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「連載版」白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました  〜婚約破棄してきた王子より、契約書を持ってきた宰相様の方がよほど誠実なんですが〜  作者: 夢見叶
第1部:白い結婚案件・全貌編

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第3話 奉仕は無限残業ですか?

 公正契約大神殿の会議室は、いつも少しだけ寒い。

 窓が高すぎて、外の天気が分からないせいかもしれない。


 長机がコの字に並び、その正面の席に大神官長アグナスが座っている。重そうな金刺繍の祭服、分厚い台帳、几帳面に揃えられた羽ペン。見ているだけで、背筋が勝手に伸びる。

 その両脇には、白髪混じりの古参神官たち。対面側の端っこに、ぽつんと私。肩書だけは立派な聖女は、今日も会議室の隅で空気を読みながら座っている。


(……できれば、執務室で溜まっている書類を片づけたいんだけど)


 心の中で弱い抗議をしてみても、鐘は鳴らない。代わりに、別の声が返ってきた。


《本日は神殿幹部会議、「奉仕契約」草案の見直しについて、ですね》

(実況中継ありがとうございます、女神様)

《大事な議題ですよ? だってこれ、聖女様の残業時間にも直結しますから》


 そこは笑いごとではない。


「それでは、本日の議題に移ろう」


 アグナスが低い声で告げると、会議室の空気がきゅっと引き締まった。

 若い書記神官が、緊張で肩をこわばらせながら立ち上がる。手には、新しい奉仕契約草案の束。


「……失礼いたします。では、草案を読み上げます。

 第1条。聖職者は、神と民に仕える者として、その身と時を惜しみなく捧げること。

 第2条。聖職者は、祈りと祝福をもって、人々の平穏と繁栄に寄与すること。

 第3条。聖職者は、信仰と奉仕の模範として、自ら進んで公的務めに当たること」


 一見、きれいな言葉ばかりだ。

 ここだけ切り取れば、反対する理由なんてどこにもない。


(問題は、だいたいその後ろなんだけどね)


「続けます。第4条。聖職者は、可能な範囲で奉仕活動に従事するものとする」


 その一文が読み上げられた瞬間、胸のあたりで何かがぴくりと引っかかった。


(出た、「可能な範囲」)


 曖昧で、責任の所在がどこにあるのか分からない言葉。

 前の世界の就業規則でも、さんざん見た単語だ。


《ふむ。「可能な範囲」ですか》

(女神様、この言い方、世界契約的にはどうなんです?)

《ログで見る限り、こういう文言は、だいたい「不可能になるまでやらせる」の意味に運用されていますね》

(ですよね)


 心の中で、女神とだけため息を共有する。


「素晴らしい文言ですな」


 古参神官の一人が、感極まったように手を叩いた。

 白い眉を吊り上げて、どこか誇らしげに言う。


「我ら聖職者の務めは、まさしく奉仕。その上に『可能な範囲で』などとつける必要は、本来ないくらいですぞ」

「左様。むしろ、奉仕に上限などあってはならん。神に身を捧げる者が、自らの都合を前に出してどうするのです」


 うんうん、と他の年配神官たちも頷いている。


(上限がないって、つまり残業代も上限なしってことだったなあ……前の世界では)


 遠い目になりかけて、慌てて意識を戻す。

 ここで余計なことを思い出している場合ではない。


 ふと視線を動かすと、壁際で控えている若い神官見習いが目に入った。

 淡い金髪をひとつに結び、緊張で指先をもじもじさせている少女だ。手にした水差しが、小さく震えている。


(……あの子、昨日も遅くまで奉仕活動の報告書を運ばされていたはずだけど)


 視線が合うと、彼女は慌てて会釈して、またうつむいた。

 その仕草だけが、なぜか妙に胸に残る。


「聖女様も、何かご意見はありますかな」


 アグナスの視線が、こちらに穏やかに向けられる。

 断れない種類の問いかけ方だ。


「……草案自体は、とても立派な内容だと思います」


 まずは無難な感想から入る。

 会議室の空気が、少しだけ緩んだ。


「ただ、一つだけ、確認をよろしいでしょうか」


 ここから先は、綱渡りだ。

 私は膝の上で手を組み、言葉を選ぶ。


「『可能な範囲で奉仕活動に従事する』という文言についてです。現場では、夜遅くまで祈祷や相談が続くことも多くて……。聖職者が倒れてしまえば、奉仕も祈りも続けられません。長く神と民に仕えるためにも、『健康を害さない範囲で』といった言葉を、どこかに加えていただくことはできないでしょうか」


 一瞬、空気が止まる。


《出ましたね、「健康を害さない範囲で」》

(女神様、実況しないでください。今ちょっと手汗がすごいんです)


 心の裏側で小声に返しながら、表情だけは穏やかなまま、アグナスを見る。


 大神官長は、ふっと目を細めた。


「……聖女様は、本当にお優しい」


 来た。褒め言葉の前振りだ。


「神殿の仲間たちの健康を思いやる、そのお気持ちは、まさに聖女にふさわしい。しかしですな」


 ゆっくりと言葉を区切りながら、アグナスは続ける。


「我らは神に身を捧げる者。『健康』などという俗な言葉を契約の条文に書き込んでしまっては、信仰心が疑われてしまいかねません」

「左様。休息など、各々が可能な範囲で、神のご加護に委ねればよいのです」

「『可能な範囲で』という言葉自体が、すでに聖職者への最大限の思いやりですぞ」


 古参神官たちが、一斉にアグナスの言葉に乗ってくる。

 そこに悪意はない。ただ、本気でそう信じているだけだ。


(……だから、余計にたちが悪い)


 前の世界でも、「社員の健康を第一に考えています」と笑いながら、誰も就業規則の数字を変えようとしない人たちがいた。


 あのときと同じ種類の笑顔が、今、目の前で並んでいる。


「ご提案は、ありがたく受け止めました」


 アグナスが、まとめるように口を開く。


「しかし、『健康』は条文ではなく、各人の信仰と自制に委ねるのが、これまでの神殿の在り方でした。前例に従い、本草案の文言は、このまま王宮へ提出する案といたしましょう」


「異議なし」

「さすが大神官長」


 賛同の声が、あっさりと上がる。

 誰も、「健康」という単語を拾わない。


 握っていた羽ペンに、じわりとインクがにじんだ。


(……今、ここで机を叩いたら、「信仰心の足りない聖女」ってラベルを貼られるだけ)


 それが分かっているから、笑顔を崩すことはできない。


「では、本件は以上とし、次の議題に移る」


 会議は、何事もなかったかのように進んでいった。



 やがて全ての議題が片づき、重い扉が閉まる音が背中に刺さる。

 会議室を出た瞬間、私は大きく息を吐いた。


 廊下の空気は、会議室より少しだけ暖かい。

 高い窓から射し込む光がまぶしくて、思わず目を細める。


(……疲れた)


 朝から祈祷に相談にと走り回ってきた身体に、今さらどっと重さが戻ってきた。

 ここからが、ようやく「昼前」だという事実は、なるべく考えないことにする。


 ふと、廊下の片隅にある掲示板が目に入った。

 紙が何枚も重なって貼られ、その一角に、新しいお知らせが増えている。


「奉仕契約草案・聖職者向け説明会のお知らせ」


 大きく印刷された奉仕の文字を見た瞬間、別の活字の並びが、脳裏に重なった。


 ──裁量労働制について。

 ──みなし残業〇時間。

 ──自己研鑽は労働時間に含まれません。


 白い紙に、黒い文字。

 ただの事務的な説明文なのに、読み返すたびに胃が痛くなった紙束。


(裁量も、奉仕も。書類の上では、どちらもきれいな言葉なのに)


 掲示板の紙から目を離し、そっと息を吐いたそのときだった。


「聖女様ーっ!」


 廊下の向こうから、書類の束を抱えた影が、全力で走ってくる。

 茶色の髪がふわふわと揺れているので、誰かはすぐ分かった。


「ティオ? 廊下は走らない約束でしょう」

「す、すみません! でも、これだけは急ぎで……!」


 息を切らしながら、ティオが書類を差し出してくる。


「午後の相談予約表が届きました!」


 受け取った紙には、びっしりと名前と案件が並んでいた。

 祈祷、相談、調停、視察同行。余白という概念は、どこかに転生してしまったらしい。


《本日の午後も、稼働時間フルコースですね》

(女神様、そこは黙っていてください)


 私は一瞬だけ天井を見上げてから、苦笑いで紙束を抱え直した。


「……なるほど。今日も『可能な範囲で』残業ですね」


 ティオが、きょとんと目を瞬かせる。


「か、可能な……?」

「なんでもないわ。午後も頑張りましょう」


 自分に言い聞かせるみたいにそう告げて、私は聖女執務室の方へ歩き出した。


 このときの私は、まだ知らなかった。

 その「可能な範囲」が、どこまで削られていくのかを。

 三年後、神前の祭壇の前で、「この契約を継続するつもりはありません」と口にする日までの道のりを、まだ具体的には想像できずにいた。


読んでくださり、ありがとうございます。


第3話では、神殿のきれいな言葉の裏側を少しだけ覗いていただきました。物語の中の痛みや葛藤が、今後の成長や恋の動力源として立ち上がる瞬間を楽しんでいただけたら嬉しいです。

次話からは、彼女の運命を揺らす人物たちが本格的に動き始めます。

ぜひ続きを見届けてください。応援やブックマークが励みになります。


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