第25話 注意喚起ポスターと、契約夫婦の距離
朝もやの残る大神殿前広場は、いつもより少しだけ紙の匂いが濃かった。
湿った石畳の上に、刷りたてのインクが甘く立つ。嫌いじゃない匂いだ。前世の私は、深夜の会議室で同じ匂いを嗅ぎながら、胃薬を飲んでいたけれど。
「聖女様、こちらです。今日の掲示板……その、ええと……」
隣でティオが言いよどむ。いつもは元気に「はい!」と返事する若手書記官が、朝からやけに慎重だ。
その理由は、広場の掲示板に貼られた新しい紙を見た瞬間、私にも分かった。
大きな見出し。
『ブラック契約に注意!』
そして、その下に例文として堂々と踊る、あの一行。
『お前を愛するつもりはない』
ただし、今は太字の下に真っ赤な線が引かれ、横に小さく「危険な発言例」「同意なき精神的拘束」とタグが並んでいる。言葉が、檻に入れられていた。
《おっ、貼ってる貼ってる。人間って、たまに仕事が早いわよね》
(仕事の早さを褒める相手と場面、選んでもらえませんか……)
頭の中の女神様が、楽しそうにくすくす笑う。
「……これ、正式に採用されたんですね」
私は、息を吐いた。胸の奥が、痛むというより、空っぽにきしんだ。
3年前、同じ言葉が私に向けて放たれたとき、私は逃げ場のない礼拝堂で、ただ立っていた。
あの夜の距離は、近すぎた。言葉が、皮膚を破って骨まで刺さる距離。
今は、紙が1枚挟まっている。赤線が引かれている。危険表示まで付いている。なのに、心臓は勝手に覚えている。えらいな、私の心臓。褒めてない。
「……剥がさせますか?」
ティオが小声で言う。剥がす許可なら、私には出せる。いまや私は「公正契約大神殿の聖女」で、そして「契約を読む係」だ。
でも私は首を振った。
「いいえ。貼ってください。……この言葉を言ったのは、事実ですから」
「聖女様……」
「大丈夫。ここで私が顔色を変えたら、また誰かが『ほら、効いた』って思うだけです」
掲示板の前には、すでに人だかりができていた。
年配の主婦が腕を組んで、紙面を覗き込む。
「まあ、ひどいこと言う王子さまねえ。こんなの、契約以前に人としてアウトよ」
「今は『アウトな例』って書いてありますから。教材です、教材」
隣の商人が、妙に朗らかに言う。
若い娘が口元に指を当てて、ふっと笑った。
「でも、ちょっと歌いやすいフレーズよね。『お前を愛するつもりはない~♪』って」
「歌にするのはやめてください!」
ティオが反射で突っ込む。周囲の子どもたちは、もうリズムを刻み始めていた。人の適応力が高すぎて怖い。
私は、笑っていいのか分からなくなって、でも笑ってしまった。
笑うと、胸の奥の空洞に風が通る。痛みが、少しだけ軽くなる。
掲示板の右下に、豆粒みたいな文字が並んでいるのが目に入った。
ティオがそこを指さし、声をひそめる。
「……ここ、見てください。印刷所が勝手に気を利かせたというか、法務の人が口出ししたというか……」
小さすぎて、私は身を乗り出して読む。
『本ポスターは、聖女祝福監査委員会ログ(抜粋)に基づき作成されています。
引用ログの二次利用は、契約第14条《情報公開と教材利用》に従います。』
「細かい……」
《ねえ、そこだけは大きくしなさいよ。人間って大事な注意書きほど小さくするの、何の呪い?》
(女神様まで消費者庁みたいなこと言わないでください)
私は思わず、額に手を当てた。
「でも、これが大事なんです」
ティオは真面目な顔で言った。
「『誰の言葉を、誰が、どう使っていいか』。そこが曖昧だと、また同じことが起きます」
「……そうですね」
私は頷いた。傷口に貼る絆創膏にも、貼り方の説明書が要る。痛みを隠すためじゃなく、守るために。
そのとき、背後から低い声が落ちた。
「貼り方だけでなく、使い方も、ですね」
振り向くと、黒髪の官僚が立っていた。いつもの端正な礼。いつもの丁寧語。なのに今日は、目が少しだけ柔らかい。
「セルジュ」
「お迎えに上がりました。……と言うと、また『業務ですか』と叱られますか」
「叱りません。もう慣れました」
私が言うと、ティオが咳払いをして、すっと後ろへ下がった。空気を読める若手は、強い。
◇
人だかりが少し散った頃、私とセルジュは掲示板の前に並んだ。
肩が触れない距離。けれど、逃げ道のある距離。
私は、赤線の引かれた一文を見上げたまま、ぽつりと言った。
「私たちの契約も、最初から書き直してもらいましたよね。
あのまま『形だけの夫婦』契約でいたら……きっと、このポスターに載せられる側だったかもしれない」
言ってから、少し遅れて恥ずかしくなる。こんな言い方、まるで自分たちが模範夫婦みたいだ。
セルジュは、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「『願いから始まる契約』でしたからね。あなたが、『守られながら働きたい』と望んでくれたおかげです」
「……あれは、ほとんど女神様とあなたに押し切られた気もしますけど」
「押し切ったのは条文です。私は、事務的に承認しただけです」
「その言い訳、まだ続けるんですか」
「続けます。習慣ですので」
私は吹き出した。
この人の「習慣」はだいたい、私の命を守る方向にだけ強制力を持つ。
しばらく、2人で同じ紙を眺めた。
私は気づく。あのときの距離と、今の距離は、数字で測れない。でも確かに違う。
真正面から浴びせられた言葉と、ラベル付きで眺められる言葉。
そのあいだを埋めてくれたのが、契約を書き直す作業だった。
「……あのときは、言葉が真正面から降ってきて、逃げ場もなかったのに。
今は、こうして1歩引いたところから、『この言葉は危険です』って見ていられる」
私が言うと、セルジュは少し考えてから、いつもの職業病の顔になった。
「契約でも同じです。紙1枚挟むことで、感情と義務のあいだに適切な距離を置ける。
それがないと……『愛していない』と言われても、背中から刺されかねませんから」
「背中から刺す愛情表現は、ちょっと遠慮したいですね」
「同意します。ちなみに刺す側にも、危険です」
「そこまで条文化しなくていいです」
笑いながら、私はポスターの右下を指した。
「過去のログを使うなら、こういう注意書きも要る。……世界って、本当に契約でできてるんですね」
「世界は、言葉の使い道でできています」
セルジュが、赤線の一文を見たまま言う。
「過去の1行は消せませんが、その読み方と使い道は変えられます」
胸の奥の空洞が、今度はきしまずに、すっと形を変えた気がした。
私たちは、参道へ歩き出す。
隣にいるのに、私の足取りは軽い。肩が触れない距離のままでも、孤独じゃない。
《本日付け、公正契約大神殿前広場。『ブラック契約注意ポスター』試験運用開始。併せて、『世界標準夫婦契約モデルケース』の現地観測も継続中。――距離感、良好。》
頭上から女神様の「日報」が、ふわりと降ってくる。書類みたいに淡い光の文字が、空に浮かんで、すぐ消えた。
振り返ると、掲示板の赤線と、歩き去る私たちの背中のあいだに、やわらかな光が差し込んでいた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!黒歴史の1行が『守る教材』に転職した回でした。クスッと笑えた方も、胸がきゅっとした方も、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで背中を押して




