第4話 白い結婚の条件
王宮の謁見の間は、いつ来ても息が詰まる。
高い天井、真っ赤な絨毯、壁の紋章旗。大神殿の静けさとは違い、ここは「見せるための豪華さ」で満ちていた。
その絨毯の先端、玉座から数歩の位置に、私は立っている。聖女衣装の上に白いマント。
「そのままで、聖女様」
「ありがとうございます」
微笑んで礼を言いながら、こっそり深呼吸をする。
陛下への拝謁は仕事で何度も経験している。けれど今日は、「私個人の婚約」の話題だ。
「グスタフ陛下、ご入場」
侍従の声と共に扉が開き、王と王妃、王太子レオン殿下が入ってくる。
「頭をお上げなさい、聖女リディア」
穏やかな声に促され、私は顔を上げる。
「聖女リディア」
玉座に腰掛けたグスタフ陛下が、よく通る声で言った。
「そなたが神殿と国のために尽くしてきた働き、我は高く評価している。今日ここに、そなたと我が子レオンの婚約を、皆の前で宣言できることを嬉しく思う」
左右に並ぶ貴族たちが、ざわりとどよめく。
「聖女と王太子の結婚は、アルシオン王国と公正契約大神殿との絆を、いよいよ確かなものとするだろう」
その言葉の中に、「私」という一人の人間の居場所はない。
国と神殿。その間をつなぐ部品としての「聖女」だけが、そこにいた。
(……分かってはいたけれど)
胸の奥でそうつぶやきながら、私は頭を下げる。
玉座の隣から、王妃が一歩前へ出た。
「皆さま、どうか安心なさって」
澄んだ声が、謁見の間いっぱいに広がった。
「これは情熱の炎ではなく、白い結婚でございますの」
白い結婚。その言葉に、私は思わずまばたきをする。
「恋の熱に振り回されることなく、お互いの役目と責任を尊重し合う、清らかで落ち着いた結びつき。国と神殿のために、ふさわしい形だと考えております」
あちこちから、小さな安堵のため息が漏れた。
「まあ、白い結婚ですって」
「熱ではなく献身の結婚なのね」
白い、という言葉は、たしかに聞こえがいい。余計な色が混じらない、落ち着いた色。
(そういう言い方も、あるのね)
私は、ひとまずそう受け入れる。
ふと視線を横に滑らせると、王族席から少し離れた椅子に、年の近そうな侯爵令嬢が座っていた。視線の先は、まっすぐレオン殿下だ。
ささやき声が耳に入る。
「あの子が、王太子殿下のお心を射止めた侯爵令嬢でしょう?」
「でも殿下は国のために、聖女様との白い結婚を選ばれたのよ」
「本当に、おいたわしいわ」
白い結婚。
さっきまで「清らか」と結びついていたその言葉が、「本命が別にいる結婚」という意味を帯びて沈んでいく。
(白いって、感情を薄める色? それとも、最初から空っぽという意味?)
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
儀式が終わると、私はレオン殿下と共に、文官たちに案内されて別室へ移動した。
王宮の一角にある「契約確認室」。壁一面に契約書の背表紙が並び、中央のテーブルの上には、王家の紋章入りの羊皮紙の束が置かれている。
祈りではなく、条文が中心の儀式の場だ。
(恋愛結婚は誓いのキスで終わるらしいけれど、政略結婚は契約書の読み合わせから始まるのね)
そんなことを思いながら、私は椅子に腰を下ろした。
「それでは、婚約契約の確認に移ります」
文官が一礼し、上の紙をめくる。レオン殿下と私は、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。
「第1条。両名は互いの名誉を守り、その立場を損なう言動を慎むこと」
耳ざわりの良い言葉だ。
「第2条。聖女リディアは、王国および大神殿の利益のため、その祝福を最優先に用いること」
「第3条。王太子レオンは、聖女の権威を損なわぬよう、その行動に配慮すること」
祝福を最優先。配慮。
紙の上では対等に並んでいるようでも、現場を知る目で見れば、どちらにどれだけ負担がかかるかは明らかだった。
(私が最優先で尽くす条文は、山ほどあるのに)
(私を休ませる条文は、ひとつもない)
脳裏に加護タグのイメージが浮かぶ。第2条の部分だけが、濃く重く光っている。
休息。安全。拒否。
そのあたりに結びつくタグは、薄く霞んだままだ。
(……聖女としては、これくらい当然、なのよね)
自分に言い聞かせるように、私は膝の上で指を組み直した。
「条文について、ご質問、ご不明点はありますか」
一通り読み上げを終えると、文官が顔を上げる。
レオン殿下が、先に口を開いた。
「特にない。形式通りで構わない」
神殿との会議でも、彼がよく口にしていた言葉だ。
私はそれにならって、首を横に振る。
「私からも、ありません」
本当は山ほどある。けれどそれは、「聖女として」ではなく「私個人」としての不満で、ここで口にしていいものではない。
「では最後に、両名の署名をお願いいたします」
文官がペンを差し出し、羊皮紙をこちら側へ回してくる。
レオン殿下が先にペンを取り、自分の名を迷いなく書き入れた。墨の線が走るごとに、契約書の上に淡い光が浮かぶ。
次は、私。
深く息を吸い込み、「リディア」の文字を、定められた欄にゆっくり書き込む。ペン先が紙を滑るたび、私の祝福と王家の紋章が、細い線で結ばれていくような感覚があった。
(これで、私は正式に王太子の婚約者)
そう思った瞬間、頭の奥に、聞き慣れた女神の声が響く。
《……形式通りですが、かなり片務的な契約ですね》
女神の敬語ボイスはいつも通り穏やかだが、内容だけは容赦がない。
《聖女側の利益条項が、ほぼ皆無です》
(今さら言わないでください)
私は心の中で苦笑した。
(大丈夫です。これは、国のための結婚ですから)
自分で思っていたよりも、きっぱりと言い切ってしまう。
《そうですか》
女神が、ほんの少しだけため息を混ぜた気がした。
《では、ログはきちんと保存しておきますね。三年後に、必要になるかもしれませんから》
必要。
その言葉に、私は首をかしげる。
(三年後も、私はきっとここで働いている。王太子妃として、聖女として。この契約を守り続けている。それを証明するための記録、という意味よね)
自分で自分を納得させるようにそう結論づけ、私は心の中で小さく頭を下げた。
(お願いします、女神様)
署名が終わり、文官が契約書を抱えて下がる。
「これをもちまして、両名の婚約は正式なものとなりました」
その言葉に合わせるように、加護タグの光が、私とレオン殿下の間をするりとつなぐ。
「リディア」
椅子から立ち上がったレオン殿下が、まっすぐこちらを見る。
「はい、殿下」
「先ほどの王妃の言葉の通り、これは白い結婚だ」
彼は、丁寧で誠実な声音で続ける。
「私は、君を妻として愛することはできないかもしれない。だが、聖女としての役割と立場は、尊重するつもりだ」
前の世界で、上司に言われた「個人の感情はともかく、働きぶりは評価している」という台詞を思い出す。
「君の祝福がなければ、この国は立たない。だからこそ、君の働きを邪魔するつもりはない」
それはつまり、「ずっと働き続けてほしい」という意味だ。
休めとは言われていない。守るとも言われていない。
けれど、責められているわけでもない。
「……ありがとうございます」
私は、聖女としての微笑みを崩さずに返した。
「私も、国と神殿、そして殿下のために、できる限りの役割を果たします」
それが、今の私にできる、最も無難で安全な返事だった。
(仕事として割り切れば、きっとやっていける)
《本当に、それでよろしいのですか》
部屋を出る直前、女神の声がもう一度問いかけてきた。
(今は、これが一番、丸く収まる形です)
私は心の中で静かにうなずく。
(私の気持ちより、国の契約の方が重たい。そう教えられてきましたから)
《では、その考えも一緒に記録しておきましょう》
女神の羽ペンが紙をなぞるような、さらさらという気配がした。
契約確認室を出て、王宮の回廊を歩く。窓の外には、川の向こうにそびえる大神殿の尖塔が見えていた。
(私の婚約も、あそこで扱う数多い契約のひとつ)
国のための契約。
私は、それを守るために三年を差し出すと決める。
このときの私は、「必要になる」の意味を、まだ国のためとしか結びつけていなかった。
三年後、そのログが、私自身を守るために使われることになるとも知らずに。
物語を読み届けてくださり、ありがとうございます。
今回の第4話は、リディアの人生が静かに、けれど決定的に「軋み始めた瞬間」を書きました。白い結婚という言葉の透明さの裏に沈む感情、その影に気づいていただけたなら嬉しいです。これから三年間の積み重ねが、彼女をどこへ運んでいくのか。ぜひ見届けてください。
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