第7話 余白に書き足す夫婦の条文
鐘の音が、1本ぶん遅い。
いつもなら夜明け前から神殿全体を叩き起こすのに、今日は眠りを追い立てる気配がない。目を開けた私は、静けさの理由を探して机の上の紙を見つけた。
「本日、聖女リディアは終日『計画的休暇』につき、祝福業務を行わない」
通達文の右下の余白にだけ、小さな追記がある。
『※本気です。戻って仕事しないこと。』
セルジュの字だった。そこだけ妙にあたたかい。
「……休んで、いいんだ」
声にした瞬間、胸の奥がふわっと緩む。緩みすぎて、少し怖い。
そのタイミングで扉が開き、ティオが朝食のトレイを抱えて入ってきた。
「聖女さま! 本日は『休暇条項』初適用日です! 絶対に仕事は渡しません!」
「そんなに胸を張らなくても」
「張ります。神殿内にも貼り紙しましたから! 『本日、聖女様は休ませる義務の対象です』って!」
ポスター化しているらしい。運用が早い。早すぎる。
「それと、セルジュ様から。今日、聖女さまが神殿に戻ってきたら、私が止めるようにって」
「……私、脱走前提ですか」
「前科がありますから」
ぐぅの音も出ない。私は観念して、温かいスープに口をつけた。
◇
大神殿前広場に出ると、神官たちが妙にそわそわしながら道を開けてくれた。
呼び止められて祈願の紙束を渡される気配が、今日はない。
「本日はおくつろぎください、聖女様」
「急ぎの祈願が――」
「いけません!」
若い神官が、新しく署名された契約書を掲げて早口に読み上げた。
「『休暇条項発動時、緊急案件は代理神官が対応する』と明記されております!」
それでも足が神殿へ向きかける。止めたのは、横から伸びた手だった。
「確認します。今日のあなたの務めは、何ですか」
「……え?」
「休暇条項の有効性を検証することです。データがないと改善できません」
仕事口調でデートに誘う人がいる。私の夫だ。
「セルジュ、今日は会議じゃなくて……」
「ええ。視察です」
言い切られて、反論が喉で迷子になる。私はそのまま、彼に腕を取られた。
契約大橋を渡ると、川の風が頬を撫でた。欄干に残る淡い光の粒が目に入る。先日の神託騒ぎの名残だ。
橋の上では市民が、当たり前みたいに言う。
「聖女様も人間だもんなぁ」
「休ませるって、良いことだよな」
胸があたたかくなるのに、罪悪感も同じくらい育つ。
人間が今日、何もしないでいていいのだろうか。私は、何もしないでいると価値が減る気がする。
中央市場は、焼き菓子の匂いと人の声で満ちていた。
商人たちが一瞬だけ背筋を正す。素性を隠す気ゼロの聖女が歩いているのだから仕方ない。
「本日は完全オフにつき、契約相談は1件までです」
セルジュが先に釘を刺すと、「じゃあ1件だけ!」と食いつきかけた商人が、次の瞬間には彼の冷静な論破に敗走した。私は笑いをこらえきれず、咳払いでごまかす。
けれど、次に近づいてきたのは、子どもを抱えた母親たちだった。
「聖女様、少しだけ……子どもの熱が――」
反射で足が前に出る。出かけた瞬間、セルジュがさりげなく私の前に立った。
「本日は、聖女の祝福も定期点検に出しております。緊急なら神殿へ。代理が対応します」
母親たちは不安そうに眉を寄せたが、すぐにうなずいた。
「難しいけど……安心ってことね」
「聖女さま、おやすみなさーい!」
子どもが手を振る。胸がぎゅっとなる。泣きそうになるのに、同時に救われた気もした。
路地に入って人の波が途切れたところで、私はつい、ぽつりと漏らす。
「……聖女の休日が、こんなに普通でよかったんでしょうか」
セルジュはすぐに答えなかった。露店で紙の帳簿とインクを買い、袋を私の腕にかける。
そして、淡々と言った。
「後で、条文案を考えましょう。『普通であってほしい休日』のための」
普通を、条文にする。
それは、私がずっと手を伸ばせなかったものを、形にすることだ。
夕方、契約大橋を戻る頃、空は薄い金色に染まっていた。
雲の切れ目に、羽ペンの光が一瞬走る。
《ええ、見てましたよ。いいデータが取れました。休ませる義務って、世界契約にも使えそうです》
女神様の声に、私は小さく息を吐いた。覗かれているのに、なぜか背中が軽い。
◇
宰相官舎のダイニング兼書斎は、いつもより広く見えた。
書類の山が端に寄せられ、テーブルの真ん中には夕食とお茶。小さな静けさが、きちんと用意されている。
「本日の検証結果として、聖女休暇条項は周知がまだ不十分ですね」
「……いきなり業務報告ですか」
「報告は必要です。次は楽になります」
「今日は夫婦の会話ですよね? 業務会議じゃなくて」
私が笑うと、セルジュはほんの少しだけ目尻を緩めた。
「では夫婦の会話として。あなたは、何が一番苦しかったですか」
「祝福を断ること、です。断っているのに、断っていないみたいで」
「制度の問題です。あなたの責任ではありません」
胸の奥の罪悪感が戻りかけた。けれど、彼は棚から厚紙綴じの一冊を取り出してテーブルに置く。
私たちの夫婦契約書。最後のページにだけ、やけに大きな余白が残されている。
「……この余白、まだ空けてあるんですね」
「将来必要になる条文を足すために」
セルジュはペンを取り、私を見た。
「今日、あなたが口にしたことを、条文化できます」
「私の……『普通でいいのか』を?」
「はい。あなたが休むことを、私の義務にします」
義務。契約。条文。そんな硬い言葉で、誰かに守られる日が来るなんて。
「私、迷惑じゃないですか」
「迷惑かどうかの議論は終わっています。結論として、あなたは休むべきです」
「言い方が仕事……」
「仕事です。あなたを守るのは、私の最優先案件です」
反則だ。頬が熱くなる。
「じゃあ……『休ませる義務』。夫婦版」
「条文にします?」
合言葉みたいに口から出た。セルジュがうなずき、余白に書き始める。
過労または精神的疲弊の兆候があれば、他方は休息の機会を確保する義務を負う。
休むことを拒否された側は、温かい飲み物を差し出す義務を負う。
「……最後、私の言い訳みたいですね」
「いえ。運用条項です」
真顔で言われて、笑ってしまった。今日、私は笑えた。
書き終えたセルジュが、ペンを私に渡す。
「署名を。余白の条文は、あなたの同意がないと効力がありません」
「……はい」
私はサインをして、指輪に触れた。内側に刻まれた短い一文が、指先に小さく確かめられる。
《可愛い顔をして、世界規模で致命的なブラック契約を止めてくれる条文が増えましたね》
女神様の声に、私は天井を見上げる。
(今日のは、ただの夫婦のわがままです)
《願いを条文にするのが、一番長持ちしますよ》
セルジュが、私の前髪をそっと整える。照れ隠しみたいに、私はわざと真面目な声を出した。
「……では、運用開始です。明日、私が仕事に戻ろうとしたら、止めてください」
「了解しました。必要であれば、抱えてでも」
「それは……追加条文ですか」
「検討します」
笑いながら、私は初めて、怖がらずに普通の明日を想像できた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
リディアの「休ませる義務」、あなたの休日にも1行追加できたら嬉しいです。
面白かった・甘かったと思っていただけたら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価&ブックマークで応援していただけると励みになります!次話は「撤退禁止条項」で世界がざわつきます。




