第8話 撤退禁止条項のある国
休日の朝の空気は、まだ私の指先に残っていた。
市場の焼き菓子の甘い匂い。セルジュが「公務です」と言いながら、結局いちばん楽しそうに買い物袋を抱えていた顔。
なのに、王宮の小謁見室に足を踏み入れた瞬間、それは一気に塩水で洗い流された。
鎧の軋む音が、やけに大きい。
金属の匂いと、乾ききらない血の気配。床に映る灯りさえ、冷たく見える。
「王命により、魔獣討伐任務の報告を申し上げます」
騎士団長ロランが膝をつく。肩当てには新しい傷。胸の紋章は半分欠け、無理やり留め直した痕がある。
私は無意識に、彼の背中の線を追っていた。戦場から戻った人の背中には、帰ってきた安心と、帰ってこられなかった数が同居している。
セルジュが私の隣で、いつもの無表情を作る。けれど手帳を開く指だけが早い。
「北の森にて魔獣の群れを殲滅。王都への被害は未然に防止。……しかし、死者12名、重傷者9名。特に若い隊の損耗が大きく」
数字が落ちるたび、頭の奥で別の光景が弾ける。
祝福の間に運び込まれた担架。泥と汗。震える手を握って「大丈夫です」と言ったのに、次の瞬間、脈が途切れた若い騎士。
あの時、私は「間に合わなかった」を何度数えた?
ロランが一拍置いて、声を絞る。
「……撤退は、契約により禁じられておりますゆえ」
その瞬間、私の視界に、見えないはずのものが浮かぶ。
騎士たちの背に、細長い剣の形のタグ。根元からひび割れ、刃先ほど薄く、今にも折れそうだ。
女神の声が、頭の中で小さく舌打ちした。
「ほらね。剣を折って勝つ国、ってやつ」
「今は、静かにして」
「ですが、戦果は大きい」
横から、甲冑の飾りが妙に派手な騎士が一歩進み出た。目の光が熱い。熱すぎて、周りを燃やすやつだ。
レオン派。そう呼ばれる人たちの代表格らしい。
「今回の戦功は先代以来の快挙です。殿下も、きっと騎士たちを誇りに思われましょう」
殿下。レオンの名が空気に落ちると、室内の温度が上がった気がした。
グスタフ王は、困ったように目を細めて頷く。
「よく守ってくれた。騎士団の誇りだ」
美談の形に整えられていく。整えれば整えるほど、切り落とされるものがある。
私は唇の裏を噛んで、表情だけを聖女の微笑みに固定した。
セルジュは淡々と手帳に走り書きをしている。
戦果と死傷率。撤退禁止条項。条文番号。……そして最後に、小さく線を引いた。
その線が、私の記憶の中の「真っ赤な棒グラフ」と重なった。
聖女稼働ログ。
休めなかった夜の数が、真っ赤に積み上がっていくあれと。
「数字って、同じ顔をするのね」
思わず漏れた私の独り言に、セルジュがちらりと視線を寄こす。
「覚えておいてください。顔をさせたのは、条文です」
その言い方が、優しいのか冷たいのか、私はまだ判断できない。
♢♢♢
報告会が終わり、私たちは騎士団本部へ移動した。
廊下を歩く間、セルジュは一度も私の手を取らない。公務中だから。そういう人だ。
でも、角を曲がる瞬間だけ、指先が私の袖口に触れた。離れないように、という合図みたいに。
会議室の扉が開いた途端、怒号が飛んできた。
「聖女殿! 新しい勤務契約は、現場を殺します!」
「祝福の要請を時間で制限するなど……戦う者を見捨てる気か!」
私は深呼吸して、椅子に座る。
そこは、神殿の会議室と同じ形なのに、匂いが違った。汗と油と、傷薬。生々しい。
ロランが咳払いをして場を抑えようとする。
「落ち着け。聖女様は、我らの命を守ってくださっている」
「守ってくださる? なら、今夜も明日も祝福を!」
誰かが叫び、別の誰かが拳で机を叩く。
私は、責められているのに、怖さより先に理解が来た。
怖いのだ。
治癒の手が遠ざかることが。撤退できないまま、傷だけが積み上がることが。
ロランが低い声で続ける。
「……聖女様のご負担は、先の会議で理解したつもりだ。だが、撤退を禁じられたまま、癒しの手も削られては、現場は持たん」
彼の言葉は、誰の味方でもなく、現場の味方だった。
その正直さに、胸が少し痛い。
すると、さっきの派手な騎士が畳みかける。
「聖女様が疲れたとおっしゃれば、我らは撤退せよと? そんな腰抜けの軍を、殿下はお望みにはならないでしょう」
殿下の名で殴る。
それだけで、会議室は一段荒れる。自分の意思より、上の顔色で命が動く。嫌になるほど、前世の会議と似ていた。
女神が楽しそうに囁く。
「ね? 契約で首輪が見えるでしょ」
「今は、笑わないでください」
私は、感情が槍になって自分へ向き始めたのを感じた。
だからこそ、ここで泣いたり怒鳴ったりしたら、私は負ける。負けると、誰かが死ぬ。
私は机の上の紙束に視線を落とし、静かに口を開いた。
「……私は、皆さんに撤退してほしいと言いたいわけではありません」
ざわ、と空気が揺れる。
「撤退させることもできる契約を、一緒に探したいんです」
「撤退させる……契約?」
誰かが呆けた声を出す。
その間に、セルジュが椅子をきしませて立ち上がった。
「撤退命令を出す勇気を、国が評価する条文を、宰相府として検討中です。今日は、その前提となる現場の声を伺いに来ました」
言い切り方が、彼らしい。感情を入れないのに、逃げ道を作る。
ロランが、わずかに目を見開いた。
セルジュは机に紙を広げる。騎士団契約書の写し。インクの匂いが濃い。
そして、淡々と読み上げた。
「第○条 騎士は王家と国民のため、いかなる劣勢にあっても前進を続ける義務を負う。
第○条 本条文に違反し撤退命令を出した隊長は、軍紀違反として処罰される」
言葉が、紙から立ち上がったみたいに重い。
私の視界では、条文の上にどす黒い鎖のタグが絡みついている。鎖は、誰の首にも繋がっていないのに、全員の足首を縛っていた。
「……でも、撤退しなきゃ守れない村も、あったんです」
若い騎士が、ぽつりと漏らした。
その声には、勇気と、後悔と、誰にも言えなかった夜が詰まっていた。
「黙れ」
レオン派の騎士が一喝する。
若い騎士は唇を噛み、視線を落とした。私の中で、何かが軋んだ。
ロランの拳が机の端を掴む。震えているのに、怒りか恐怖か分からない。
「……撤退は恥だ。そう教えられてきた。だが」
ロランは、言葉を探すみたいに息を吐いた。
「恥を怖がって、仲間を減らすのが正しいのか。……私は、分からなくなっている」
会議室が、少しだけ静まった。
静まった瞬間に聞こえるのは、鎧の擦れる音と、誰かの浅い呼吸だけ。
グスタフ王が同席していたわけではない。それでも、王都の空気はここまで届いている。
クロード宰相の影も、きっとどこかでこの議事録を読む。
なら、今ここで私が言うべきことはひとつ。
私は机の上の鎖を、目でほどくように見つめた。
「生きて帰ってきた人の話を、もっと聞かせてください」
その言葉に、ロランが小さく頷いた。
女神が、今度は少しだけ真面目な声で言った。
「いいよ。まずは、現場の声。次は、数字。で、条文。順番を間違えなければ、世界はけっこう素直」
私は椅子の背に背中を預け、息を整える。
撤退を恥とする国で、生きて帰る勇気を条文化する。
それは、私がこの世界で初めて、誰かに「逃げていい」と言うための戦いだ。
そしてその戦いは、今日から始まった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
8話は『撤退=恥』の首輪を外す前哨戦。
次回は武勲と死亡率のバランスシートで、数字が火花を散らします。続きが気になったらブックマークで追跡を!面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】評価&感想も励みになります!




