第19話 契約文の「見えない1行」
窓の外から、まだ微かに歌声が聞こえた。
「お前を愛するつもりはない」を陽気に替え歌にしたものだ。笑い話のはずなのに、夜になると胸の奥に棘が戻ってくる。言葉って、剣にも玩具にもなる。
「聖女様、今日はもう休んでください。これ以上、目を使ったら倒れます」
ティオが湯気の立つハーブ湯を私の手に押し込んだ。
「倒れたら、あなたの仕事が増えるでしょ」
「増えてもいいので、増えさせないでください」
私は飲み干して寝台に潜り込む。灯りが落ち、瞼が閉じる直前、頭の内側で軽い足音がした。
《おやすみなさい。と言いたいところですが、残業です》
(女神様、鬼ですか)
《鬼はもっと丁寧に脅します》
視界が裏返り、寝室の天井が消えた。代わりに光の板が水面みたいに広がる。女神様のログルーム。
《本題。あの騒ぎの根拠にされている契約、署名レイヤーが変です》
指が鳴り、光の巻物が浮かぶ。表題は「聖女権威検証契約」。条文は整然としていて、むしろ正しそうに見える。
(だから怖いんだ……)
末尾が拡大される。すると、いちばん下だけ、別の書体が薄く浮いた。古いルミナリア語のフォント。銀色がかったインクの、細い線。
「……読めません」
《読めなくて正解です。読むための鍵が、うちの世界契約にありません》
女神様はその「見えない1行」に、勝手にルビを付けていく。
自己犠牲。権威。光。是正。
《ざっくり訳すと、「真に公正なる光の御名において、自己を捧げた者に権威を移す」みたいなものですね》
「自己を捧げた者……誰のことですか」
《条件がそろった瞬間に決まります。トリガー付き。しかも》
羽ペンが、銀色の文字列をとん、と叩いた。
《条件を満たした瞬間、この銀色レイヤーの神様が「公正な第三者」として介入できます。ログ上では、わたしの承認も自動で取れた扱いになる設計です》
「……承認、したことにされる?」
背中が冷えた。穴じゃない。扉のふりをした裏口だ。
《人間側の言い方をすると、バックドア》
(雑に前世用語を使わないでください)
《便利なので》
私は銀の線を見つめた。ミレーヌの横顔が浮かぶ。勝ち誇るでもなく、ただ硬い仮面をかぶっていた顔。
「じゃあ、この契約は最初から……誰かが身を削る前提で?」
《はい。公正さを証明するための自己犠牲。光属性っぽいですね》
「嫌味が刺さる」
《共有したほうがいい。ログ共有、かけますね》
空に通知窓が出現した。次の瞬間、そこから黒髪の男が半分寝ぼけた顔で現れる。セルジュだ。
「……また深夜案件ですか」
「夢でも定時が欲しいです」
「同意します。要点を」
セルジュが銀の1行を見て、目を細めた。
「要するに、自己犠牲を条件に、聖女の権威を第三者の神に移管できる。そういう一文ですね」
「第三者監査って、言葉の見た目が優しいだけで……」
《外側だけ綺麗。内側は仕様が黒い》
私は拳を握る。ポスターより、替え歌より、この1行のほうが怖い。紙の上の理想が、誰かの命と交換される設計。
「……ミレーヌさんが、その『自己を捧げた者』になる可能性が高いんですよね」
セルジュは一拍置いた。
「構造を見る限り、彼女を英雄にする保険というより、彼女が自分を捧げたときだけ発動する仕掛けにも見えます」
胸が縮んだ。敵だと切り捨てたほうが楽なのに、そうできない。
「監査する側を監査する契約を、こちらで作る必要が出てきましたね」
「……作れますか」
「作ります。作らないと、この国の主導権が紙1枚で抜かれる」
《明日、条文読み合わせの場が用意されます。頑張ってください》
(神様は会議室から逃げないんですか)
《逃げません。怒っている神様ほど、会議に来てくださるので》
◇
翌日。王宮の小会議室の中央に、巻物の契約書が置かれた。
クロード宰相、アグナス大神官長、セルジュ、私、ティオ。そして白い法衣のルミナリア司祭シルヴァン。
「本契約が、王都の騒ぎの根拠として頻繁に引用されている」
クロード宰相が言う。
「内容を正しく把握しておく必要がある。陛下のご意向だ」
「もちろんです」
シルヴァン司祭は穏やかに微笑んだ。
「公正さを疑われることなど、我らの本意ではありませんから」
ティオが読み上げを始める。前半は、耳障りのいい「理想」だ。誰にでも公平に、監査は受け入れるべきだ。
私は内心で舌打ちした。前の世界で何度も見た、建前だけ正しい規程の匂い。
巻物のいちばん下に近づくにつれ、喉が乾く。
シルヴァン司祭が、末尾をさらりと読んだ。
「以上の趣旨に基づき、真に公正なる光の御名において、己が身を捧げる者に、聖なる権威と奇跡の流れの是正を委ねるものとする」
装飾。祈祷文。そう思わせる速度。
アグナス大神官長が唸った。
「……どこの神でも使う決まり文句だな」
『決まり文句じゃないですよ。それ、契約条件です。トリガー付きで』
女神様の声が、私の耳にだけ重なる。
私は息を吸い、手を挙げた。
「待ってください。その1行、流されると困ります」
全員の視線が刺さる。私は末尾を指さした。
「インクの色が違う。ほんのり銀色です。書体も、ここの公用語じゃない」
ティオが目を凝らし、頷いた。
クロード宰相が口の端を上げる。
「随分と趣味の悪い飾りだな」
シルヴァン司祭は笑みを崩さない。
「古い祈祷文です。信仰の美しさを損なわぬための……」
「意味を」
セルジュが静かに遮った。
「誰が、何を、どこまで委ねられるのか」
司祭は一瞬だけ瞬きをしてから、柔らかな声で答える。
「『己が身を捧げる者』とは、信仰のために自己を犠牲にする、清き魂全般を指します」
全般。つまり、誰でもいい。誰かが捧げれば、発動する。
アグナス大神官長が重い息を吐いた。
「公正さを聖女1人に背負わせてきたのは、神殿の怠慢でもある。だが、だからといって、自己犠牲を前提にするのは……信仰ではなく構造だ」
クロード宰相が乾いた声で言った。
「国境の外の神が覗ける仕組みは、国益に反する」
セルジュは机に指先を置き、淡々と言い切った。
「国境の外からどんな神が覗き込もうと、この国の働き方は、こちらの条文で決めます」
静かな宣言なのに、室内の空気が少しだけ冷える。
私は巻物の銀色を見たまま、喉の奥で言葉を転がした。
(ミレーヌさん。あなたは、何を捧げるつもりなの)
《……いいですね。今の一文、後で条文化しましょう》
耳の奥で女神様が楽しそうに言った。
私は笑えなかった。見えない1行は、誰かの未来を削るための細い刃だ。
そして、その刃が向かう先にいるのが、敵だけとは限らない。
窓の外で冬の光が白く揺れていた。まるで、銀色のインクが空まで伸びていくみたいに。
ここまで読んでくださりありがとうございます!契約文の「見えない1行」、いよいよ本性を出しました。次回はセルジュが「こちら側の条文」で反撃、リディアも守られる側へ一歩。続きが気になったらブックマークで追跡を。面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】評価&感想も励みになります!




