第3話 タイムカードを持たない国で
夜明け前の大神殿は、石の床まで眠そうな顔をしている。私が祈祷室へ向かう回廊の窓には、まだ朝の色が薄い。
そこへ、足音がきっちりと等間隔で重なった。
「おはようございます、聖女殿。本日一日、業務量を記録します。……差し支えない範囲で」
セルジュさんは書類バインダーを抱え、もう片方の手には、妙に立派な砂時計を持っていた。
砂時計。神殿で? と口の中でつぶやく前に、ティオがわなわな震えながら叫ぶ。
「さ、砂時計まで用意してるんですか!? 宰相補佐さま、そこまで本気なんですか!」
「記録は武器ですから」
淡々と言い切るのが、また怖い。私は苦笑して肩をすくめた。
「差し支えない範囲がどこまでかは、業務の後で一緒に考えましょう。たぶん、今日一日で境界線が消えます」
「承知しました。消えた境界線は、条文で引き直します」
頼もしさと同時に、背筋が寒いほどの宣言だった。
◇
聖女執務室に入った瞬間、ティオが今日の予定表を広げる。
赤。赤。赤。余白のはずの紙が、血のような赤で埋まっている。
「午前は貴族家の家族祈願、午後は神殿幹部用の祝福、その合間に定例相談が……」
「その合間がもう合間じゃないね」
「はい……え?」
ティオが顔を上げたところで、扉が叩かれる。叩かれる、というより、叩き続けられる。
「聖女様! 妻が今朝から咳が止まらず」
「聖女様! 旅の一行が通りがかったついでに祝福を!」
「聖女様! うちの息子の試験が今日で、念のため!」
雪崩だ。予定表が紙一枚で受け止められる量じゃない。
ティオは半泣きで私を見た。
「聖女さま、今日も予定外が山ほど……」
「予定外が常態化しているなら、それはもう予定ですね」
「言い方が冷たい!」
ツッコミながらも、セルジュさんが小さく笑った。笑うと、余計に怖い。
「では、記録を開始します。まずは初回の対応から。砂時計、裏返します」
さらりと宣言され、私は自分の世界に「勤務開始」の鐘が鳴った気がした。
◇
最初は貴族夫人だった。香水と絹の匂いが先に入ってくる。
「聖女様、夫の出世に加護を。あの方は努力家でして」
「努力家でいられるのは、家が守っているからですね。確認します。ご本人の健康診断は」
「え?」
夫人が瞬きをする隙に、私はメモ帳へ小さく書く。
所要時間。緊急度。聖女がやるべきか。
セルジュさんのペン先が、同じタイミングで紙を走った。見なくても分かる。彼は秒単位で世界を切っている。
次は商人。次は農民。次は神殿の下働きの子。
並ぶ人々の顔色はそれぞれ違うのに、抱えてくる言葉の型が、どこか似ていた。
「聖女様、少しだけでいいんです」
「聖女様、ついでで構いません」
「聖女様、皆さんそうしてもらってるって」
私は笑ってうなずき、手を取り、祈りを流す。
そのたびに、胸の奥でスイッチが切り替わる感覚がある。目の前の人だけを見る。泣きそうな声だけ聞く。大丈夫、と言える温度だけ残す。
そして次の瞬間には、冷えた指でメモ帳に印を打つ。
命に関わる。優先。
これは神官で足りる。移管。
これは「ついで」の皮をかぶった延長依頼。要交渉。
農民の腕の中で、小さな子がぐったりしていた。
私は膝をつき、額に手を当てる。
「大丈夫。息が浅いだけ。今、楽にするね」
「聖女様……」
祈りは光になって、子の喉の奥の苦しさをほどく。母親の目に涙がたまる。
私も、そこでだけは、心から息を吐ける。
……でも。
「この場をお借りして、ついでにうちの息子の出世を」
背後から聞こえた声に、胃がきゅっと縮んだ。
前の世界で聞いた、「会議のついでに法務も見といて」の声と同じ圧だ。
私は振り返り、にこやかに言う。
「承りました。では、その前に確認です。息子さんの努力を保証する契約は、どなたが結んでいますか」
「え、契約?」
「ええ。努力は、成果の保証ではありません。保証したいなら、条件を詰めましょう」
セルジュさんが、砂時計を裏返す手を一瞬だけ止めた。
ティオは笑いをこらえている。ごめんね、私ももう、善意だけで飲めない。
◇
夕刻。ようやく人の列が途切れたと思ったら、今度は書類の山が待っていた。
机の上に積まれた羊皮紙は、神殿の白い天井より高い気がする。
「これ、今日の分だけですよね……?」
ティオが自分の未来を見た顔をしている。
「今日の分だけだよ。昨日の分は、まだ下にある」
「下!?」
そこへ、静かな足音。
女司祭マリアンヌが、腕いっぱいに別の束を抱えて入ってきた。
「聖女様。贖罪労働契約の更新が、溜まっています。判を……」
声は落ち着いていて、仕事だけが世界にあるみたいだった。
束の端からのぞいた条文が、私の目に刺さる。
無償。期間10年。拒否不可。
奉仕という言葉の後ろに、鎖が見える。
「……マリアンヌ司祭。これ、罪の重さと、釣り合っていますか」
司祭は一瞬だけ、呼吸を止めた。
「釣り合っている、と教わりました」
「教わった、だけ」
私の声が少し硬くなる。けれど、彼女は逃げずに、視線を上げた。
「……はい。私も、ずっと、見ないふりをしてきました。仕事だから、と」
その言葉が、痛いほど分かってしまう。
仕事だから。皆がそうしているから。止めたら回らないから。
机の向こうで、セルジュさんがペンを置いた。
「本日の記録、ここまでで既に、王宮の実務官が2日かけて処理する量に相当します」
「王宮の基準を持ち込まないでください。悲しくなる」
「悲しくなるのは、基準が存在しないからです」
その返しは、刃物みたいに正しい。
◇
夜。執務室の蝋燭が短くなるころ、頭の奥に、いつもの軽い声が落ちてきた。
《本日の聖女稼働ログ、見ます?》
(見ないと直せない、ってやつですね)
《えらい。はい、どーん》
視界の端に、光の板がふわりと浮かぶ。
棒グラフが真っ赤だ。真っ赤というより、怒っている。
《ねえ、この国、タイムカード導入しましょうか》
(導入するなら、休憩の定義も労働時間の上限も、セットでお願いします)
《手当も?》
(もちろんです。夜間の割増手当も)
女神様が、くすっと笑う気配がした。
《じゃあ、次の会議の議題に入れておきます。聖女様が倒れると、ログが荒れるので》
(契約的に、ですか)
《契約的に、です》
私は光の板を見つめながら、今日会った顔を思い出す。
病気の子。泣きそうなティオ。黙々と判を押すマリアンヌ。砂時計を裏返し続けたセルジュさん。
誰も悪意で私を削っていない。
だからこそ、止めないと、同じ形で次の誰かが削られる。
「……明日、数字をまとめましょう。誰が、何に、どれだけ時間を食べられているのか」
セルジュさんが、いつもの丁寧な声でうなずく。
「承知しました。差し支えない範囲の境界線も、まとめて提出します」
「境界線、返して」
「返します。条文にして」
笑ってしまった。疲れているのに、笑えるのが不思議だ。
私は立ち上がり、窓の外の暗い王都を見た。
終電もタイムカードもない国で。
それでも、明日からは、止める側の仕事を始める。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
聖女の『タイムカードなき戦い』はこれからが本番。
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