第2話 聖女の朝はタイムカードなし
終電もなければタイムカードもない世界で、私の朝は鐘の音で始まる。
外はまだ夜の色だ。塔の鐘が低く鳴り、冷えた石床が膝に現実的な痛みを返す。女神像の足元でひざまずきながら、私は今日の「案件」を頭の中で並べていた。
(今日も死者が出ませんように。変な契約が増えませんように。ついでに、睡眠時間が少しだけ伸びますように)
《最後のだけ、だいぶ個人的ですね》
頭の内側で、軽い声が笑う。
公正契約の女神だ。
(個人の願いも、契約にしてくれていいんですよ)
《「聖女の睡眠時間は最低〇時間保証」ですか。世界契約にするには前例が足りませんね》
そんなやり取りをしながら、私は形式通りの祈りを終えた。
鐘が二度目に鳴る。ここからが、聖女の「勤務時間」だ。
祈祷室を出て廊下を急ぐと、すでに神官たちが書類を抱えて並んでいた。
「聖女様、お時間のあるときにこちらの——」
「こっちは至急で——」
「優先度の高いものから順にお願いします」
笑顔でそう告げながら、私は心の中で勝手に分類する。
(命に関わる案件、A。生活直撃がB。見栄と政治はC)
聖女執務室の扉を開けると、紙の山と、その陰から飛び出してくる若手神官が一人。
「せ、聖女様、おはようございます!」
茶色の髪を慌てて撫でつけながら、ティオが立ち上がる。契約書庫所属の書記官で、今はほぼ私の専属助手だ。
「おはよう、ティオ。朝から元気ね」
「い、いえ! その……昨日も、灯りが消えたの、だいぶ遅くて……」
「大丈夫よ。前の職場に比べたら、まだマシだから」
口が勝手に、いつもの言い訳をこぼす。
「前の……?」
「こっちに来る前に、ちょっとね。それより今日の予定表を」
話題を変えて紙を受け取ると、「祈祷・相談・視察・会議」とびっしり並んでいた。
(はい、今日もサービス残業コース)
《本日の予定件数、昨日より一割増ですね》
(神様のくせに、残業予測をしないでください)
《稼働時間のログ管理も、契約の一部ですよ》
扉がノックされる。
「個別祈願のお客様を、お通ししてもよろしいでしょうか」
そこから先の午前中は、ほぼ3コマ漫画だった。
個別祈願室で貴族夫人の昇進祈願をこなし、隣室で怪我人を治しながら減免申請にサインをし、廊下では「ついでに」と奉仕活動の報告書を抱かされる。椅子と書類と祈りが、切り替わり続ける。
《聖女業務、順調に過重稼働中ですね》
(「順調」の定義、世界契約で見直せませんか)
そんな軽口を叩いていると、ティオが新しい予約票を抱えて戻ってきた。
「次は農村からいらしたご夫婦です。地代契約のご相談で……かなり切羽詰まっているみたいで」
「分かったわ。お通しして」
質素な服に日焼けした肌。ひび割れた指先。農民夫婦は、緊張で肩をすぼめたまま部屋に入ってきた。
「し、聖女様に、こんなことをお願いしてよいのか……」
「困っている人の相談を聞くのが、私の仕事です。どうぞ、お掛けください」
椅子を勧めると、夫婦はおそるおそる腰を下ろした。
「その、地主様が、新しい契約を結んでくださることになりまして」
「『豊作の年は多めに、凶作の年は相談』してよいと、言ってくださったんです」
妻の声には、少しだけ誇らしさが混じっている。
机の上には、一枚の羊皮紙。丁寧な文字の上に、淡い光の帯が幾筋も浮かんでいた。
私には、それが「加護タグ」として見える。
白っぽい細い帯は、通常の地代。薄い金色の粒は、豊作の祝福。
その中に一本だけ、赤銅色の鎖のようなタグがからみついていた。
(豊作時追加徴収、ですね)
「少し、条文を読ませていただいてもいいですか」
「も、もちろんです!」
私は契約書を手に取り、一行ずつ声に出す。
「『豊作の年には、地主は地代を増やすことができる』」
「はい。恵みを分け合うのが筋だと……」
「ここまでは、まあ、いいとして。『凶作の年は、地主は相談に応じることがある』」
その一文で、ティオがぴくりと眉を動かした。
私はペン先で、「ある」の一文字を軽くつつく。
「……『ある』、ですか?」
「ええ。『相談に応じることがある』だと、『今回は応じません』と断られても、契約違反にはならないんです」
農民夫婦の顔色が、一気に曇る。
「で、でも、地主様は『困ったときは相談に乗る』と……」
「口でそう言ってくださるのは、本心なんだと思います。ただ、紙に書かれている言葉は、少し違う意味なんです」
私は出来るだけやわらかい声で続ける。
「それに、『豊作の年には地代を増やすことができる』とこの一文が組み合わさると、豊作の年にはたくさん払って、凶作の年には、相談しても断られるかもしれない、という形にも解釈できてしまいます」
ティオが、ごくりと喉を鳴らした。
《出ましたね、「任意」系の地雷ワード》
私は小さく息をつく。
「もしよろしければ、この部分に、少しだけ手を入れさせてもらえますか。地主様の顔をつぶさない範囲で」
「そんなことが……?」
夫婦とティオが同時にこちらを見る。
「『凶作の年には、地代を減免することを原則とし、やむを得ない場合のみ相談とする』」
「げ、減免……」
「このくらいなら、地主様にも納得していただけると思います。『相談に応じることがある』だと曖昧なので、『原則減らす、どうしても無理なときだけ相談』に変えるんです」
私はペンを取り、元の「応じることがある」に、静かに二重線を引いた。
余白に新しい文言を書き込むと、赤銅色の鎖タグがほどけ、淡い銀色の帯に変わる。
「……光が、変わった?」
「ええ。これで、『相談したのに聞いてもらえなかった』というログが積みにくくなります」
「ろ、ログ……?」
「女神様のアーカイブに残る記録のことです」
農民夫婦は、互いの手を強く握りしめた。
「聖女様……。こんな、私らのために」
「ありがとうございます。これで、畑を続けていけそうです」
「地主様にも、この修正案を必ず説明します。もちろん、最終的に署名されるかどうかは、地主様のお考え次第ですが」
私は最後にそう付け加えた。契約にサインするかどうかを決めるのは、あくまで当事者だ。
《そういうところが、好きですよ》
(口説かれている気がするので、やめてください)
夫婦が何度も頭を下げて去っていき、扉が閉まる。
ティオが、二重線と追記をじっと見つめていた。
「……こういう書き方も、あるんですね」
「あるのよ。契約書の余白がある限り、まだ何か変えられるわ」
自分で言いながら、その言葉が胸の奥に小さく残る。
塔の鐘が、正午を告げた。
けれど相談室の前の列は、まだ途切れない。
「聖女様、お昼……少しだけでも」
ティオが、おそるおそる水差しを掲げる。
「そうね——」
答えようとしたところで、扉の外から貴族らしい声が響いた。
「午後の祝福予約が押していてね。うちの子の祈願を、少し前倒ししてもらえないか」
「聖女様には、いつもお世話になっているからな」
年配の神官が、にこやかにティオを諭す。
「奉仕に休みなどいらんよ、若いの。感謝されるうちが花だ」
「で、でも、聖女様は朝から——」
「聖女様はお丈夫だから大丈夫だとも。女神様の加護がある」
(出ました。「やりがい」と「加護」の合わせ技)
私は苦笑いで受け流した。
「大丈夫よ、ティオ。本当に倒れそうになったら、ちゃんと休むから」
「……『本当に』って、どのくらいなんでしょう」
ぽろりと零れたティオの呟きが、やけに耳に残る。
ようやく列が一瞬だけ途切れた隙に、ティオがパンと水を運んできた。
「せめて、これだけでも」
「ありがとう」
窓辺に腰を下ろし、私はパンをかじる。
机の端に置かれた封筒が目に入った。「奉仕契約見直し会議・次週案内」と記されている。
(「奉仕」という言葉が、ここではどんな条文になるのか)
私は小さく息を吐いた。
「その日、私の休憩時間は、この5分で全部だった。そして『奉仕』という言葉が、これから3年かけて、私たちの首を絞めることになるなんて——このときの私は、まだ知らない」
ここまで読んでくださりありがとうございます!
ブラック聖女の朝、いかがでしたか? 少しでも「続きが気になる」「この世界観好きかも」と思っていただけたなら、評価やブックマークが作者の心の残業代になります。感想も全部読んでいます。
第3話から、元夫神様との関係が一気に動き出します。次回もお付き合いいただけたら嬉しいです。




