第11話 撤退権という勇気
王都騎士団本部の詰所の広間は、今夜だけ半分酒場だった。
鎧が壁に立て掛けられ、机には大皿料理と樽酒。笑い声は賑やかなのに、私の目には別のものが見える。
騎士たちの肩に貼り付く、剣の形の光。命捨てタグ。先日の白い撤退ラインの鎖の気配が、まだ足首のあたりで鳴っている。
「今回は死人を出さずに済んだ。誇っていい」
ロラン団長が杯を掲げた。若手は声を張り上げる。
「団長に乾杯!」
「団長が止めてくださったおかげで、俺たちの脚はまだついてる!」
団長は頷いたけれど、杯を握る指は強張ったままだった。笑顔の裏に、立たなかった足の後悔が残っている。
私は隅の席で薄めた葡萄酒を口に運ぶ。聖女としてここにいるのは、相変わらず落ち着かない。無事を祝うほど、危うさが浮き上がる。
「聖女様、騎士団の酒はどうです?」
包帯の腕を振り回し、カイルが笑う。元気そうに見せているけれど、目だけがときどき遠い線を探している。
「強いですね。私の舌が先に撤退しそう」
「撤退!」
周りが笑った。そこへ乾いた声が刺さる。
「撤退など、恥をさらすだけだ」
レオン派の幹部騎士、ガルド隊長だった。背筋は鎧を脱いでも戦場のまま。
「そうだぞカイル。殿下も腰の引けた軍などお望みにならん」
「……はい」
返事が遅れる。笑いが一瞬で萎んだ。
中堅の騎士が苦笑して場を繋ぐ。
「まあ、命を惜しまず戦うのが義務だからな。そういう契約だ」
義務。契約。
便利な言葉だ。責任も恐怖も、同じ箱に詰められる。
カイルが、助けを求めるみたいに私を見る。
「聖女様は……前線、怖くないんですか」
「怖いです。すごく」
正直に言ってから、私は笑ってみせた。
そして、軽い調子のまま重い話を持ち込む。逃げたら、たぶん私はまた黙る側に戻るから。
「前の世界の……仕事の話なんですけど。部下が倒れそうで、上司が『いったん止めよう』って言ったんです」
「良い上司じゃないですか」
「でも次の日、臆病者って陰口を叩かれて、左遷されました」
どっと笑いが起きた。最初は。
けれど笑いが切れた瞬間、誰かが気づく。ここにも同じ構図がある、と。
ガルド隊長が鼻で笑う。
「なら、その世界は弱い。戦えぬ者は上に立つ資格がない」
「弱かったのは、上司じゃなくて……評価の仕組みです」
私は言い切った。
「成果だけで褒めて、止める判断を罰する。そうすると……誰も止められなくなる」
そのとき、入口がきぃ、と鳴った。夜気が流れ込み、酒の匂いが少し薄まる。
「失礼します」
セルジュさんとティオが入ってきた。ティオは羊皮紙の束を抱えて息を整えている。
セルジュさんは周囲に一礼して、淡々と言った。
「数分だけ。本題に入ります」
◇
壁に2枚の紙が貼られた。左が戦果、右が死亡率。
数字の線は、言い訳を許さない。
「撤退命令が一度も出なかった任務と、途中で退く決断をした任務では、死亡率が明確に違います」
セルジュさんが指で示す。
「戦果の増減より先に、こちらが跳ね上がる」
ティオが記録を読み上げた。
「撤退を進言したのに、前団長の怒りを買って左遷された隊長がいます。記録上は職務不適格。ですが帰還した戦力は過半でした」
「……そんな話、あったな」
ざわめきの中、セルジュさんが1枚の紙を掲げた。
「条文案です。撤退命令を出した隊長の評価条項」
私はその瞬間、命捨てタグの縁に、うっすら盾の影が重なるのを見た。まだ薄い。でも、形が違う。
「隊長が事前に定めた撤退基準に従い退却命令を出し、部隊の生存率を一定以上保った場合、その判断を武勲として記録する」
「撤退が武勲だと?」
ガルド隊長が噛みつく。
「腰抜けが得をする世の中にする気か」
私は椅子から立った。床の感触を足裏で確かめる。前へ行く足じゃない。止まるための足だ。
「前に進めと言う勇気は、分かりやすいです」
「……」
「でも、退けと言う勇気は分かりにくい。だから罰されやすい。だから、誰も言わなくなる」
私は息を吸って、言葉を選ぶのをやめた。
「止めたほうがいいと分かっていて、何も言わない方が、私は怖いです」
沈黙が落ちる。
私はセルジュさんの紙を指した。
「撤退できる権利をください。撤退権という勇気を、条文で守りたい。今日、そのお願いをしに来ました」
ロラン団長が杯を置いた。木の音がやけに大きい。
「……あの日」
団長は自分の膝を見た。
「退け、と命じようとして。足が前に出なかったことがある」
誰も笑わない。
団長の声は、不器用に、でも真っ直ぐ続いた。
「臆病者だと思っていた。だが……もし、あの時退けと言えていたら、と考えたこともある。墓標を、いくつ減らせたか」
セルジュさんが黙って条文案を渡す。団長は紙を受け取り、しばらく目を落としたまま動かなかった。
「撤退を命じることが逃げではなく、部下を生かす責任だと言うのなら」
団長が顔を上げる。
「その責任を果たした者を守る条文があってもいい」
若い騎士が恐る恐る声を出した。
「団長がそう命じるなら、俺は従います」
別の若手が続く。
「生きて帰って、また戦いたいです」
その言葉が、胸の奥を叩いた。生きて、また守るために戦う。
ガルド隊長が唇を引き結ぶ。
「国境は誰が守る」
「守れます」
セルジュさんが即答する。
「これは腰抜けを甘やかす条文ではありません。責任を取る勇気を、数字と文字で支えるための条文です」
カイルが拳を握りしめ、ようやく頷いた。
「……次は、団長の声を聞きます。俺、勝手に線を越えない」
「そうしろ」
団長が小さく笑う。
「生きて帰れ。その方が、次の剣が振れる」
命捨てタグが、ほんの少しだけ薄くなる。代わりに盾の影が濃くなる。仮でも、形は形だ。
頭の奥で、かすかな紙の音がした。世界のどこかでページがめくれたみたいに。
『ようやく、退く勇気の話になりましたね』
女神様の声が、脳内でぼそっと鳴る。
私は笑いそうになるのを堪え、セルジュさんに小さく頷いた。
「では」
セルジュさんが場を締める。
「明日、試験運用としてこの基準を持って出動します。北の森で魔獣の動きが不穏です」
笑い声の代わりに、剣が床を擦る音がした。
誰もが自分の足を確かめるように立ち上がる。
私はその背中を見送って、胸の中で言葉をもう一度噛んだ。
撤退権という勇気。
それは逃げ道じゃない。
生きて守るための、最初の一歩だ。
ここまで読んでくださってありがとうございます!撤退する勇気が、誰かを生かす盾になる。そんな回でした。続きでは北の森で新たな不穏が動きます。面白かったらブックマークと評価で応援してもらえると、次話の執筆が加速します。感想も大歓迎です!




