第4話 守るための残業規制という発想
会議室の真ん中に浮かぶ光の板は、昨日のまま真っ赤だった。
祝福件数、相談件数、予定外対応、書類、移動。全部が「限界です」と叫んでいる。
「……やっぱり、何度見ても、えげつないですね」
ティオが喉を鳴らす。
「えげつない、で済ませるのは優しいですね」
セルジュは淡々と線を引き続けていた。いつもの丁寧な声。でも、ペン先がほんの少しだけ揺れている。
大神官長アグナスは、椅子に座ったまま沈黙していた。やがて彼は目を閉じ、ぽつりと呟く。
「……似たような数字を、昔、1度見たことがある」
空気が少しだけ冷える。
「10数年前、私がまだ若輩だったころ……仕えていた聖女がいた」
アグナスは自嘲気味に笑った。
「優しい方でな。誰も断らず、誰よりも早起きで、誰よりも遅くまで祈った。……そして、ある日倒れ、そのまま戻らなかった」
ティオが「そんな……」と声を漏らす。私は唇を噛んだ。数字が急に「人」になる。
「当時の我々は言ったのだ。『聖女の奉仕は神意であり、止めるのは畏れ多い』と」
アグナスの指が、赤い棒グラフの頂点をなぞる。
「……神意を盾にして守っていたのは、聖女ではなく、私たちの責任の方だったのだろう」
胸の奥に、前世の空気がふっと刺さった。
『トップの号令だから』『会社のためだから』。便利な免罪符。誰かが倒れても、誰も自分の名前で止めないやつ。
アグナスが立ち上がり、私の前で膝をつきかけた。
「や、やめてください!」
私は慌てて立ち上がる。
それでもアグナスは深く頭を垂れた。
「リディア殿。私は、君の前任者を守れなかった。そして、君の契約書に手を入れることを、神意と前例のせいにして避けてきた」
言葉が重い。慰めるべきか迷って、でも私は、契約で守る側だと思い直す。
「……過去は変えられません」
私はゆっくり息を吐いた。
「でも、『今からの前例』なら、私たちで作れます。頭を上げてください。責任者には、責任者の仕事をしてもらわないと困ります」
アグナスが苦い顔で笑い、ようやく立ち上がった。
セルジュが何も言わずに椅子を引く。さりげない手つきに、胸のどこかが温かくなる。
♢♢♢
「本題に入りましょう」
私が切り替えると、ティオが背筋を伸ばした。セルジュも頷く。
「極論として、『残業全面禁止』という案もあります。でも──」
私が言いかけた瞬間、セルジュが引き取る。
「夜間の緊急祈願がすべて翌日に回ります。命に関わる案件が詰まり、午前の時点で崩壊するでしょう」
「祝福を受けられなかった者の不満が爆発します。王家と神殿への信頼が揺らぎます」
ティオが顔面蒼白で頷いた。
「ただでさえ昼間が地獄なのに……翌朝が、地獄の上塗りになります……!」
分かる。禁止だけでは、現場は守れない。
「残業をなくせないなら」
私はログの赤を指でなぞった。
「『残業させたい人に、守ってもらう条件』を付けるしかありません」
「条件……?」
アグナスが目を瞬く。
「『聖女を守るための残業規制』です」
私は言葉を確かめるように口にした。
「夜に祝福を求めたいなら、その代わり、翌日に私を休ませる義務を負う。飛び込みの『ついで祈願』は、緊急以外は受け付けない。例外が必要なら、その扉に鍵を付ける」
「禁止ではなく、条件で守る。合理的です」
セルジュが静かに言う。
♢♢♢
大神殿の奥、書類の匂いが濃い片隅に、急ごしらえのドラフト机が用意された。
白紙の契約用紙、旧「聖女奉仕契約」の写し、インク壺。ティオは板札に条文候補を書き始める。
セルジュが旧契約の条文を読み上げた。
「『聖女は、神意の名のもとに、緊急の要請がある場合、この限りではない』」
「出た……」
私は額に手を当てた。
「この『この限りではない』が、全部を台無しにしてるんですよね。前の職場にもありました。『ただし業務上必要な場合はこの限りでない』っていう、魔法の免罪符」
ティオが真顔でメモを取る。
「免罪符ではなく、穴です。ここから全てが溶け出す」
セルジュの言い方が怖い。
「じゃあ、穴を塞ぎましょう」
私はその文を書き写し、2本の線で消した。
「残すなら、先に満たすべき条件を条文で縛ります」
ティオが挙手した。
「あの、思いついた条件、全部書いてもいいですか」
「もちろん。今はブレストの時間です」
ティオのペンが走る。
「事前申請義務。夜間祝福を求める者は、日中のうちに申請書を提出すること」
「緊急度の確認。命に関わる案件を優先し、利便目的の申請は翌日に回すこと」
「代替手段検討。神官の祈祷や既存の護符で代替できないか確認した上で、なお必要な場合のみ」
セルジュがすぐに文章に落としていく。私の発想を、この世界の公用語に翻訳していく手つきだ。
「そして、いちばん大事なのは」
私は息を吸った。
「翌日の休養保証。夜間祝福が発生した翌日は、原則として私の勤務時間を圧迫する要求を受け付けない。王家と神殿がその盾になる、って書く」
アグナスが喉を鳴らした。
「……盾、か」
「はい。『聖女が断る』だと、恨みが聖女に向きます。断る役を、制度にやらせましょう」
「あなたが矢面に立たない設計。賛成です」
セルジュが私を見る。
条文が形になった瞬間、机の端の羽ペンがふわりと浮いた。
白い光が、書いたばかりのその行に吸い込まれる。
『そこ、世界契約ノートに写しておきますね』
頭の中に、ゆるい声が響く。
『他国の神が見たら、歯ぎしりしそうですけど』
「女神様、今のは余計です」
『余計じゃないです。情報です』
軽い調子が、逆に怖い。
「では、署名欄を」
セルジュが紙の下に枠を作る。
「王家代表、神殿代表、聖女本人。暫定運用でも、責任者の名前が必要です」
アグナスが迷わずペンを取った。
「……まずは、神殿から。これを飲めないなら、私は大神官長を名乗る資格がない」
震える手。インクが少しにじむ。
次に、私はペンを受け取る。
「私もサインします。『残業させないでください』じゃなくて、『残業させるなら守ってください』と、正式にお願いするために」
最後にセルジュが署名し、紙を整えた。
「では、王家側にもこれを持ち帰りましょう。本気で『国防』と言うなら、聖女を守る条文から逃げられないはずです」
守られることは、わがままじゃない。守られる設計がなければ、守る力そのものが枯れる。
ふと、旧契約の末尾に、読み取れない古い文字列が目に入った。
黒いインクとは違う、薄い銀色が、ほんの短い間だけ浮かんでは消える。
羽ペンが、ぴくりと震える。
『……それは、今じゃないですね』
女神の声が、ほんの少しだけ遠くなる。
『守るための残業規制、仮運用開始。さて、人間側は……どこまで守れるでしょう?』
私は紙を胸に抱え、静かに頷いた。
「──なら、こちらも『守るための前例』を、ここから積み上げていきます」
ここまで読んでくださりありがとうございます!
「守るための前例」はここから本番。
次話では王家側の反応と、銀色の文字の正体が動きます。
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