第10話 前線視察と、立たない足
馬車の扉が開いた瞬間、土と汗と鉄の匂いが胸に飛び込んできた。王都の石畳で契約書をめくっていた手が、いきなり戦場の空気を掴まされる。
「ようこそ、城外訓練場へ。聖女様」
ロラン団長は丁寧に頭を下げた。鎧の肩口に残る浅い傷が、昨日までの数字に皮膚を与える。
資料室で見たのは戦死率の線だった。ここにあるのは、線そのものだ。
土塁と木柵。その少し後ろに、白い線が長く引かれていた。石灰を撒いた撤退ライン。
「退かぬべき線……です」
ロランの言い方が、喉の奥で引っかかったみたいに硬い。
隣でティオが羊皮紙を抱え直す。
「聖女様、風で紙が……」
「ありがとう。メモは無理しないで」
「はい。今日は、メモ係なので」
号令が響き、若い騎士たちが白線の前に整列した。
私の目には、別の整列も見えていた。白線の上に、剣の形をしたタグがずらりと突き刺さっている。命捨てタグ。それぞれが地面の奥へ赤黒いひびを伸ばし、鎖の気配で足を縛っている。
白線の向こうへ踏み出すたび、鎖がきりきりと張る。張っているのに、誰も気づかない。気づかないまま、足だけが前に出る。
「訓練は訓練です。命を賭ける覚悟を作る場」
背後から、冷えた声がした。
レオン派の幹部騎士、ガルド隊長。礼儀はあるのに、目が笑っていない。
「覚悟と、使い捨ては違います」
「殿下は腰抜けの軍などお望みにならない」
その言葉が、白線より白く、剣より鋭かった。便利な楔。殿下と言えば、誰の足でも止められる。
木柵の向こうから訓練用の魔獣模型が押し出される。号令が変わり、足が同時に前へ出た。
白線の剣型タグが、ぎ、と嫌な音を立てた気がする。もちろん本当の音じゃない。それでも背筋が冷えた。
先頭に、ひときわ前へ出る若い騎士がいた。踏み込みが深い。深すぎる。
「……あの子は?」
「カイルです。新米ですが、腕はいい」
ロランの声に、誇りが混じった。誇りたい気持ちは分かる。生きて帰った報告より、前へ出た報告が褒められる国だ。
カイルの足首が光る。剣型タグが深く刺さり、そこから白線へ黒い鎖が伸びていた。本人はそれを誇りにしているみたいに、前へ前へと。
「カイル! 戻れ!」
教官が叫ぶ。
「まだいけます!」
言い切った瞬間、足がもつれた。踏み込みが崩れ、足首がねじれる。土が跳ね、膝が沈み、カイルの身体が傾く。
止めるべき瞬間だった。
「訓練中止、カイルは下がれ!」
ロランが叫ぼうとした。確かに口が開いた。けれど、言葉が喉元で止まる。
私はロランの足を見る。
団長の両足首にも、巨大な剣型タグが刺さっていた。黒いひびが影へと伸び、白線へ繋がっている。地面に貼りついたみたいに、足が動かない。
「団長」
ガルド隊長が囁く。
「ここは根性を見せる場です。撤退を命じれば、殿下の御心に背きます」
呪いだ。昨日、紙の上で見た呪いが、今日は息をして耳の穴から入ってくる。
ロランは歯を食いしばり、絞り出した。
「……続行」
その瞬間、ロランのタグが赤黒く光り、さらに深く食い込んだ。私は思わず声を上げる。
「やめて!」
命令権なんてない。それでも、言わずにいられなかった。
次の瞬間、カイルが完全に崩れた。白線の手前で倒れ込み、鎖がぎゅっと締まるように光る。
「担架! 治療班!」
ティオが青い顔で走り寄り、メモ帳を握り直す。
「い、今のは……訓練中止の判断が遅れた理由も、書きますか」
「書いて。書ける範囲で。逃げないために、記録する」
◇
治療テントは薬草の匂いで満ちていた。カイルは担架の上で唇を噛んでいる。
「呼吸して。吸って、吐いて」
「……はい」
足首に手を当て、祝福を流し込む。痛みが少しずつ沈むのと同時に、足首の剣型タグが震えた。しがみつくみたいに。
「本当は、もっと早く下がりたかったでしょう」
私が言うと、カイルの目が揺れた。
「退いたら……騎士じゃなくなる気がして」
「どうして」
「撤退した隊長が左遷されたって話、子どもの頃から何度も……。退いたら、全部無駄になるって……」
資料室で名前だけ見た「撤退で左遷された隊長」が、ここでは子どもの怖さとして息をしている。恐怖は、いつだって教育の顔をしてくる。
「無駄じゃない。生きて帰ったら、次の戦い方を考えられる」
「……でも」
「でも、じゃない。あなたの足は、あなたのもの」
その言葉を言いながら、私は自分の過去を思い出す。聖女の足は国のものだ、と笑っていた日々を。あの笑いが、どれだけ自分を麻痺させていたか。
《……この条文、好きじゃないですね》
頭の中に、女神様の声が落ちてきた。
《「勇気」の名前を借りて、人を「使い捨て」にする契約は》
ふ、とほんの少しだけ、別の光景が差し込む。世界のどこかで、女神様の羽ペンが紙の端に番号を書き足す。問題条文リスト。さらり、と。
テントの入口が揺れ、セルジュが入ってきた。
「間に合いましたか」
「怪我は大丈夫。今、治療してたところ」
セルジュの視線が外へ流れる。ロランが立ち尽くしている気配が、布越しにも分かる。
「あなたが止めようとしたのは正しい」
「止められなかった」
「止められない仕組みがある。だから条文を変える」
冷たい言い方なのに、胸が少しだけ軽くなる。感情より先に道筋を置いてくれる人がいる。
しばらくして、ロランがテントの入口に立った。
「すまなかった」
「いえ! 俺が不甲斐ないせいで……!」
「違う」
ロランはそれ以上言えず、私にだけ聞こえる声で漏らした。
「……あの瞬間、「下がれ」と言おうとして、足が前に出なかった」
私は見てしまっている。弱さじゃない。足首に刺さる制度の刃を。
「団長。動かないのは、弱いからじゃないです。……動かないように、されてるから」
ロランは答えられず、拳だけが小さく震えた。
◇
テントを出て小高い丘に立つと、訓練場が見渡せた。白線の上に並ぶ足が、同じリズムで前へ前へと進む。前へ行くことだけが、上手な足たち。
「昨日は数字で。今日は現場で」
セルジュが言う。
「材料は揃いました。あとは、「退く勇気」を条文にするだけです」
私は地面に自分の足を置き、ほんの少しだけ後ろへ下がった。
剣型タグは見えない。代わりに、夫婦契約の柔らかな光が足元に灯る気がした。守るための契約は、足を前に押すんじゃなく、戻れる余白を作る。
その日「立たなかった足」の痛みは、のちに「撤退権という勇気」と名付けられる条文の、最初の1行になった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!前線で露わになった『退けない呪い』、次は条文改正へ動きます。面白かった/続きが気になると思っていただけたら、広告下の【☆☆☆☆☆】で評価&ブックマークで応援してもらえると執筆が加速します。感想も大歓迎です!




