第2話 聖女労働契約、黒インクだらけ
第2部第2話 聖女労働契約、黒インクだらけ
翌朝、王宮の小会議室は寝不足の匂いがした。
窓の外には、まだ薄く、空に残像みたいな神託文字が漂っている。昨日、大聖堂の天井いっぱいに現れたあの一文。
【聖女労働契約:重大違反を検出】
あれを見た瞬間のざわめきが、今も壁に染みついている気がした。
「聖女殿。こちらへ」
呼ばれた席は、なぜか末席寄り。形式上、私は当事者で、原因でもあるらしい。
テーブルの上には巻物が山。重い。前例という名の重石が、こうして物理で置かれる世界だ。
グスタフ王は額を押さえ、クロード宰相は咳払いで時間を稼ぎ、大神官長アグナスは硬い笑みを貼りつけている。
セルジュだけが、いつも通りの無表情で私の隣に立っていた。目が合うと、ほんの少しだけ、安心したようにまぶたが緩む。
「まずは状況整理を――」
宰相が口を開いた、その瞬間。天井が白く瞬いた。
ドン。
落ちてきたのは光ではなく、分厚い本だった。机が震え、インクの匂いが立つ。
表紙に、黒々と刻まれている。
『聖女奉仕契約(現行版)』
室内が凍った。
そして、頭の中にだけ、あのゆるい声が響く。
『原本、持ってきました。前世のシステムで言うと仕様書ですね』
「……女神、さま」
アグナスが反射でひれ伏した。慣れた動きが、むしろ痛々しい。
王が椅子から半歩だけ立ち上がり、すぐに座り直した。王様でも神相手だと挙動が忙しい。
『昨日の稼働停止、あれは嫌がらせじゃなくて安全装置です。今日は原因究明。はい、会議、続けてどうぞ』
女神はさらっと丸投げしてくる。私は喉の奥で、笑いかけた息を飲み込んだ。笑えない仕様書が来たからだ。
「セルジュ、読み上げを」
王の命令に、セルジュが一歩前へ出る。
彼がページをめくった瞬間、黒インクの文字がじわり、と滲んだ。
まるで紙が汗をかくみたいに。
「第12条。聖女は疲労を理由に祝福を拒否できない」
言葉が落ちるたび、文字の周りから黒い煙のようなものが立ち上る。
私の胃がきゅ、と縮んだ。前世の就業規則で見た、あの、ふわふわした免罪符の匂い。
「第15条。祝福要請は昼夜を問わず受け付ける」
「第18条。聖女が契約に反した場合、祝福権限の一部を神殿が肩代わりできる」
「……肩代わり?」
クロード宰相が眉を上げた。セルジュは淡々と頷く。
「文言は柔らかいですが、実質は権限の横取りです」
室内の空気が一段冷える。
アグナスが慌てて口を挟んだ。
「そ、それは誤解です。先々代からの前例でして……聖女様方も名誉と誇りをもって奉仕を――」
名誉、誇り。
前世でも聞いた。名ばかり管理職、自己研鑽、やりがい。ラベルが変わっても、中身が同じだと気づくのはいつも終電のない夜だ。
『はい、ここからここまで、祝福の質に直結しない負荷ですね』
女神の声が議事録みたいに淡々と追い打ちする。
『この一行など、代替手段の顔をしてますが、実際は神殿の権限拡張です。ブラック企業さん、用語変えても中身そのままですよ?』
私の口元が、引きつった。
王が、低く唸る。
「……これを、我が名のもとに発効しているのか」
責任の重さが、王の声を老けさせた。
セルジュはページを閉じ、契約書の背を指で叩いた。
「条文を整理すると、聖女がどれだけ削れても、王家と神殿は困らない構造です」
……言い切った。
私の背中を、冷たい風が通り抜けた。分かっていたのに、誰かが言葉にすると痛い。
だから私は、笑いに変えるしかない。
「前の世界でも、よく見た図式ですね。現場が倒れても、上の数字だけは綺麗っていう」
何人かが、意味を理解できずに瞬きをした。セルジュだけが、小さく息を吐いた。笑いではなく、怒りを飲み込む音に聞こえた。
謝罪が始まったのは、その後だった。
重臣が咳払いをし、アグナスが深く頭を下げ、宰相が言葉を選ぶ。
「聖女殿には多大なご負担を……」
「申し訳なく……」
私は手を上げて止めた。自分の声が、思ったより静かに出た。
「謝られるのは、正直困ります」
ざわ、と椅子が鳴る。
「私個人の負担の話で終わらせたら、次の聖女も、騎士も、神官も、同じ目にあいます。問題は働き方じゃなくて、契約の設計です」
ティオが横で、必死に筆を走らせている。小さな手が震えていた。
私は契約書を引き寄せ、余白にペンを走らせた。墨はまだ乾かない。だからこそ、今書く。
「まず2本です」
私は読み上げる。
「聖女は、健康を著しく害するおそれがある場合、祝福を延期・拒否できる」
「聖女を管轄する王家および神殿は、十分な休養日を与える義務を負う」
「……義務、か」
王がその単語を繰り返した。
重臣のひとりが小さく呟く。
「聖女が倒れれば……国が困る。国防、だな」
国防。
昨日、空に書かれていた言葉が、会議室の中で現実の音になる。
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。自分のわがままじゃない。これは設計の修正だ。
「国が困るから、ではなく」
私は言い直す。
「人が倒れる仕組みを、国が放置していい理由はありません」
セルジュが、私の言葉を拾うように頷いた。
「この2本柱は暫定でも効きます。ですが、現状把握が必要です。運用の実態を数字に落とします」
「数字……」
宰相がうなずき、王が短く命じた。
「やれ。王家として協力する」
ほっと息をつく寸前、セルジュの指が契約書の末尾で止まった。
彼の眉が、ほんのわずかに寄る。
「……ここだけ、書体が違います」
覗き込むと、最後のページの下端に、かすれた古い文言があった。黒インクではない。少しだけ、別の色が混じっている。
判子のような紋が2つ。並んで、押されている。
「読めますか」
王の問いに、セルジュは首を振った。
「断片だけです。『……かの世界契約に従い……必要とあらば、祝福の権能を他に移譲し……』」
アグナスが咳払いで流そうとした。
「古い決まりごとでしょう。神殿と王家の――」
『そこ、私の直接の管轄外なんですよねえ』
女神の声が、少しだけ歯切れを悪くした。
『上位レイヤーの話というか……仕様というか……まあ、今日は触らないでおきましょう。今は目の前のブラックを直す回です』
回って。
女神が言うと、すべてが物語みたいに聞こえるのが腹立つ。なのに、最後の一言が耳に残った。
触らないでおきましょう。
そこに、何かがある。
会議は、暫定の追記案を持ち帰ることで散会になった。
私は廊下に出て、やっと肩の力を抜いた。石の壁が冷たい。息を吐くと、自分がどれだけ緊張していたか分かる。
「……正直、怖いです」
隣を歩くセルジュに、私は小さく漏らした。
「条文を直すってことは、今まで見ないふりをしてきたものを、全部見るってことで」
セルジュは足を止めなかった。いつも通りの速度で、淡々と答える。
「見てしまえば、直せます。見ないままでは、聖女も騎士も、いずれ同じように削り潰されるだけですから」
私は笑ってしまった。怖いのに、笑える。人が隣にいるだけで、こうも違う。
指輪に触れる癖が出そうになって、まだしていないことを思い出して、こっそり手を握りしめた。
「じゃあ、まずは現状把握ですね」
私は前を向く。
「私の1日が、どれだけブラックか。数字にしてもらいましょうか」
セルジュが、業務報告みたいに頷いた。
「承知しました。明日、一日密着させていただきます」
「……言い方」
「正確さが必要です」
「私のプライバシーは?」
「契約に書きましょうか」
その返しに、心の奥が少しだけ軽くなる。
振り返ると、会議室の扉は閉じていた。
けれど、あの分厚い契約書の末尾で、読めない古文と2つの紋が、静かに待っている気がした。
私が止める側に回った以上、黒インクの奥の文字からも、もう目を逸らせない。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
黒インク契約の末尾、あの2つの紋……次話で「密着調査」が始まります。
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