第19話 最低限の取り決め
控室の扉が閉じた瞬間、膝から力が抜けた。私はそのまま椅子に腰を落とす。
本堂いっぱいのざわめきも視線も、分厚い扉の向こうに遠のいていく。重たい式服の襟元を指先で少しだけ緩め、左手の薬指を見下ろした。
細い輪の跡が残っている。三年間、「王太子妃候補」という名札と一緒に私を縛っていた印だ。
所有物の刻印みたいだったその輪は女神様の光にほどけて消えたのに、肌だけまだ、じんと熱い。
《三年分のログ、きちんと送り出されましたよ。改めて、お疲れさまでした、リディア》
頭の中に、よく知った女神様の声が降ってくる。
「……ありがとうございます」
声に出す余裕はなく、心の中だけで答えた。
《なかなか大変なログでしたね》
私は背もたれに体を預け、ゆっくり息を吐いた。
《では、次はあなたを守る契約ですが――》
「その単語を今出されると、脳が溶けるので後ほどにしてください。今だけは契約ゼロの休憩時間で」
《了解です》
女神様の気配が、少し遠のいた。
机の上の白い板には、まだ一行も書かれていない。目を閉じかけたところで、控えめなノックの音がした。
「失礼いたします。宰相補佐のセルジュ・ラグランジュです。入室してもよろしいでしょうか」
早い、と思うより先に、口が動く。
「どうぞ」
立ち上がるべきか一瞬迷う。けれど膝がはっきり反対意見を出してきたので、私は座ったまま返事をした。
扉が開き、黒髪をきちんと束ねた男が入ってくる。礼服姿、片手には薄い書類束。
灰色の瞳が私をひと目見て、ほんの一瞬だけ、眉を僅かに寄せた。
「ご気分はいかがですか。立ってお迎えいただく必要はありません。ここでは、形式よりもお身体の方が優先です」
「……正直に申し上げるなら、燃え尽きたが一番近いです」
「でしょうね」
セルジュ様は淡々と答え、机の端に書類を置くと、少し距離を取った位置に椅子を移して腰を下ろした。
「本日、これ以上の公的なご出番はありません。最低限の確認だけ済ませたら、すぐにお休みいただきます」
「最低限、ですか」
可能な範囲でと広げられてきた奉仕に比べて、最低限という響きは不思議と柔らかい。
「はい。放置すると不利益が生じかねない点が、いくつかございます」
彼が書類を整えた。
「本日の裁定により、聖女リディア様の立場は、王太子妃候補から独立した聖職者へと切り替わりました。立場が変われば、守るべき範囲と責任の配分も変わります。そこを、本日中に最低限整えておきたいのです」
「……お願いします」
「畏まりました」
1枚目の紙が、こちらへ滑らされる。
「まずは、住まいについてです。本日をもって王宮居室はご利用いただけません。大神殿の聖女居室に戻る選択もありますが、現状の神殿環境が休息に適しているとは言い難い」
「そこで当面は、王都内の別棟を仮住まい兼聖女保護施設として手配する案を、宰相府から提案しております。王宮にも神殿にも属さない中立扱いの官舎です」
セルジュ様は条文を指で示す。
「第1条。聖女リディアの当面の居住については、王宮および大神殿とは別個の安全な仮住まいを設け、本人の安全と休息を最優先に確保するものとする」
「……手厚い最低限ですね」
半分冗談で言うと、セルジュ様はわずかに口元を緩める。
「これでも、絞った方です」
「次に、公的な交渉窓口について」
2枚目がめくられた。
「本日の件で、聖女リディア様に関する意見や要求が、王宮、神殿、市民、他国から一斉に向かってくることが予想されます。その全てに、あなたお一人が直接対応する契約は、先ほど終わりました」
静かな声が胸に落ちた。
「以後、聖女リディア様に関する一切の公的交渉窓口は、当面、宰相補佐である私を通じて行うものとします」
「それは……所有者ではなく、代理人、ということでしょうか」
「いいえ。所有ではなく、代理です。あなた一人に直接矢面に立っていただく契約は、もう終わりましたから」
「第2条。聖女リディアに関する一切の公的交渉窓口は、当面、宰相補佐セルジュ・ラグランジュを通じて行うものとする」
「続いて、身辺警護と移動です」
3枚目。
「本日の件で、あなたを慕う者も、恨む者も増えます。どちらも感情のままに突っ込んでこられると危険です」
「聖女に護衛なんて、大げさではありませんか」
「国の象徴を守るのは、単なる治安維持です。当面の外出には女性騎士を中心とした小隊を同行させます。顔の割れていない平服警護も付けます」
「そこまで……」
「最低限です」
「第3条。聖女リディアの移動には、本人の意思と予定を尊重しつつ、王国警護隊による最低限の護衛を付す」
「そして、聖女奉仕に関する稼働時間の暫定上限を定めます」
4枚目の端を押さえたまま、セルジュ様の声がわずかに低くなる。
「一日の奉仕時間には上限を設けます。週に最低1日は完全休養日。夜間の突然の呼び出しは、人命に関わる緊急案件に限る」
「……そんな夢みたいな条文、通るんですか」
「人が倒れてからでは遅すぎます。祝福を維持するためにも、国益を守るためにも」
「第4条。聖女リディアの奉仕時間は、健康を害さない範囲および国益を損なわない範囲における上限を設ける」
「最後に、本日の神前離婚に関する公式発表についてです」
5枚目。
「聖女リディア様を一方的な責任主体として扱う表現を、王宮も神殿も用いてはなりません」
「……そこまで、もう」
「神と公衆の前で公開されたログを、後から聖女のわがままに書き換えられては困りますので」
淡々とした声の奥に、静かな怒りが潜んでいた。
「第5条。本日の神前離婚に関する公式発表において、聖女リディアを一方的な責任主体として扱う表現を用いてはならない」
「以上5点を、最低限の取り決めとして一枚にまとめました」
セルジュ様が紙を揃え、私の前に差し出した。
条文の下に並ぶ署名欄。
聖女リディア。
宰相補佐セルジュ・ラグランジュ。
私は自分の名前を見つめる。
ここに書くのは、誰かの所有物になるための署名じゃない。
私を守る条文のために、自分の名前を書く。
「ご署名いただけますか」
羽ペンを受け取り、私は一度深く息を吸った。
ペン先が紙に触れた瞬間、契約書の角がふわりと淡く光る。
《個人契約タグ、仮登録しておきました》
女神様の声が、くすぐったそうに笑った。
署名を終えると、セルジュ様も自分の名前を書き入れ、静かに一礼する。
「本日の取り決めは、あくまで暫定です。これ以上に必要な保護や条件があれば、その都度見直す前提とします」
「その都度……」
そんな言葉に慣れていなくて、返事に迷う。
セルジュ様は一拍置き、少しだけ声のトーンを落とした。
「……結論として、聖女リディア様。あなたは、これまでよりも、もっと守られるべき方です」
丁寧で硬い口調のまま、急に素直な言葉が落ちてくる。
どう返せばいいのか分からなくて、一瞬だけ喉が固まった。
冗談で流すには、自分を少し大切にしたい。真正面から受け止めるには、まだ慣れていない。
間を埋めるように、自然と口が動く。
「……でしたら、その結論も、条文にしてもらえますか」
「条文に、ですか」
「はい。聖女は本来、守られるべき存在とするって、どこかに書いておいていただけたら、安心します」
自分で言って、頬が熱くなる。
セルジュ様の目が、わずかに見開かれた。すぐに、いつもの理知的な表情に戻る。
「検討、ではなく。本条のタイトルにいたしましょう」
彼は契約書の上部の余白に、さらさらとペンを走らせた。
聖女保護に関する最低限の取り決め
《いいですね。最低限って付けておくと、後からいくらでも増やせますから》
私を守るための条文のところに、初めて自分の名前を書いている。
この小さな契約が、世界の契約を少しずつ書き換えていくことになるなんて、まだ知らないまま。
控室の窓の外で、空が夕暮れに染まり、遠くに契約大橋の細いシルエットが浮かんでいた。
私は小さく息を吐き、左手をそっと膝の上で握りしめた。
第19話までお付き合いありがとうございます。
ブラック聖女から“守られる側”への一歩目、ちょっとでも胸がふっと軽くなっていたら嬉しいです。「続きも読みたい」「リディアをもっと守りたい」と思っていただけたら、ブックマークと広告下の【☆☆☆☆☆】から評価をぽちっとしてもらえると、次の条文を書く燃料になります。
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