第5話 緊急要請、それでも断る権利
その朝、私は久しぶりに「計画通り」という言葉を信じていた。
公正契約大神殿の相談受付ホール。掲示板には、女神の羽ペンで書き換えられた新しい勤務表が貼られている。夜間対応は原則なし、臨時は申請制、休養日は確保。たった数行なのに、呼吸が軽い。
「聖女様、本日の予約は……え、ええと、ちゃんと昼に収まってます!」
ティオが書類束を抱えたまま笑う。
「うん。奇跡だね」
「奇跡って言わないでくださいよ! 僕が昨夜、全部組み替えたんですから!」
そこへ、外がざわりとした。
駆け込んできた伝令の神官が、息を切らして言う。
「隣国ウェルナの辺境で、原因不明の熱病が流行している、との噂が……! 旅の商人が……」
噂。たったそれだけの言葉で、前世の記憶が喉の奥に蘇る。増える数字、鳴りやまない連絡。
背筋が冷えた私の隣で、ティオは青ざめて未来を先に見てしまう。
「患者の流入や難民が来たら……神殿の祝福、追いつきません……!」
「まずは落ち着こう。正規の報告が来てから」
そう言ってくれたのは、いつの間にかホールに現れていたセルジュさんだった。黒い外套の裾が揺れて、空気がきゅっと締まる。
そして、締まった空気はそのまま、面倒の形に固まって運ばれてきた。
「聖女殿! 緊急だ! 緊急事態だぞ!」
王都の有力貴族の集団。顔見知りの「祝福常連」たちが、これでもかと香水を漂わせて押し寄せる。
代表の男は、隣の者の肩を叩きながら大仰に宣言した。
「疫病がこちらへ広がる前に、我が家の者たちの健康と屋敷を、夜通しかけて徹底的に祝福していただきたい!」
家の者と屋敷、事業所、夜通し。噂の段階で、まず自分たちを先に守れ、と。
ティオが胸に抱えた新フォーマットの紙が、心細そうに震えている。
「え、ええと……夜間の祝福は、事前申請と緊急度の確認が必要に……」
「そんな悠長な! 今が緊急だと言っている! 聖女は国を守る存在だろう!」
国のため。非常時だから。便利な言葉。
前世でも、その言葉で何度、残業が青天井になったか。断った人間は「非協力的」の札を貼られた。
でも、今日は違う。
私の手元には、「断る権利」が条文として存在する。
◇◇◇
応接室。磨かれたテーブルの上に、新しい「聖女勤務契約」の写しを広げると、貴族たちの視線がそこへ吸い寄せられた。羽ペンで書き換えたインクには、妙な圧がある。
セルジュさんが淡々と読み上げる。
「夜間の臨時祝福は『聖女の健康を著しく害さない範囲』に限る」
「また、王国全体の安全に関わる案件を優先し、個別の家の事情は原則として日中に回す」
「これは非常時だ! 疫病は国の安全に関わる!」
噛みつくような声。私はゆっくり息を吸って、吐いた。
「……情報が噂の段階では、非常時とは認められません」
自分の声が思ったより落ち着いていて、逆にびっくりする。
「本当に疫病が広がったとき、徹夜続きで倒れた聖女では、誰も救えませんから」
貴族の眉が跳ねる。
「では、そのときになってからでは遅い!」
「そのときは王宮と神殿が合同で、公的な非常時宣言を出します」
セルジュさんの声が、氷みたいに静かだった。
「聖女の稼働も含めた国全体の体制を組む。自分の家だけ先に守れ、というご要望は、国防の観点からも認められません」
私の視線が、ほんの少しだけ彼と交わった。
私を守ることと、国を守ることを、同じ文脈で言ってくれた。
胸の奥が、じんとあたたかくなる。そんな場合じゃないのに。
「覚えておれ……!」
古典的な捨て台詞を残し、貴族たちは踵を鳴らして去っていった。最後尾の男が振り返った目が、妙に計算高い。
扉が閉まった瞬間、膝から力が抜けそうになった。
「……本当に、断ってしまいましたね」
「契約に従っただけです」
セルジュさんは即答して、それから少しだけ、声をやわらげた。
「断る権利が、ようやく機能した初日ですよ。記念日にしてもいいくらいです」
記念日。そんな言い方をされると、笑っていいのか泣いていいのか分からなくなる。
私は小さく息を吐いて、笑うことにした。
◇◇◇
夕方、今度は王宮から呼び出しが来た。
小さな会議室には、グスタフ王陛下とクロード宰相、そしてアグナス大神官長が揃っている。机の上には、先ほどの貴族たちの「抗議」が書かれたメモ。
クロード宰相が、ため息混じりにまとめた。
「要するに、非常時だから旧来通り徹夜祝福してくれと。それを貴殿らが、あの新条文を根拠に断った……と」
「王侯貴族の不安をなだめるのも、聖女の務めでは……」
アグナス大神官長がまだ及び腰でぼやくと、私の中の前世が反射的に言い返しそうになる。
セルジュさんが、旧・聖女奉仕契約書と暫定規制案を並べて置いた。旧契約の末尾を指でトントンと叩く。
「こちらです。問題の箇所」
そして読み上げた。
「『神意の名のもとに、緊急の要請がある場合、この限りではない』」
出た。この限りではない。
前世ブラック就業規則の「ただし業務上必要な場合はこの限りでない」と同じ匂いがする、魔法の抜け道。
そのとき、私の頭の中で女神がぽそっと言った。
『定義しない非常時は、大体いちばん声の大きい人のために使われます』
「……だから、例外を残すなら鍵を付けましょう」
私は机の上の紙を指し、震えそうな指先を押さえつけた。
「非常時にはこの限りではない、を残すとしても、非常時とは何か、誰が宣言するのか、そのとき聖女をどう守るのか。セットで条文にしてください」
「具体的には」
セルジュさんがすぐに続ける。
「王と大神官による共同宣言が必要であること。非常時発動中も聖女の連続稼働時間には上限を設けること。そして、非常時終了後には必ず、休ませる義務条項に基づく長期休養を付与すること」
「そこまで縛って非常時と言えるのかね」
クロード宰相が腕を組む。
その瞬間、グスタフ王陛下が珍しく即座に口を開いた。
「……そこまで縛らねば、非常時の名が泣くということだろう」
温和なはずの声に、芯が通っていた。
私は思わず、背筋を正した。会議の論点が、国の設計へ動いた気がしたから。
その後、女神に導かれてログルームへ意識がふっと滑った。
光の棚に並ぶ履歴の中に、数件だけインクの色が違うものが混じっている。女神の羽ペンではない、誰か別の神のサインらしい色。
『ほら、ここ。非常時だからって名目で、別の神様の祝福を混ぜようとした痕跡です』
女神はさらっと爆弾を落とす。
『こういう定義の甘い例外条項って、他国の神が大好きな入口なんですよ』
息が止まった。
「……じゃあ、隣国の疫病騒ぎも……」
『現時点では噂です。でも、本当に広がったら福祉契約や代償契約の話になるでしょうね。そこに穴を使って別神のシステムを滑り込ませる。考えるだけで頭が痛いです』
例外は非常口。開けるなら鍵を付けて、誰がいつ開けたか、記録を残す。
そうしないと、扉の向こうから何が入ってくるか分からない。
◇◇◇
会議は、結論だけは早かった。
隣国については正規の外交ルートと医療班からの報告待ち。それまでは噂レベルの非常時を口実にした個別要求は認めない。その代わり、本当の非常時用の例外条項を急いで再設計する。
散会後、廊下でセルジュさんと並んで歩く。窓の外は夕暮れで、王都の屋根が少しだけ赤い。
「……本当に非常時になったらどうするか、を考えるために、今こうやって断っているんですね」
私が言うと、彼はうなずいた。
「ええ。守るために断るのは、立派な国防行為です」
国防。さっきから何度も出てくる言葉が、今は怖くない。
私は小さく笑って、つい口が滑った。
「じゃあ次は、聖女の休日が国防だって、王様の口から言ってもらわないと」
「その台詞、ぜひそのまま陛下に」
セルジュさんの目が、ほんの少しだけ笑っていた。
私は胸の奥の熱を、夕暮れのせいにして、深く息を吸った。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は「断る勇気」回でした。貴族の圧と、忍び寄る疫病の影……次はついに非常時の扉が開くのか? 面白かったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価&ブックマークで応援していただけると次話の筆が加速します!




