第1話 聖女業務、女神による稼働停止宣言
公正契約大神殿の大聖堂は、どう見ても巨大な契約書だ。
柱にも天井にも条文が刻まれ、その真ん中で私だけが、生身のまま立っている。
(やばい、立ったまま寝る……)
昨夜から祈願と相談と書類確認を詰め込まれ、仮眠もろくに取れていない。
そこへ「どうしても今日でないと困るんです」という有力貴族の結婚式がねじ込まれて、私の稼働ログは朝から真っ赤だった。
「聖女リディア様、準備を」
補助神官の声。少し後ろでは、若手書記官ティオが紙束を握りしめて震えている。
「し、聖女様……式のあとに『予定外祈願』が3件……」
「聞かなかったことにしようか。今は目の前の式だけ」
「す、すみません……!」
祭壇の前には新郎新婦、客席にはぎっしりと上流階級。
その視線を感じながら、私は深呼吸をした。
《本日の稼働時間、すでに推奨上限の1.5倍ですねえ》
頭の奥で、軽い声が笑う。
公正契約の女神。私の庇護神であり、この世界で一番ログにうるさい存在だ。
(女神様、実況は後にしてください)
《いえいえ、ログは積み重ねてなんぼですから》
儀式はクライマックスへ進む。
「では、公正契約の女神の祝福を——」
大神官長アグナスの声に合わせ、私は両手を掲げた。
契約書レイアウトの魔法陣が光を増し、新郎新婦の足元から淡い金色の光が立ち上がる。
(ここでコケたら、式が台無し……)
焦りと眠気で視界が揺れた、その瞬間。
《はい、そこまで》
女神の声が、いつもより低く落ちた。
《これ以上ログを積んだら、あなたも世界契約もまとめて過労死コースなので、止めます》
(世界契約まで過労死は嫌ですね……)
《ですよね。では、強制停止》
祝福の光が「ブツッ」と途切れた。
見上げた天井いっぱいに、巨大な文字が浮かび上がっていた。
【聖女業務:本稼働を中止しました】
【理由:勤務表が完全にブラックです】
「…………は?」
思わず声が漏れる。私も、新郎新婦も、貴族たちも、全員ぽかんと口を開けて天井を見ていた。
「ブラック……?」
「勤務表とは何のことだ」
ざわつく声。前列の貴族が眉をひそめる。
アグナスが前に出て、慌てて声を張り上げた。
「皆の者、落ち着きなさい。これは一時的な——」
その頭上に、さらに文字が浮かぶ。
【補足:これは『祝福ボイコット』ではなく『安全装置』です】
荘厳な大聖堂に、場違いな単語が並んだ。
アグナスの顔から血の気が引いていく。
(安全装置、か)
胸の奥で、薄く笑いそうになる。
前世で見慣れた、休日欄がスカスカの勤務表。ここでは「奉仕」と呼ばれているそれが、同じ匂いを放っていることには、とっくに気づいていた。
(また世界の都合で、勝手に決められた?)
《違いますよ》
頭の中だけに、女神の声が届く。
《今回は、あなたを守るために止めました。ついでに、この世界の契約もですね》
大聖堂の外、王都の空にもこの文字が映っているのだろう。
ぼんやりそんなことを考えたところで、女神が事務的な声で告げた。
《詳細は後ほど。ひとまず『システムメンテナンス』に入ります》
(メンテとか言わないでください)
《現場用の言い換えです。では、おやすみなさい、聖女さん》
足元から力が抜けた——気がしたのに、体は倒れない。
代わりに、意識だけがふっと暗転し、次に目を開けたときには、世界がまるごと契約書になっていた。
◇
どこまでも続く、光の書類棚。
真っ白なページもあれば、真っ黒に塗りつぶされたページ、赤いインクがべったりと滲んだ項目もある。
「ここは……」
『世界契約アーカイブです。ようこそ、現場代表さん』
振り返ると、白い光の衣をまとった女神が立っていた。
『まずはこれから』
女神が一冊のファイルを引き寄せる。
表紙には、見慣れたタイトルが刻まれていた。
「『聖女勤務契約』」
『はい。あなたと、この国と、この神殿の三者契約ですね』
ぱらり、とページがめくれる。
条文の横には、赤い棒グラフがにょきにょきと伸びていた。
『第○条 聖女は、疲労を理由に祝福を拒否できない』
『第○条 祝福要請は、昼夜を問わず受け付ける』
『第○条 聖女が倒れた場合、神殿は代替祝福を提供することができる』
「……ひどいですね、改めて見ると」
『ひどいですね』
女神が即答する。
『『奉仕』とか『聖なる務め』とかきれいなラベルを貼っても、中身がブラックならログの色は変わりません』
「ここに、私の3年分も入ってるんですよね」
『もちろん。ちゃんと全部、積もってます』
「……で、これを止めたままにしておくことは、できるんですか」
思いきって尋ねると、女神は羽ペンをくるりと回した。
『できます。ただし、代わりに『どう直すか』を決める必要があります』
女神は空中に、2本の光の線を描く。
『1つ。あなた個人の契約だけを、少し楽にする方向で修正する』
『もう1つ。『聖女勤務契約』そのものを、国単位の案件として叩き直す』
目の前に、2つのファイルが現れた。
1つは「聖女リディア個人契約」と書かれた軽そうなファイル。
もう1つは「アルシオン王国・聖女制度」とタイトルだけで肩が凝りそうなファイル。
『前者なら、あなたはすぐ楽になります』
『後者なら、あなたはいったんもっと忙しくなります』
説明は簡潔だが十分だった。
私は視線を背後の棚へ向ける。
「過去聖女稼働ログ」「見習い聖女過労案件」のファイルが積み上がっている。
あの見習いの子が「聖女様の負担を減らしたくて」と笑って、翌日に廊下で倒れた光景がよみがえる。
「……自分だけ逃げても、また誰かが倒れるだけですよね」
前世で、誰も止めてくれなかった自分の姿も、重なった。
「だったら、ここで『止める』側に回ります」
口に出した瞬間、胸の奥で何かが定位置に収まる感覚がした。
女神が、少し真面目な顔でうなずく。
『当事者意思、確認しました』
羽ペンがさらりと動き、別のページに小さく文字が刻まれる。
『案件名:聖女ブラック残業是正』
『担当:リディア/セルジュ』
「……セルジュさん?」
『あ、本人にはまだ言ってませんけど。改革ユニットとしてペア登録しておきました』
「勝手にチーム編成しないでください」
『一人だと折れますからね、こういう案件』
神前離婚のとき、私の逃げ道を条文化してくれた宰相補佐の顔が浮かぶ。
『では、『聖女業務・一時停止』はこのまま維持します』
女神が手を打つと、周囲のファイルがすっと遠ざかっていく。
『現場では、『ブラック勤務表』が王都中に晒されている頃でしょう』
『今日だけじゃなく、これを変えるところまで、お付き合いしますよ』
「……本気で?」
『契約の更新は、私の本業ですから』
その言い方に、私は小さく笑ってうなずいた。
「じゃあ、よろしくお願いします。女神様」
視界が再び反転する。
◇
「——聖女様!」
遠くから呼ぶ声。意識が、大聖堂の天井と石床の感触を取り戻していく。
外から、ざわめきが押し寄せてくる。
「空に文字が出てるぞ!」
「『重大違反』だってよ!」
私は脇の窓から、そっと外を見やった。
王都アルシエルの空一面に、巨大な神託テキストが浮かんでいた。
【聖女労働契約:重大違反を検出】
【聖女の健康は国防インフラです】
「インフラて……」
思わず小声で突っ込む。
「『タイムカード』ってやつ、うちの工房にも欲しいな」
広場の人々の会話が、石壁越しに聞こえてくる。
「せ、聖女様……これは一体……」
背後からアグナスの声。
彼の視線も、空の文字に釘付けだ。
「女神様から、詳細の説明を預かっています」
私は振り向き、一礼した。
「このままでは、聖女どころか——世界契約そのものが持ちません」
「世界契約」という言葉を、公の場で初めて口にする。
神官たちが息を呑む気配が伝わってきた。
「せ、世界契約……?」
「詳しいことは、王宮との緊急会議の場でお話しします」
ちょうどそのとき、神殿の塔から、緊急招集の鐘が鳴り響いた。
(ここから先は、こっちの仕事ですね)
《ええ。ログの準備はしておきますので。あとは、あなたと——改革ユニットのもう片方に》
女神の声に、思わず王宮のある西の丘のほうを見上げる。
◇
同じ空を、別の場所から見上げている人間が、確かにいるはずだった。
「……ついに、女神も動きましたか」
窓辺に立ち、私は小さくつぶやく。
【聖女の健康は国防インフラです】
羽ペンを手に取りながら、私は心の中で彼女に告げた。
「忙しくなりますね、聖女殿」
ここまでお読みいただきありがとうございます!
第2部は「聖女ブラック残業是正編」として、女神と元夫(多分一番逃げられなさそうな男)が世界の働き方に殴り込みをかけていきます。
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