第15話 騎士団からの祝杯と、契約夫婦の夜
騎士団本部の大食堂に足を踏み入れた瞬間、私は鼻の奥を殴られた。
麦酒と肉と、汗と金属と、勝利の匂い。
「聖女様だ!」
「宰相補佐殿も! こっち! こっち空いてます!」
長机が何本も並び、樽がどんと鎮座している。壁には遠征の戦利品代わりに、破れた旗が飾られていて、そこに誰かが雑に花を挿していた。
祝杯。しかも名目が、いちばん珍しいやつ。
ロラン団長が、杯を掲げて立ち上がる。
いつもなら背筋の硬い男が、今夜だけは肩の力が抜けて見えた。
「……今回の遠征。戦死者ゼロ」
たったそれだけで、食堂のざわめきが一瞬止まる。
「重傷者は出た。だが全員、生きて帰ってきた。……生きて、帰ってきた」
机の上に置かれた木の杯が、誰かの手の震えでカタカタ鳴った。
私はその音を聞きながら、昔ならこの場で褒められていたものを思い出す。
名誉の戦死。立派だった、誇りだ、と。
けれど今夜、褒められているのは、命が残ったことだ。
「乾杯!」
次の瞬間、歓声が爆発した。
椅子が鳴り、机が叩かれ、杯がぶつかる音が雨みたいに降る。
「撤退命令を出した隊長が、英雄扱いされる日が来るとはな!」
「団長、あのとき足が震えたって言ってましたよね! 今も震えてます?」
「黙れ、若造!」
ロラン団長の眉間に皺が寄るのに、口元だけが笑っている。
私は思わず息を吐いた。緊張が抜けたというより、胸の奥に詰まっていたものがほどけた感じだ。
「聖女様、飲めますか?」
包帯を巻いた中堅騎士が、恐る恐る杯を差し出してくる。
「ええ、少しだけ。仕事ではなく打ち上げですから」
「よし! 聖女様がそう言った!」
なぜかそれが合図になって、肉の皿が私の前に積まれ始めた。どんどん積まれる。
「リディア、食べきれませんよね」
隣でセルジュが静かに言い、私の皿の一部を自分の方へ滑らせた。
あまりに自然な動きで、騎士たちが一斉に「うおお……」と変な声を出す。
「仲良しかよ!」
「いや仲良しだろ! 夫婦だぞ!」
「契約夫婦は、契約の範囲内で仲良しなのか……?」
その最後の言い方が、やけに真面目で笑ってしまった。
セルジュは杯に口をつけるふりだけして、ほとんど飲まない。周囲の酔いが増していくほど、彼の目の冴えだけが際立つ。
「おい、歌だ! 歌!」
「遠征の歌は縁起悪い! 今夜は新曲だ!」
「新曲って、何の……」
若手が立ち上がり、机の上に片足を乗せた。
嫌な予感がした。
「いくぞー! せーのっ!」
そして、食堂に響き渡ったのは、聞き覚えがありすぎる言葉だった。
「お前を愛するつもりはなーい!」
私は反射で背筋を固めた。
けれど次の瞬間、続きが違った。
「だが撤退権は守りたーい!」
「お前を置いて突っ込むつもりはなーい!」
「撤退基準を守れない奴は、上司に叱られたーい!」
下手くそで、うるさくて、どうしようもなく馬鹿な替え歌。
机を叩くリズムも、合いの手も、全部が雑で、だからこそ本気じゃないと分かる。
私の喉の奥に残っていた刃の感触が、じわじわ鈍っていく。
あの日、神前で流された「元音声」は、胸を切る刃だった。
でも今のこれは、鈍い木刀みたいだ。痛いはずなのに、笑ってしまう。安全な距離がある。
「聖女様、歌って! サビ! サビ!」
「えっ、私は……!」
セルジュの指が、私の袖口を軽く引いた。
横目で見られている。表情の変化を、逃さない目。
「不快なら、すぐ止めさせますが」
低い声が耳に触れ、私は小さく首を振った。
「……大丈夫です。もう、あのときの私とは違うので」
そう言って笑うと、セルジュの瞳の奥が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
天井の梁のあたりで、淡い光がくるくる回った気がした。
契約の女神様が、見物ついでに日報でもつけているのだろう。
(本日付け。例の黒歴史ワード、騎士団飲み歌へ変異確認。致死性ほぼゼロ。教育的笑い話レベル)
そんな声が、勝手に脳内に字幕みたいに流れてきて、私は危うく噴き出しそうになった。
「聖女様、笑った! 勝ちだ!」
「何に勝ったんだよ!」
騎士たちは、笑いながら飲んで、笑いながら肩を叩き合う。
「生きて帰る」ことを、こんなふうに祝っていいのだと、今夜ようやく世界が許したみたいだった。
◇◇◇
お開きになった頃には、外の空気が冷たく澄んでいた。
騎士団本部から大神殿へ続く夜道は、石畳が月光を吸って、銀色に光っている。
背後ではまだ、食堂の中の歌声が漏れていた。
あの言葉が、もう誰かを刺すための刃ではなくなっていく音。
「……騎士たち、元気ですね」
私が言うと、セルジュは小さく頷いた。
「元気であるべきです。生き残った者には、祝う義務がありますから」
その言い方が、いつもの業務口調で。
私は笑いながら、手袋の上から指輪を触った。
内側に刻まれた一文は、見えないのに、確かにそこにある。
「さっきの歌、私……変なところで安心しました」
「安心、ですか」
「はい。あれを笑えるほど安全な場所を、私たちは一緒に作ったんですよね」
セルジュの歩幅が、ほんのわずかだけ小さくなる。
並んで歩く距離が、自然に縮まった。
大神殿の回廊に入ると、灯りが柔らかく私たちを包む。
自室の手前、静かな廊下で、セルジュがふっと立ち止まった。
「……騎士団の条文は、ひとまず形になりました」
その声が、少しだけ冷える。
「けれど、あなたを守る条文は、まだ足りませんね」
「え?」
思わず瞬きをする。
「聖女勤務契約も、夫婦契約も、かなり厚めにしていただきましたけど」
セルジュは、答える前に、ほんの一瞬だけ視線を遠くへ滑らせた。
実際には壁しかないのに、その目は「家」という言葉の方向を見ているようだった。
「あなたを、国と神殿から守る条文は、ようやく整ってきました」
そして、言葉を落とす。
「ですが……私の家から守る条文は、まだ手つかずです」
胸の奥が、すとんと冷える。
セルジュの「家」。
この人がいつも淡々としている分、そこに何かあるのだと分かってしまう。
だから私は、冗談の形を借りた。
怖いものを、言葉にするために。
「じゃあ、家族案件用に……『夫の実家がブラックだった場合、聖女に相談する権利』って条文でも足します?」
自分で言っておいて、私は顔が熱くなった。私、何を言っているの。
セルジュが、堪えきれないみたいに小さく笑った。
それが、今夜いちばん甘い音だった。
「その条文、ぜひ正式に検討したいところですが」
彼は一歩近づき、私の額に触れるほどの距離で囁く。
「今夜は、騎士たちの勝利を邪魔しない程度にしておきましょう」
「勝利を邪魔しない程度って……ここ、もう静かですけど」
「では、あなたの睡眠を邪魔しない程度に」
言い換えが、ずるい。
私は笑って、でも逃げずに、彼の胸元の制服布をぎゅっと掴んだ。
「……後日、ちゃんとテーブルを用意して話し合いましょう。条文も、全部」
「はい」
返事は短いのに、握られた手が熱い。
セルジュは私の手袋を外すのを待ってくれた。
指輪に触れた指先が、私の指の輪郭を確かめるようにゆっくり動く。
「今日、あなたが笑ったのを見て」
彼の声が、少しだけ震える。
「私は、安心しました。……同時に、欲が出ました」
「欲?」
「守りたい、という欲です」
契約書みたいな言い方なのに、胸の奥だけが直接あたたまる。
私は言葉を探しているうちに、気づいた。
この人はいつも、私を守る条文を増やすことで、自分の恐れも押し込めているのだと。
私は背伸びをして、セルジュの頬に軽く口づけた。
静かすぎて、自分の心臓の音がうるさい。
「……では私も、欲を申告します」
「申告を」
「あなたを守る条文。いつか必ず、書きます」
セルジュの目が、驚いたように見開かれ、それからゆっくり細くなる。
彼は私の手を取り、指輪の上にそっと唇を落とした。
「あなたを守る条文は、まだ足りませんね」
廊下の影で、誰かの残光が、満足そうに揺れた気がした。
ここまで読んでくださってありがとうございます! 騎士団の祝杯で、リディアがようやく笑える距離を手に入れた回でした。もし「ニヤけた」「続きを読みたい」と思っていただけたら、広告下の【☆☆☆☆☆】で評価、ブックマークもぜひ。感想も1言でも飛び跳ねます! 次回、セルジュの家族案件が静かに動き出します。




