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「連載版」白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました  〜婚約破棄してきた王子より、契約書を持ってきた宰相様の方がよほど誠実なんですが〜  作者: 夢見叶
第2部:契約夫婦とブラック契約撲滅案件編

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第8話 撤退禁止条項のある国

休日の朝の空気は、まだ私の指先に残っていた。

市場の焼き菓子の甘い匂い。セルジュが「公務です」と言いながら、結局いちばん楽しそうに買い物袋を抱えていた顔。


なのに、王宮の小謁見室に足を踏み入れた瞬間、それは一気に塩水で洗い流された。


鎧の軋む音が、やけに大きい。

金属の匂いと、乾ききらない血の気配。床に映る灯りさえ、冷たく見える。


「王命により、魔獣討伐任務の報告を申し上げます」


騎士団長ロランが膝をつく。肩当てには新しい傷。胸の紋章は半分欠け、無理やり留め直した痕がある。

私は無意識に、彼の背中の線を追っていた。戦場から戻った人の背中には、帰ってきた安心と、帰ってこられなかった数が同居している。


セルジュが私の隣で、いつもの無表情を作る。けれど手帳を開く指だけが早い。


「北の森にて魔獣の群れを殲滅。王都への被害は未然に防止。……しかし、死者12名、重傷者9名。特に若い隊の損耗が大きく」


数字が落ちるたび、頭の奥で別の光景が弾ける。

祝福の間に運び込まれた担架。泥と汗。震える手を握って「大丈夫です」と言ったのに、次の瞬間、脈が途切れた若い騎士。


あの時、私は「間に合わなかった」を何度数えた?


ロランが一拍置いて、声を絞る。


「……撤退は、契約により禁じられておりますゆえ」


その瞬間、私の視界に、見えないはずのものが浮かぶ。

騎士たちの背に、細長い剣の形のタグ。根元からひび割れ、刃先ほど薄く、今にも折れそうだ。


女神の声が、頭の中で小さく舌打ちした。

「ほらね。剣を折って勝つ国、ってやつ」

「今は、静かにして」


「ですが、戦果は大きい」


横から、甲冑の飾りが妙に派手な騎士が一歩進み出た。目の光が熱い。熱すぎて、周りを燃やすやつだ。

レオン派。そう呼ばれる人たちの代表格らしい。


「今回の戦功は先代以来の快挙です。殿下も、きっと騎士たちを誇りに思われましょう」


殿下。レオンの名が空気に落ちると、室内の温度が上がった気がした。

グスタフ王は、困ったように目を細めて頷く。


「よく守ってくれた。騎士団の誇りだ」


美談の形に整えられていく。整えれば整えるほど、切り落とされるものがある。

私は唇の裏を噛んで、表情だけを聖女の微笑みに固定した。


セルジュは淡々と手帳に走り書きをしている。

戦果と死傷率。撤退禁止条項。条文番号。……そして最後に、小さく線を引いた。

その線が、私の記憶の中の「真っ赤な棒グラフ」と重なった。


聖女稼働ログ。

休めなかった夜の数が、真っ赤に積み上がっていくあれと。


「数字って、同じ顔をするのね」


思わず漏れた私の独り言に、セルジュがちらりと視線を寄こす。

「覚えておいてください。顔をさせたのは、条文です」


その言い方が、優しいのか冷たいのか、私はまだ判断できない。


♢♢♢


報告会が終わり、私たちは騎士団本部へ移動した。

廊下を歩く間、セルジュは一度も私の手を取らない。公務中だから。そういう人だ。

でも、角を曲がる瞬間だけ、指先が私の袖口に触れた。離れないように、という合図みたいに。


会議室の扉が開いた途端、怒号が飛んできた。


「聖女殿! 新しい勤務契約は、現場を殺します!」

「祝福の要請を時間で制限するなど……戦う者を見捨てる気か!」


私は深呼吸して、椅子に座る。

そこは、神殿の会議室と同じ形なのに、匂いが違った。汗と油と、傷薬。生々しい。


ロランが咳払いをして場を抑えようとする。

「落ち着け。聖女様は、我らの命を守ってくださっている」


「守ってくださる? なら、今夜も明日も祝福を!」


誰かが叫び、別の誰かが拳で机を叩く。

私は、責められているのに、怖さより先に理解が来た。


怖いのだ。

治癒の手が遠ざかることが。撤退できないまま、傷だけが積み上がることが。


ロランが低い声で続ける。

「……聖女様のご負担は、先の会議で理解したつもりだ。だが、撤退を禁じられたまま、癒しの手も削られては、現場は持たん」


彼の言葉は、誰の味方でもなく、現場の味方だった。

その正直さに、胸が少し痛い。


すると、さっきの派手な騎士が畳みかける。


「聖女様が疲れたとおっしゃれば、我らは撤退せよと? そんな腰抜けの軍を、殿下はお望みにはならないでしょう」


殿下の名で殴る。

それだけで、会議室は一段荒れる。自分の意思より、上の顔色で命が動く。嫌になるほど、前世の会議と似ていた。


女神が楽しそうに囁く。

「ね? 契約で首輪が見えるでしょ」

「今は、笑わないでください」


私は、感情が槍になって自分へ向き始めたのを感じた。

だからこそ、ここで泣いたり怒鳴ったりしたら、私は負ける。負けると、誰かが死ぬ。


私は机の上の紙束に視線を落とし、静かに口を開いた。


「……私は、皆さんに撤退してほしいと言いたいわけではありません」


ざわ、と空気が揺れる。


「撤退させることもできる契約を、一緒に探したいんです」


「撤退させる……契約?」


誰かが呆けた声を出す。

その間に、セルジュが椅子をきしませて立ち上がった。


「撤退命令を出す勇気を、国が評価する条文を、宰相府として検討中です。今日は、その前提となる現場の声を伺いに来ました」


言い切り方が、彼らしい。感情を入れないのに、逃げ道を作る。

ロランが、わずかに目を見開いた。


セルジュは机に紙を広げる。騎士団契約書の写し。インクの匂いが濃い。

そして、淡々と読み上げた。


「第○条 騎士は王家と国民のため、いかなる劣勢にあっても前進を続ける義務を負う。

第○条 本条文に違反し撤退命令を出した隊長は、軍紀違反として処罰される」


言葉が、紙から立ち上がったみたいに重い。

私の視界では、条文の上にどす黒い鎖のタグが絡みついている。鎖は、誰の首にも繋がっていないのに、全員の足首を縛っていた。


「……でも、撤退しなきゃ守れない村も、あったんです」


若い騎士が、ぽつりと漏らした。

その声には、勇気と、後悔と、誰にも言えなかった夜が詰まっていた。


「黙れ」


レオン派の騎士が一喝する。

若い騎士は唇を噛み、視線を落とした。私の中で、何かが軋んだ。


ロランの拳が机の端を掴む。震えているのに、怒りか恐怖か分からない。


「……撤退は恥だ。そう教えられてきた。だが」


ロランは、言葉を探すみたいに息を吐いた。

「恥を怖がって、仲間を減らすのが正しいのか。……私は、分からなくなっている」


会議室が、少しだけ静まった。

静まった瞬間に聞こえるのは、鎧の擦れる音と、誰かの浅い呼吸だけ。


グスタフ王が同席していたわけではない。それでも、王都の空気はここまで届いている。

クロード宰相の影も、きっとどこかでこの議事録を読む。


なら、今ここで私が言うべきことはひとつ。


私は机の上の鎖を、目でほどくように見つめた。


「生きて帰ってきた人の話を、もっと聞かせてください」


その言葉に、ロランが小さく頷いた。


女神が、今度は少しだけ真面目な声で言った。

「いいよ。まずは、現場の声。次は、数字。で、条文。順番を間違えなければ、世界はけっこう素直」


私は椅子の背に背中を預け、息を整える。

撤退を恥とする国で、生きて帰る勇気を条文化する。

それは、私がこの世界で初めて、誰かに「逃げていい」と言うための戦いだ。


そしてその戦いは、今日から始まった。


ここまでお読みいただきありがとうございます!

8話は『撤退=恥』の首輪を外す前哨戦。

次回は武勲と死亡率のバランスシートで、数字が火花を散らします。続きが気になったらブックマークで追跡を!面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】評価&感想も励みになります!


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