第12話 契約の試験運用、実戦にて
夜明け前の大神殿は、紙の匂いより先に角笛の音が届いた。
扉を叩く音。駆け込んできたティオの頬は、紙より白い。
「聖女様、北の森で魔獣が……想定より多いって」
「分かった。ロラン団長に連絡を。……ティオ、深呼吸」
私がそう言った瞬間、背後で冷たい咳払いがした。
「連絡は既に走らせました。移動の馬車も、契約書どおり準備済みです」
セルジュさんはいつも通りの顔で、いつも通りに非常識な速さで段取りを済ませている。
手渡された革のフォルダには、あの「仮契約」。撤退基準、搬送ルート、連絡順、そして例の評価条項。
「……本当に、今日が初運用になるなんて」
「現場は、待ってくれません。だから契約が必要です」
言い切る声が、少しだけ柔らかい。
私の袖口を、そっとつまむ。
「リディア。無茶はしないでください」
「しますよ。緊急案件ですから」
「そこを条文で縛ったのでは?」
返せない。ずるい。
私はフォルダを抱え直し、ティオに目配せした。
「行こう。線を引きに」
♢♢♢
北の森へ向かう街道には、騎士団だけではなく、荷車が列を作っていた。
担架、包帯、水樽、そして荷台の端に見慣れた札。
『負傷者搬送ルート:第3中継所→第2救護所→後方治療所』
前は、こんな札、なかった。
怪我人は自分の足で戻れと言われ、戻れなければ置いていかれた。
それを「武勲の影」と呼んで、皆が見ないふりをしていた。
「……契約、回ってますね」
思わず漏れた声に、荷車の御者が肩をすくめた。
「昨日までの俺らなら、こんな荷車、笑われたさ。『臆病者の車』ってな」
「笑われなくなります。今日からは」
言い切ったのは私じゃない。前を歩くロラン団長だった。
鎧の背中が、いつもより少しだけ、真っすぐに見えた。
森の手前で隊が止まる。
地面に白い粉が撒かれ、杭が打たれる。1次撤退ライン。
その少し後ろに、もう1本。2次撤退ライン。
「聖女殿。祝福で、見えるようにできますか」
「はい」
私は膝をつき、白い線に手を置いた。
祈りを落とすと、粉は光を含んで、薄い銀の糸みたいに伸びていく。
そして、私にだけ見えていたはずのものが、皆にも見える形になる。
剣の形のタグ。胸元から地面へ刺さる、命捨ての印。
その先に絡む鎖が、撤退ラインの杭に結び付いている。
(足を縛る線……でも、今日は)
私は祈りの糸を、鎖の上に重ねた。
結ぶのではなく、ほどくための結び目を作る。
「撤退ラインを越えた者は、契約違反にならない」
ティオがフォルダを抱えたまま、必死に復唱している。
「撤退ラインを越えた者は、守られる」
その声が震えているのは、寒さのせいだけじゃない。
♢♢♢
開戦は、森の奥から始まった。
枝が裂ける音。土が跳ねる音。獣の咆哮が、体の内側まで揺らす。
「前へ!」
「固めろ! 囲まれるな!」
騎士たちが押し返す。鋼の壁が進み、魔獣が倒れる。
私は後方で、倒れた者のもとへ走り、祝福で傷を繋ぐ。熱い血の匂いが、祈りに混じる。
「聖女様、右腕……!」
「大丈夫。息、吐いて。……はい、次」
次、次、次。
前の私なら、ここで全部を背負って、倒れるまで祈っていた。
でも今日は、背負う順番が、契約で決まっている。
「負傷者は第3中継所へ!」
「担架班、動け!」
声が飛び交う。荷車が前へ出る。誰も「後ろへ下がるな」と怒鳴らない。
その代わり、線の位置が、少しずつ前後する。
そして、来た。
森が、もう1段、暗くなる。
大きい。硬い。速い。
魔獣の群れが、最初の倍で押し寄せた。
「団長! 左翼が崩れます!」
「……!」
ロラン団長の視線が、一瞬、1次撤退ラインへ走った。
足が、止まる。あの時みたいに。
けれど今回は、止まったのは足じゃなく、迷いだった。
「全隊、1次撤退ラインまで下がれ!」
その命令が空気を切った瞬間、怒鳴り声が割り込んだ。
「待て! 撤退は恥だ! 命捨て契約の騎士が退くなど……!」
ガルド隊長。
胸の剣型タグが、火みたいに赤く光っている。
「団長、今ここで退けば、武勲が消える! 王太子殿下の名に泥を……!」
「泥を塗るのは、死んだ後か」
ロラン団長が低く返す。
でもガルドは引かない。剣先で、撤退を始めた若手を押し戻そうとする。
「条文だって、『撤退を判断した場合は評価する』だけだ! 撤退の許可とは書いていない!」
「それ、違います!」
ティオが前へ出た。自分の体の半分くらいあるフォルダを掲げて。
手が震えて、紙が鳴る。けれど声は、鳴らない。
「試験運用条項、付則第2条! 『当該任務に限り、撤退禁止条項を停止する』!」
「そんなもの、現場で……!」
「現場だからです!」
ティオは喉を鳴らして、続きを読む。
「第7条、評価条項! 『指揮官が撤退命令を下し、戦死者を30%以上減らし、民間被害を抑えた場合、その判断を武勲として評価する』!
撤退判断は、恐怖による怯懦と見なさない! ……そう書いてあります!」
ガルドの顔が歪む。
「紙の上の理屈だ! 戦場は……」
「紙の上の理屈が、今、あなたの足を守ってるんです!」
私が言うと、ガルドの視線が刺さった。
怖い。けれど、もっと怖いものを知っている。
終わらない残業と、終わらせてもらえない契約だ。
「団長! 命令を!」
若手のカイルが叫ぶ。唇が切れて、血が光る。
ロラン団長は、剣を下げ、深く息を吸った。
「命令する。下がれ。生きて帰れ」
その瞬間、私の目に見えた。
剣のタグが、形を変える。
刃が丸くなり、盾になる。
鎖が、きしむ。切れるのではなく、ほどける音。
「……行け!」
命令が、今度こそ隊を動かした。
騎士たちは背中を見せながら、崩れないように後退する。
足が、線を越える。
越えても、誰も倒れない。誰も、罰されない。
私は最後尾で、倒れかけた騎士の肩を支えた。
「すみません、足が……」
「足は、動いてる。今はそれで十分」
1次撤退ライン。
光る線の上で、魔獣が唸り、しかし越えてこない。
越えてこられないのか。越えないのか。
どちらでもいい。今、ここに命が残っている。
「負傷者、ルート通りに回して! 祈りは……私が、ここで」
声を張ると、担架班が動く。荷車が走る。
契約書の中にしかいなかった単語が、今、泥の上を走っている。
♢♢♢
2次撤退ラインの手前で、ようやく息ができた。
数を数える声が、震えている。
「欠員……なし」
「死者……0」
誰かが、笑った。泣いた。分からない声だった。
ロラン団長は、光る線をじっと見つめている。
その目は、勝った者の目じゃない。生き残った者の目だった。
(撤退は敗北じゃない。守るために必要な戦術だ)
胸の奥で、何かが小さく音を立てて、ひっくり返る。
私自身の中の「退くのは悪い」という、古い鎖も。
『死者0……黒字決算』
脳内で、女神様の声が軽く鳴った。
いつもみたいに冗談めいているのに、どこか嬉しそうに聞こえるのが腹立たしい。
「……女神様、言い方」
『数字は嘘をつきませんからね。褒めてますよ』
ロラン団長がこちらを振り返り、短く頭を下げた。
「聖女殿。……ティオ殿も。助かった」
「いえ。助けたのは、条文です」
ティオが泣きそうな顔で言って、でも胸を張った。
その時、森の奥で、最後の咆哮がした。
線の向こう側で、何かがまだ動いている。
光る撤退ラインが、雪解け水みたいに淡く揺れていた。
まるで、この国だけじゃなく、もっと大きな地図に繋がっているみたいに。
私はフォルダを抱え直し、線のこちら側に足を揃える。
次にこの線を引く時、もっと多くの人が、迷わず退けるように。
まだ撤退は終わっていない。
でも、もう「退けない国」ではない。
読了ありがとうございます。撤退を「恥」ではなく「武勲」にするための、契約の初実戦でした。次話、守る条文が増えるほど敵も増えます。続きが気になったらブックマークで追ってください!面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】で評価もいただけると励みになります。




