第16話『聖女依存社会』を揺さぶる契約
騎士団の打ち上げから数日。王都アルシエルの朝は、昨日までの熱気を知らない顔で始まる。
市場へ向かう石畳の道を歩きながら、私はつい自分の手元を見た。指輪の感触があるだけで、呼吸が少し楽になるのが悔しい。
「今日は、果物を買うだけです。事件は起こしません」
「事件は待ってくれませんからね」
セルジュはいつもの丁寧語で、いつものように意地悪く現実を言う。
隣でティオが荷籠を抱え直し、勢いよく頷いた。
「聖女様、今日はお休み寄りの予定です! 神殿の相談枠も……」
「ティオ、声が大きい。『休み』はこの国だと禁句に近いんだよ」
「えっ、そ、そうでした……!」
そんな会話のまま中央広場へ差しかかった瞬間、人だかりが視界に刺さった。
掲示板の前。いつもなら求人や失せ物の紙が数枚、平和に貼られている場所だ。
今日は違う。黒い縁取りの紙が、壁の肌が見えないほどびっしりと貼られていた。
『聖女の奇跡は、本当に「公正」ですか?』
見出しが大きすぎて、目を逸らせない。
その下には、小さな活字が、淡々と刺す。
「王族の病は一晩で癒やされた」
「名家の結婚式には必ず聖女の祝福がある」
「しかし、貧民街の子どもの病や、小さな商人の破産は、祈っても祈っても叶わなかった」
喉の奥が、ひやりと冷えた。
私は万能じゃない。祈りの対象だって、祝福の回数だって、体力だって、限界がある。
それでも、書かれている事例は、いくつかは事実に近かった。救えなかった顔が、文字の隙間から覗く。
「……聖女様、これ……」
ティオの声が震える。
周りの市民の声は、もっと生々しい。
「ほら、うちの息子だってさ。祈願の順番、後回しにされて」
「王族のほうが先なのは当たり前だろ、国が倒れたら皆困る」
「でもさ、じゃあ『聖女の奇跡』って誰のものなんだよ」
「監査だよ、監査。誰かが見張らなきゃ、公正にはならない」
監査。公正。見張る。
言葉は正しそうで、だからこそ胃に悪い。
《公正っていう言葉、便利ですよね。切れ味がいい》
頭上の残光が、雲の切れ目で瞬いた。
女神様の声は軽いのに、背中に冷たい指を添えられたみたいだった。
「……公正を、数字で証明し始めた瞬間から。それは誰かの武器になります」
私の口から勝手に出た言葉に、自分でも驚く。
セルジュが、微かに目を細めた。褒める時の顔じゃない。危険を確信した時の顔だ。
ティオが拳を握りしめ、掲示板へ一歩踏み出す。
「こんなの、全部はがしましょうか!」
その勢いに、周囲の視線が一斉に刺さる。聖女の側が紙を剥がす。
それが意味するものを、私は前の世界で嫌というほど見た。
私は静かに首を振った。
「『都合の悪い紙』を破るだけなら、前の世界の上司と同じです。どうせなら、『都合の悪さごとテーブルに乗せた』契約を作りたい」
ティオの目が見開かれ、次に悔しそうに潤む。
セルジュが小さく息を吸ったあと、淡々と結論を置く。
「では、テーブルに上げてきた人たちの『仕掛け』を見に行きましょうか。貼り紙は結果です。原因を見ます」
「原因……」
「ええ。誰が、どの条文を、どこで動かしたのか」
黒枠の中の大きな「?」が、朝日を吸ってさらに黒く見えた。
◇
その夜、私は神殿の屋上で風に当たっていた。
ここは、祈りのざわめきが少しだけ届かない場所だ。セルジュは下で書類を整理し、ティオは「怒りの炭水化物」を求めて食堂に消えた。
《見せます?》
女神様の羽ペンが、空に小さな円を描く。そこに、薄い光の羊皮紙が開いた。
契約ログ。つまり、この世界の「誰が何にサインしたか」の痕跡だ。
(……まさか)
《まさかです。数週間前に、王太子殿下が、ちょっと面白い契約を結んでます》
光が滲み、景色が立ち上がった。
薄暗い礼拝室。アルシオンの大神殿とは違う香の匂い。壁には、傷ついた羊を抱く女神の浮彫りがある。
ルミナリア聖王国系の別館。そこに、レオン王太子とミレーヌ侯爵令嬢が座っていた。
レオンは、王太子らしく背筋を正しているのに、指先だけが落ち着きなく椅子の肘を叩く。
目の前の司祭は、柔らかく笑いながらも、笑顔の裏に刃を仕込んだまま話す。
「これは攻撃ではございません。検証です。公正さを可視化するための、監査契約」
「……聖女は、もう十分に働いている」
「ええ。だからこそ、疑われたままの聖女を、いつまでも隣に置いておくことはできない。王太子殿下のお立場を、我らは案じております」
レオンの瞳が揺れた。責任感の人が、責任の名で追い詰められる時の揺れだ。
「条文は簡単です」
司祭が巻物を広げる。文字は整っていて、一見まともに見える。
それが一番怖い。
「第1条、祝福の案件は全て記録し、身分・地域・緊急度ごとに集計し、年4回、公開する」
「公開……」
「はい。公正は、透明性から生まれます」
司祭は続ける。
「第2条、疑義が生じた場合、聖女は誠実に説明し、必要な追加の祝福を提供する努力を負う」
「努力、ですか」
「真に公正な聖女は、己の身を削ることすらいとわない。そういう教えです」
ミレーヌが、膝の上で指を絡めた。白い手袋がきしむ音がした気がする。
レオンが短く言う。
「……それで、疑いが晴れなければ?」
司祭は、祈りの声みたいに静かに答えた。
「第3条。監査の結果、公正の欠如が重大だと判断された場合、聖女の権威は一時停止され、代替の祈り手が任を引き継ぐ」
引き継ぐ。代替。言い換えれば、剥ぎ取る。
レオンの指が止まった。次の瞬間、署名欄へ羽ペンが滑る。
王太子の名が、さらりと書かれた。
遅れて、ミレーヌがペンを取る。
笑みは貼り付いたまま。けれど、目だけがどこか遠い。
署名が終わった瞬間、司祭が契約の末尾へ、別のインクを一滴落とした。
黒でも赤でもない。銀色に近い光。
私の胸が嫌な予感で鳴る。
《このインク、後で大問題になるやつですね》
(今、言わないでください……)
契約書はくるりと巻かれ、司祭の手に収まる。
「この契約に基づき、『公正さ』を問う声を、王都に少しずつ広げましょう。聖女殿のためにも、良い『試験』となるはずです」
光景が途切れ、私の目の前に夜の屋上が戻った。
そして、女神様が指先を弾く。
別の場所。神殿裏の印刷台。
黒枠の紙が、同じ見出しを何枚も吐き出していく。
インクの匂いと、乾ききらない「?」が、重なっていく。
――こうして、『聖女依存社会』を揺さぶる契約は、
まだ誰も気づいていない場所で、静かに発動していた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!『公正』の名で聖女を縛る監査契約が動き出しました。リディアは紙を破らず、条文で殴り返せるのか。続きが気になったら、ぜひブックマークで追いかけてください。面白かった!と思っていただけたら、広告下の【☆☆☆☆☆】から評価も頂けると励みになります!




