っていくほど、その駒は重くなる。
『セルジュ。お前は残れ。剣は……向いていない。お前の頭は、盤面を読むためにある』
褒めているのに、逃げ道がない言い方だった。
少年は、黙って「はい」と言う。目が、盤ではなく壁の契約書を見ている。
その横で、末弟が咳き込んだ。小さく、息が細い。
母が背をさすり、笑おうとして失敗する。
「……大丈夫。ほら、ゆっくり」
少年が近づき、毛布を直す。
末弟の唇は紫がかっているのに、それでも「兄上、ごめんなさい」と言う。
(謝ることじゃない。君は、駒じゃない)
少年の手が震えた。
「君は行かなくていい。……君は、本来、守られるべき人だ」
言った瞬間、食堂の空気が止まった。
母が驚いたように少年を見る。瞳の奥に、「本当は、あなたこそ」という痛みが浮いたのに、母は何も言わない。
父は咳払いだけで済ませた。
『盤面が減るほど、残った駒が強くなければならない』
母の声が、布を裂くみたいに静かだった。
少年は、その言葉を自分への命令として飲み込む。
(生き残った者は、盤面を見続ける役目だ。守る側に回らないと、誰も守れない)
その日から、駒は減っていった。
出立の朝、長兄の背中に母が縫い付けた護符が揺れた。次兄は笑って手を振り、笑っていないのは母の指だけだった。
帰ってきたのは、泥のついた剣と、冷えた金属の名札。それが食堂の隅に増えるたび、壁の契約書はきれいなまま、ただ重くなる。
騎士登録台帳の名前が、1つずつ黒く塗り潰されるたびに、盤面の残り駒が増殖するみたいに重くなる。
そして最後に。
空欄だらけの台帳の端に、自分の名前だけが残る。
(僕が残った。だから、僕が……)
続く言葉は、ログの光に溶けた。
◇◇◇
光が消えて、王都の書斎が戻ってきた。
私は息を吸うのを忘れていたらしく、喉が痛い。
「……あの台詞。リディアさんに言ったものと、同じですね」
セルジュさんが、淡々と確認する。声は平らで、指先だけが机の縁を掴んでいる。
「でも、あれ……あなた、自分には言われたこと、ないんですよね」
言ってしまった。
言葉が落ちた床が、やけに硬い。
セルジュさんは瞬きをした。たった1回。なのに、そこに少年の影が見えた気がした。
「結論として、私は守る側です」
「その結論、契約の条文に書いてありました?」
「……書いてありません」
「なら、暫定で書き換えましょう」
私は紙を引き寄せ、ペン先を立てた。
夫婦契約でも、公務契約でもない。ただの、今夜の私の決裁だ。
「セルジュさん。あなたも『守られる側』です。少なくとも、私の前では」
彼が小さく笑った。苦笑に近いのに、どこか救われた顔だった。
「異議申立ては?」
「却下です。聖女権限で」
「それは強いですね」
「異議があるなら、朝に出してください。受付時間は、セルジュさんの睡眠が確保されたあとです」
「それは、制度として正しい」
《本日付け、官舎書斎。守る側/守られる側ラベル、暫定更新。感情決裁:可決》
女神様が楽しそうにテロップを読み上げる。私のペン先が震え、インクが少し滲んだ。
セルジュさんは、戦略盤の駒を並べ替えるみたいに、机上の紙束を整える。
「では、明日は一族会議用の議題整理をしましょう。駒箱そのものの構造を、いったん開いて見せる必要がありそうです」
「……はい。開けましょう。蓋ごと」
私は頷いて、心の中でだけ続けた。
(『国のための駒』として育てられた少年を、今度は私が『守られる側』の席へ連れていく)
《──次ログ、家族会議》
女神様の声が、羽ペンの先で小さく鳴った。
ここまでお読みいただきありがとうございます。セルジュの『駒』の過去、刺さりましたか? 次回はいよいよ一族会議、蓋を開けます。続きが気になったらブックマークで迷子防止、広告下の【☆☆☆☆☆】から評価もいただけると執筆の燃料になります!




