第20話 橋を渡る人
西の空が赤紫に沈みかけていた。
契約大橋の石畳には、紙吹雪と花びらの残骸が、湿った色のまま張りついている。さっきまで祝祭だった場所が、今は片付け途中の舞台みたいに静かだ。
遠くの広場からは、まだ人々の声が風に乗って届いてくる。
断片的な噂と、屋台を畳む音が、まだ風に乗って届く。今日一日で「契約」という単語を何度聞いたか分からない。
橋のたもとに立つ私の隣で、低い声がする。
「本日の移動経路は、簡易支援契約第3条に基づき、私と護衛隊がご一緒します」
礼服から簡素な外套に着替えたセルジュ様が、いつもの事務的な口調で告げた。少し後ろには、女性騎士と平服の護衛が数名。
「……私を一人にしない、条文でしたね」
さっき署名したばかりの文言を、私は口の中でなぞる。
聖女の安全確保のため、原則として単独移動を禁止する。
最低限と呼ぶには、少しばかり手厚い内容だ。
(最低限の意味、やっぱりおかしい)
心の中だけでツッコミを入れる。
《リディア、稼働状況の確認です》
女神様の声が頭の奥に降ってきた。
《本日の精神負荷、平常時比でおよそ5倍。歩行可能ですが、急なイベントは控えましょう》
「診断がざっくりしています」
足元を見ると、石畳の一部に古い文字が刻まれている。国と神殿の条文が、何十年も前からここにあるのだろう。夕焼けを受けて、その一行一行がうっすらと光っていた。
《契約大橋は、もともと国と神殿の約束を刻んだ場所です。
最近は、個人のログも、少しずつここを通るようになりましたが》
「私の三年間分のログも、今日ここを通ったんでしょうか」
《ええ。ブラック寄りのやつが、どっさり》
背筋に、ひやりとしたものが走る。
国のため。王家のため。誰かのため。
その言葉で塗りつぶしてきた三年間が、光の粒になって橋の下へ流れていったところを想像してしまう。
「……行きましょう」
自分に言い聞かせるように呟いて、一歩を踏み出した。セルジュ様と護衛たちが、半歩後ろを静かに並走する。
◇
橋の中央に近づいたとき、靴底の感触が少し変わった。磨かれた石が、夕暮れの光を受けてかすかに滑る。
からん、と足音が一度だけ高く響いた瞬間、視界が揺れる。
真昼の強い光。紙吹雪の白。頭上から降る歓声。
(白い結婚だってよ)
(聖女様、お幸せに)
数時間前の「行きの橋」の光景が、一気に押し寄せてくる。
王太子レオン殿下の隣を歩きながら、私は教科書通りの言葉を口にしていた。
『私は、神と国のためにここに立っています』
本当は、自分に言い聞かせるための台詞だった。
その記憶がしぼみ、夕景に溶けていく。
今、橋の上にいるのは、私とセルジュ様と護衛だけだ。紙吹雪は踏みつぶされて汚れたかけらになり、歓声も拍手もない。遠巻きに見ている人はいても、誰も道を飾ろうとはしない。
(午前中の私は、国のための物語に使われていたんだな)
隣で歩くセルジュ様の横顔は、王族の華やかさとは程遠い、ただの官僚の落ち着いた顔だ。視線は前方の警備と橋の構造に向けられている。
「今日は、誰に見せるためでもなく、必要だから歩いているだけです」
彼は、こちらを見ずに淡々と言う。
「安全な退路を確保し、『聖女は無事に帰路についた』という事実を残す。そのために、この橋を使っています」
「……そうですね」
言葉だけ聞けば、相変わらずお役所報告だ。
けれど、その一文の中でいちばん最初に確認されているのは、私個人の無事だと分かってしまう。
◇
橋の中央付近、人通りがさらに少ない場所で、セルジュ様が歩みをわずかに緩めた。
「聖女リディア様。簡易支援契約の内容について、念のため口頭での確認をしてもよろしいでしょうか」
「はい」
立ち止まると、川面からの風が頬を撫でる。冷たい風が、少しだけ頭を覚ましてくれる気がした。
セルジュ様は、外套の内側から薄い羊皮紙の束を取り出す。さっき署名したばかりの契約書控えだ。
「本日の神前離婚により、王家との婚約契約は正式に解消されました。
現在、あなたの身分および行動を拘束する契約は、聖女奉仕契約と、この簡易支援契約のみです」
「……二つだけ」
声に出してしまってから、自分でも驚く。
紙の枚数は少ないのに、胸の奥がすうすうと軽い。
「補足いたしますと」
セルジュ様は、紙の一角を指で軽く叩いた。
「いずれの契約にも、『所有者』という項目は設けておりません。
聖女奉仕契約は公共目的の契約であり、特定個人による所有を禁じる旨を明文化しました。
簡易支援契約についても、私個人および王宮があなたを所有権として扱わないことを、脚注にて明記してあります」
「所有者欄が、最初から空白……」
思わず、その余白部分を覗き込む。かつて「王太子レオン」「王家」と並んでいた文字を思い出して、胸の奥が少し痛んだ。
《所有物フラグは、先ほどきれいに外れましたよ》
女神様の声が、どこか誇らしげに響く。
《今ついているのは、『聖女』『人々の安全』『自分の健康』と、ついでに『この世界の契約を読む人』タグくらいですね》
「それはそれで、プレッシャーが大きいです」
《読む人がいなければ、書き換えもできませんから》
冗談めいたやり取りに、ふっと力が抜けた。
笑った拍子に、胸のどこかに長く張りついていた「国のため」というラベルが、ぺりりと剥がれていく感覚がする。
(私は、国のための所有物じゃない)
(王家の駒でもない)
ゆっくりと、言葉が形になっていく。
この三年間と、前の世界の記憶を全部抱えたまま、それでも言える言葉。
「セルジュ様」
自分の声が、夕暮れの空気を震わせた。
「私はもう、どちらの所有物でもありません」
口に出した瞬間、同じ橋の上なのに、足の下にあるものが変わった気がした。
《いいですね》
女神様が、満足そうに笑う気配を送ってくる。
《そこから先は、『あなたがどうしたいか』を起点に、条文を足していけばいいだけです》
◇
橋を渡り切る少し手前で、セルジュ様がもう一度歩調を落とした。
「もう一点だけ、お伺いしたいことがございます」
「まだ何か、契約ですか」
思わず苦笑がこぼれる。
「今日は、一生分くらい契約の話をした気がします」
「お気持ちは理解します」
「本日の一連のログと契約のやり取りは、いずれ、神殿と王宮の悪い前例を修正するための材料になります」
「悪い前例」
「はい。聖女奉仕契約の運用や、王族と聖職者の関係について、見直すべき点が多々あると判断しています」
そこで一拍置き、彼は少しだけ声の温度を上げた。
「もし、あなたが望まれるなら。
この経験を、国全体の契約の見直しに活かす場に、ご同行いただけませんか」
「国全体の、契約の見直し……」
本音を言えば、もう契約はこりごりです、と叫びたいところだ。
けれど、その言葉は喉の手前で止まった。
見習い聖女たちの顔が浮かぶ。農民夫婦が震える手で差し出してきた紙束。前の世界で、危ないと思いながらも変えられなかった就業規則。
私は小さく息を吸い込んだ。
「ブラック契約を、そのままにしないための仕事なら」
一度言葉を切って、自分の気持ちをもう一度なぞる。
「……少し休んでからでいいなら、手伝わせてください」
セルジュ様の目が、わずかに見開かれた。
「そのときは、最初から休暇と残業の条文も入れておいてくださいね」
「検討、ではなく。条文案に明記しておきます」
軽口を交わしながら、私たちは橋の終わりへと歩いていく。
◇
《個人の一件から始まる契約の見直しは、世界契約の余白を埋めるための下書きです》
女神様の声が、泉の底から届くような静けさで囁いた。
《さて、ここからどれだけ書き換えられるか。楽しみですね》
水面の向こう側で、世界契約の余白が、今日の日付でそっと光り始めた気がする。
振り返れば、夕焼けの中に延びる石の橋が、赤金色に染まっていた。
昼間、王太子と渡ったのと同じ橋。けれど、意味だけがまるで違う。
契約大橋は、今日も誰かの物語を運んでいる。
行き先を決める条文を、自分で選べる人が増えていくことを、私はもう、願っていい。
第20話「橋を渡る人」まで読んでくださりありがとうございます!
リディアが所有物”から一歩抜け出した節目の回でした。
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