第20話 ミレーヌの告白と、歪んだ信仰
ロウソクの火は、嘘をつけない。
机の上の写し。厚い羊皮紙。端正な文字。署名欄に並ぶ黒いインク。
そして末尾だけ、光にかざすと、かすかに銀色へ滲む一行。
わたくしは指先でそこをなぞり、喉の奥で息を詰めた。この一行は、祈りの言葉の顔をして、祈りじゃない。
扉が控えめに叩かれた。
「ミレーヌ。起きているか」
「はい、お父さま」
父は部屋へ入るなり、余計な前置きもなく言った。
「王宮が、契約末尾を問題視し始めた。大神官長も気づいたらしい」
「……そうですか」
「だが殿下はまだ、公正だと仰る。明日の討論で押し切るつもりだ」
父の声は乾いていた。家を守るために乾かした声。わたくしは頷く。
「家は、今、微妙な立場だ」
その言葉だけで、胸の奥の古い鎖が鳴る。
名誉は重い。責任はもっと重い。守るためなら、誰かが疑惑を背負わねばならない。
「陛下も殿下も、家を守るためなら、誰かに疑惑を背負わせねばならぬ立場だ」
「ならばせめて、その誰かは我が家から……ということですね」
「そうだ。世論が王家を飲み込めば、我が家も沈む」
父は言い切って、視線を紙へ落とした。銀色の一行へは、見て見ぬふりをするように。
「わたくしが、浮き輪になります」
父の返事を待たず、わたくしの指先が銀色を撫でた。
冷たい光が、まぶたの裏を反転させる。
◇◇◇
薄暗い礼拝室。壁には光の聖女の絵があり、その足元には膝をつく人々のモザイク。
わたくしはそこに立っていた。父の隣。殿下の隣。司祭の向かい。
礼拝室の外で、弟妹の足音が小さく駆けた。笑い声が遠くて、眩しい。
あの子たちの未来に泥を塗らせたくない。そう思うたび、胸の鎖は「当然だ」と鳴った。
司祭は穏やかに微笑み、巻物を差し出した。
表題は、聖女権威検証契約。字面だけなら、誰も反対しないはずの言葉。
「真に公正な聖女は、己の身を削ることすらいとわない」
祈りの顔をした断罪が、室内の空気を固くする。
殿下が一歩、前に出た。いつもの、正しい顔で。
「疑われたままの聖女を、いつまでも隣に置いておくことはできない」
その言葉は、優しさの形をして、切り捨てるための刃だった。
わたくしは頬の内側を噛んだ。殿下を責めたくない。殿下もまた、王家という鎖を首にかけている。だから、わたくしが代わりに。
「殿下。あの言葉はもう、陛下のものではありません」
「ミレーヌ?」
「口にした瞬間から、紙に書かれた瞬間から。人の手に渡り、武器になります。だから……わたくしが持ちます」
殿下の瞳が揺れた。けれど揺れは、決断を止めない。
「君は……強いな」
「強くなくては、守れませんもの」
司祭が羽ペンを差し出した。先端のインク皿は黒いのに、光を受けると銀が潜む。
わatくしは署名欄へ、震える手で名前を書いた。
その瞬間、巻物の末尾が息をした。読めない文字が、読む前から心へ入り込む。
わたくしが何かを差し出したのだと、体が先に理解した。
でも、引き返さなかった。
引き返さないと、わたくしが選んだのだと、言い聞かせた。
◇◇◇
回想から戻ると、机に突っ伏したくなるほどの眩暈がした。
けれど背筋を折れば、銀色の一行がただの呪いに見えてしまう。だから、姿勢を正す。
(利用されたのではない。わたくしが望んで選んだ道)
(そう言い続けなければ、家も、殿下も、守れない)
窓の外で、若い侍女たちの噂話が揺れた。
「聖女様も、ミレーヌ様も、どちらが正しいんでしょうね」
わたくしは小さく笑い、鏡の前で髪を整える。
「どちらも正しいと思わせるのが、明日の仕事ですわ」
告知チラシの赤い文字が目に入る。公開討論会。
銀色の一行は、ロウソクの火にまだ濡れていた。
◇◇◇
大神殿の控室は、静かすぎて心臓の音が目立つ。
私は椅子の背に触れ、指先の震えを押さえた。扉の向こうには、群衆のざわめき。
そこへ、ミレーヌが入ってきた。
侍女も護衛もいない。選んだのだろう、この短い「空白」を。
「リディア聖女殿。少し、よろしいかしら」
「……ええ。話すことがあるなら」
彼女は椅子に座らず、窓辺へ立った。外の白い光を背負って、影の輪郭だけが濃くなる。
「あなたは、あの契約の末尾を見たのでしょう」
「見ました。見えない一行のことなら」
「わたくしは、見えていました。最初から。……ただ、見なかったことにしました」
喉が鳴った。私は言葉を選ぶ。怒鳴れば、彼女は鎧を固める。
「どうして、そこまでして」
「自己犠牲が、美徳だからですわ」
迷いのない口調で、背筋が冷えた。
「ルミナリアの教義が混ざった家で育ちました。願いには代償を。罪には罰を。……聖女は、国のために削れるほど公正だと」
「その公正は、誰のための公正ですか」
ミレーヌは微笑んだ。笑みの形だけで、温度がない。
「皆のため。国のため。王家のため。家のため。殿下のため。……そして、わたくし自身のため」
「最後のそれが、一番苦しいでしょう」
彼女の指が、窓枠を掴んだ。指先が白い。
「苦しいのは当然です。苦しくない献身など、価値がありませんもの」
「違う」
私は思わず声を強め、すぐに息を整えた。
「公正を数字で証明し始めた瞬間から、それは誰かの武器になります。あなたが削って証明した公正は、あなたを削るために使われる」
ミレーヌの目が、ほんの少しだけ揺れた。
「武器にされても構いませんわ。わたくしは、そういう役目ですもの」
「役目で人を壊す仕組みは、信仰じゃない。契約です。そして、悪い契約です」
私は胸元の紙束を指で叩いた。守られるための条文。
あの夜、セルジュが言った。「結論として、あなたはもっと守られるべきです」と。
「私は、守られる側だと決めました。契約に書いたからです」
「……羨ましいことを仰るのね」
「羨ましいなら、あなたもそうすればいい」
ミレーヌは、すぐに首を振った。
「わたくしが守られたら、誰が罪を背負いますの。誰が、殿下を、家を……」
「あなたがいなくなる前提で設計された契約なら、まずそこが間違っています」
「いなくなる前提?」
「末尾の一行は、あなたが限界まで自己犠牲を達成した瞬間、誰かが得をする仕組みに見えた」
ミレーヌの顔色が少し抜けた。けれど、次の瞬間には貼りつけた笑みが戻る。
「神がそう望むなら、わたくしはそれに従います」
「神を口実にしないでください。少なくとも、私が仕える女神は、あなたの命を望みません」
沈黙。控室の外で、誰かが咳払いをした。
「リディア聖女殿。あなたは優しい。……だから危うい」
「危ういのは、あなたです」
言い返した瞬間、ミレーヌの瞳の奥で、何かが小さく欠けた気がした。
守られる側だと知ってしまうことが、怖いのだ。鎖が外れたとき、自分が空っぽになるから。
ノック音がして、扉が少し開いた。セルジュが顔を覗かせる。
彼の視線は一瞬だけミレーヌを測り、すぐ私に戻った。
「そろそろ時間です」
「はい」
ミレーヌは背筋を伸ばし、私をまっすぐ見た。
「今日の討論で、わたくしはあなたの敵として壇上に立ちます。けれど……もし神が本当に公正なら、被害者としてのわたくしも、どこかで見ていてくださるでしょう」
そう言って、彼女は扉の向こうへ消えた。
私は残った空気を吸い込み、胸の内で結び直す。
(彼女を敵としてだけ裁つ討論にはしない。自己犠牲を前提にした仕組みそのものを裁く)
セルジュが小声で言った。
「議題の軸は、聖女の仕事ではなく、聖女をどう守るかにしましょう」
「ええ。守られるべき人を、守られる側へ戻すために」
外から、討論会開始のアナウンスが響く。
私は光の差す廊下へ一歩踏み出した。
ここまで読んでくださりありがとうございます。ミレーヌの告白で、信仰が祈りから契約へ変わる瞬間が見えてきました。次話、討論会の壇上でリディアは「守られる側」を取り戻せるのか。面白かったと思っていただけたら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援してもらえると嬉しいです!




