第13話 「生きて帰った」騎士たち
王都北門の石畳は、夕方の冷えた光を吸い込んでいた。
角笛が鳴って、門の上の衛兵が叫ぶ。
「帰還だ! 北の森、騎士団帰還!」
歓声が上がる……はずなのに、最初に聞こえたのは、荷車の軋む音と、鎧を引きずる音だった。
血の匂いが、風に混じる。勝利の匂いじゃない。生き残った人の匂いだ。
私は治癒班のテントへ駆け込みながら、革のフォルダを胸に抱え直した。
あの仮契約。撤退基準と搬送ルートと、そして「撤退を決めた隊長を評価する」条文。
紙の上の線が、今日いちばん重い。
「聖女様! こちら!」
担架が運び込まれる。顔をしかめた若手の騎士が、私を見て無理に笑った。
「……聖女様、俺、生きてます」
「カイル。威張らなくていいから、黙って息して」
肩から先が真っ赤で、腕は吊られている。皮膚の下で骨が主張していた。
私は手を当て、祝福を流し込む。熱が、体の奥から湧き上がるみたいに戻ってくる。
『死者0ですね。重傷多数ですが、この戦果なら黒字決算です』
(人の命で帳尻を合わせない決算なら、何度でもやります)
頭の中の女神の声に、私は心の中で即ツッコミを入れた。
でも今日は、女神のボケが、救命ボートみたいに浮かんでいる。
「……痛っ」
「痛いのは生きてる証拠。ほら、次、動かないで」
テントの外で泣き声がした。家族だ。
鎧の袖が片方しかない夫に抱きついて、泣きながら笑っている。子どもが「おかえり」と叫んで、転んで、また走る。
これが「死者0」の顔だ。
ひと息ついたところで、騎士団本部前の広場へ向かった。
書記官が、いつもの手つきで死亡者名簿を開く。慣れていること自体が、胸に刺さる。
ページがめくられ、今日付の欄が……空白のまま止まった。
「欠員……なし」
「死者……0」
誰かが、喉を鳴らして笑った。泣いたのかもしれない。
ティオが名簿を覗き込み、そっとペンを置いた。
「……空欄って、こんなにありがたいんですね」
「うん。命の帳簿に、記入しなくていい日が来るなんて」
私は言ってから、言葉が震えていることに気づいた。
広場の端で、ロラン団長が黙って立っていた。いつもの鎧みたいな礼儀正しさのまま。
でも手袋の中の拳だけが、かすかに震えている。
若手たちが私の近くに集まってくる。カイルが包帯だらけのまま、軽口を叩いた。
「撤退ライン、越えるの怖かったっすね」
「怖くなかった奴いるのかよ」
「でも、生きて帰れたから文句ないです」
私は彼らの足元を見る。
石畳じゃなく、土が運ばれてきたままの地面に、足跡が2重に刻まれていた。
前に出た足跡と、引いて戻った足跡。どっちも同じ靴底で、同じ重さだ。
(あの線を越えた足跡が、きっといつか、誰かを守る条文の形になる)
◇
深夜の団長室は、戦後の静けさを押し固めたみたいに重かった。
窓の向こう、北側の丘が暗い影になっている。あの撤退ラインが走っていた場所だ。
小会議室のテーブルに、血で汚れた旧契約書と、新しい仮契約書が並べられている。
セルジュさんが淡々と報告を終えた。
「以上が本日の戦果と損耗です。死者0、重傷者8名」
「……うむ」
ロラン団長はうなずくだけで、しばらく何も言わない。
沈黙が、紙の間に沈む。
『ここ、黙って見守るべき場面ですね』
(女神様まで空気読むの、逆に怖い)
私は内心で肩をすくめた。ティオはメモを取る手を止めず、羽ペンの先だけがかすかに光る。
やっと、ロラン団長が口を開いた。
「……あの瞬間、『退け』と命じようとして、足が前に出なかったことがある」
「……第10話の時の」
口に出す前に、私は飲み込んだ。今は、彼の言葉を邪魔したくない。
「昔の戦場だ。撤退を命じれば、腰抜けと呼ばれる。殿下はそれをお望みにならない……そう思っていた」
団長の視線が、窓の外へ逃げる。
「言い訳なら、いくらでもあった。『撤退禁止条項』がある、と」
私は旧契約書に目を落とした。
そこにある、たった1行。
『前線保持のため、撤退を禁ずる』
紙の上の文字が、鎖みたいに見える。
「その時、俺は『退け』と言えなかった。仲間が……戻らなかった」
ロラン団長は喉の奥で、言葉を擦った。
「武勲と引き換えに、部下の顔を忘れていく自分が怖かった。……怖いのに、止まれなかった」
拳が、机の上で1度だけ開いて閉じる。
「今日、撤退ラインの手前で足が止まった。……そして叫んだ。『退け』と」
ロラン団長は笑った。笑い方が下手だった。
「撤退命令を出せて、初めて足が震えた」
私は静かに、旧契約の該当箇所を指で叩いた。
「団長の足を縛っていたのは、この条文ですね」
指先が紙に触れた瞬間、インクが冷たい。
「『前線保持のため、撤退を禁ずる』……この1行のために、どれだけの足が止まれなかったんでしょう」
「……俺は、守っているつもりだった。国を。前線を。だが……」
セルジュさんが、淡々と補足した。
「数字の上でも、今日の撤退は最善手でした。損耗を抑え、再投入の余地を残した」
そして、少しだけ声を柔らげる。
「ですが本当に撤退を決めたのは、団長の足です。契約は、その足を守るためにあります」
ロラン団長が、目を閉じた。長い沈黙のあと、うなずく。
「……線を引き直す」
「はい」
セルジュさんが羽ペンを差し出した。
「この条文に最初の2重線を引くのは、団長にお願いしたい」
ロラン団長の手が震える。
震えたまま、ペン先が紙に触れた。
太い2重線が、撤退禁止条項を貫く。
その瞬間、私の視界の端で、剣の形をした命捨てタグが、鎖ごとほどけるように光った。
刃先がぽろりと落ちて、かわりに丸い影が残る。盾の輪郭みたいに。
『はい、これで『命捨て契約』条文、廃止処理入りました』
(廃止処理って言い方、雑すぎません?)
『記録係なので、雑に見えて正確です』
私は笑いそうになって、口を押さえた。
ロラン団長は立ち上がり、扉の外へ声をかけた。
「数名、呼べ。見届けてもらう」
やがて中堅騎士たちが入ってきて、机の上の2重線を見て息を呑む。
ロラン団長は、はっきり言った。
「撤退命令を出した者を、腰抜けと呼ぶことは許さん。俺が今日、その命令でお前たちを生かした」
誰も言い返せない。言い返せるはずがない。
最後にカイルが、包帯のまま敬礼した。目が赤い。
「次は俺も、あの線を越えろと言える隊長になります」
笑っているのに、声が揺れている。
「……生きて帰って、また戦うために」
私は胸の奥で、息を吐いた。
(命を惜しまず戦う義務しか知らなかった人たちが、生きて帰る義務を覚えようとしている)
ロラン団長が窓の外を見たまま、低く呟く。
「……殿下は、こんな腰抜けの団長を、お許しになるだろうか」
「もし殿下が『戦う者を守る条文』を望まれるなら、殿下も変わらないといけませんね」
セルジュさんが私の隣で、いつもの無表情のまま頷いた。私の指先だけを、そっと握ってくる。
その温度が、今夜の現実を固定してくれる。
『さて。『戦う者を守る条文』の準備は整いました。あとは、国にサインしてもらうだけです』
ここまで読んでくださりありがとうございます!『撤退は恥』に2重線を引けた回でした。面白かった、続きが気になると思っていただけたら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援してもらえると励みになります。感想も大歓迎!次回、殿下の反応は……?




