第18話 「お前を愛するつもりはない」ポスター
朝もやの残る聖女通りで、紙をこする乾いた音がした。
市場へ抜ける角。石壁に向かって、誰かが大きな紙を押しつけている。
「そこ、もっと上! 見出しが目に入らないと意味がないだろう!」
声の主は、まだ若い貴族の男だった。髪は整いすぎていて、笑みが軽い。たぶんレオン殿下の取り巻きの、取り巻き。そういう種類の人は、私の過去3年の現場にもよくいた。
貼られた紙に目が吸い寄せられる。
飾り枠が妙に凝っていて、文字の縁取りには金の線。インクは黒だけじゃなく、青みのある影が混ざっている。神殿の掲示物に似た上品さが、逆に不気味だった。
大見出し。
「聖女離婚の真実!」
そして、赤い線で囲まれた一文が、どん、と胸を殴る。
「お前を愛するつもりはない」
……空気が、冷えた。
言葉そのものより、あの瞬間の私の息の仕方まで、勝手に街角へ貼られてしまったみたいで。
「聖女さま!」
隣で、ティオが慌てて私の前へ出た。若手神官のくせに、こういうときの反射神経だけは騎士団級だ。
私は、足を止めたまま、ポスターを見上げる。
「剥がさせましょうか。騎士団に――」
「いいえ」
声が思ったより低く出た。自分でも驚くくらい冷静で、喉の奥だけが少し痛い。
「……この言葉を言ったのは事実ですから」
ティオが唇をかみ、目だけで「それでも」と訴えてくる。私は小さく首を振った。
ここで取り乱したら、それこそ彼らの思うつぼ。『感情的な聖女』という烙印は、紙より強く貼りつく。
通りを行き交う人が、ポスターに気づき始める。
最初に声を上げたのは、買い物籠を抱えた年配の主婦だった。
「まあ、ひどいこと言う王子さまねえ。聖女さま、よく我慢してたわね」
「……あれ、王子さまが言ったの?」
商人が眉を上げる。「それ、言っちゃったんだ……」と、なぜか同情の顔。
その横で、若い娘がふふっと笑った。
「でも、ちょっと歌いやすいフレーズよね。『お前を愛するつもりはない〜♪』って」
え、と私が瞬きするより早く、子どもたちが真似をした。
手を叩いて、足を鳴らして、即席のリズム。
「お前を愛するつもりはない〜♪」
「じゃあ別の人と契約しよ〜♪」
……なにそれ。私の黒歴史が、童謡みたいに加工されている。
恥ずかしさで頬が熱くなるはずなのに、胸の奥が少しだけ軽くなった。切り取られて武器にされた言葉が、別の切り方で、ただの笑いになる。
怖いのに、救われる。
ポスターを貼っていた若手貴族が、周囲の温度差に苛立ったのか、顔をしかめた。
けれど民衆は、怒るでも泣くでもなく、勝手に消化していく。こういうところが、この国の強さであり、適当さでもある。
「……行きましょう、ティオ」
今日も監査委員会だ。昨日の吊るし上げの続き。
私は息を整え、石畳を踏み出した。
◇
行政区の臨時会場は、外から見ればただの会議室だった。けれど扉の向こうには、昨日と同じ、湿った緊張が詰まっている。
控室に入ると、壁越しに声が漏れた。
「……あの台詞は確かにいただけない」
「だが、王太子の発言をここまで晒すとは。品位の問題だ」
品位。便利な言葉だ。誰の品位かは、いつも曖昧なまま。
机の上に、さっきのポスターの写しが1枚置かれていた。誰かがここにも持ち込んだらしい。
紙の角が、やけに綺麗に裁断されている。金がかかっている。
「おはようございます、聖女殿」
扉がノックされ、セルジュが入ってきた。宰相補佐の顔はいつも通り淡い笑みなのに、目の奥だけが冷えている。
彼は椅子に座る前に、ポスターを持ち上げた。
「……印刷された紙、ではありませんね」
「証拠、ですか」
「はい。契約の運用が、いかに雑に行われているかの証拠です」
さらりと、心臓に痛いことを言う。
セルジュは紙面を指でなぞり、眉をひそめた。
「女神のログから引用したにしては、編集が粗いですね。前後がつながっていない」
「勝手に切り貼り……」
「都合のいい切り取りは、どこにでもあります。問題は、ここです」
彼の指先が、ポスターの隅の小さな文字に止まった。
読めるか読めないかの大きさで、こう印字されている。
『聖女権威検証契約 第7条に基づく情報公開』
「情報公開……?」
「ええ。彼らは『契約に書いてあるから』と言い訳できる形にした。ですが」
セルジュが私を見る。
その視線は、昨日の尋問よりずっと真っ直ぐで、ずっと優しい。
「解釈次第では、逆にこちらの武器になります」
「……どういう意味ですか」
「『情報公開』を根拠にするなら、開示対象は公平であるべきです。王太子側のログも、同じ範囲で開示されるべきだ」
言われて、背筋がすっと伸びた。
私の人生のしんどい瞬間が貼り紙になるなら、殿下の人生のしんどい瞬間も、同じルールで並ぶ。怖い。けれど、初めて「公平」が武器になる気がした。
《あの音声ログ、私は神前確認式の証拠として保管しただけなんですけどね》
頭の中に、透明な水音みたいな声が落ちる。女神様だ。
《使用許諾契約なんて結んでませんよ、あちらとは》
「無断転用じゃないですか……」
《人間側が勝手に書き起こしてるだけなので、ぎりぎりセーフ……というか、法の穴ですね》
女神様、あっさり怖いこと言う。
セルジュが小さく咳払いをして、真面目な顔で頷いた。
「穴は、埋められます。いずれ条文で」
「監査する側を監査する条文、ですか」
「ええ。あなたが昨日言った通りです」
私は笑うべきか、息を吐くべきか分からなくて、ポスターの赤線を見つめた。
赤線は、まるで『ここを読め』と命令するみたいに鮮やかだ。けれど、その下の小さな文字のほうが、ずっと危険で、ずっと役に立つ。
扉の向こうで、委員が名前を呼ぶ声がした。
今日も戦場だ。私は立ち上がる。
「行きます」
「はい。私も同席します」
セルジュが、私の歩幅に合わせて並んだ。その距離が、昨日より少し近い気がして、胸が変に落ち着いた。
◇
昼前、会場を出ると、遠くからまた歌が聞こえた。
ポスターの言葉が、街で勝手に育っている。
その瞬間、頭の中で女神様が、やけに楽しそうに言った。
《今、王宮の方が面白いので中継します》
「え、やめてください。私、今それどころじゃ――」
返事を待たずに、視界の端に光の膜が広がった。見えないはずの場所が、まるで水面みたいに映る。
豪奢な執務室。机の上には、同じポスターの束。
「誰がそんな歌を許可した」
レオン殿下の声は、硬い怒りで割れていた。束が乱暴に叩きつけられ、紙が散る。
その横で、ミレーヌ侯爵令嬢が窓の外へ目を向けた。遠くの子どもたちの歌が、ここまでかすかに届いているのだろう。
「……言葉は、一度世に出てしまえば、もう陛下のものではございません」
ミレーヌの声は静かで、だからこそ怖かった。
あの人も、何かを飲み込んでいる。笑顔の奥に、契約みたいに固い何かがある。
「黙れ」
「はい」
ミレーヌはうつむき、手袋の指先を絡めた。その仕草が、なぜか祈りの姿勢に見えた。
《攻撃って、狙い通りに刺さらないことも多いんですよね》
「女神様、実況やめてください……」
《黒歴史の再利用には気をつけましょう、って第1部で言いましたよね?》
知らない部の話を急に振らないでください。
思わず心の中でツッコミを入れたところで、光の膜はすっと消えた。
現実の街は、相変わらず明るい。
通りの向こうで、若い兵士が2人、ポスターを見上げて笑っている。
「俺なら絶対こんなこと言わないけどな」
「いや、お前、酔ったら言いそうだぞ」
「言わねえよ! ……たぶん!」
その「たぶん」に、周りの人がどっと笑った。
私は、胸の奥の硬い塊が、少しだけほどけるのを感じた。
言葉は誰のものか。
少なくとも、今日この瞬間の私の心は、私のものだ。
そして、紙の隅の小さな条文が、次の戦いの入口になる。
セルジュが隣で小さく呟いた。
「印刷の縁取り……神殿の外の系統に似ていますね。調べましょう」
「はい。今度は、こちらが『情報公開』を使う番です」
私はそう答え、ポスターの赤線ではなく、見えない一行のほうを心に刻んだ。
ここまで読んでくださりありがとうございます! 「お前を愛するつもりはない」が街で替え歌になる地獄と笑い、いかがでしたか。次回は「契約文の見えない一行」が、静かに牙をむきます。面白かった!と思っていただけたら、ブックマークと広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援してもらえると励みになります!




