第17話 聖女に与えられた選択肢
祭壇の上に浮かぶ光の契約書には、まだ二行の選択肢が揺れていた。
① 改善案つきで再契約
② 解消(神前離婚)
女神様の羽ペンが、その二行の間をくるりとなぞる。本堂を満たしていたざわめきが、ぴたりと止まった。
《……なお、本件の最終決定権は、聖女リディア様にあります》
静かな声が、高い天井に届いて反射する。
最終決定権。私に。
3年間、「国のため」「王家のため」と言われ続けてきた。
何かを決める時、私の名前が主語になったことは一度もない。
《本契約の主要当事者は、王太子レオンハルト殿下、公正契約大神殿、そして聖女リディア様》
《ですが、日々の稼働時間と祝福負担の大半を担ってきたのは、どなたでしょう》
女神様が指先を弾くと、祭壇の横に光のログが一瞬だけ早送りで流れた。
祈願、奉仕、残業。タグが、私の名前の横にだけ、山のように積み上がっていく。
(演出が容赦ないです、女神様)
《事実を可視化しているだけですよ》
《よって、本件については、まず聖女の意思を確認するのが公正かと存じます》
その一言で、壇上も王族席も傍聴席も、視線の向きをそろえた。
矢の束みたいな視線が、まとめて私に突き刺さる。
(ここで「国のために」と笑えば、きっと全部丸く収まるように見える)
国王陛下の安堵した顔。王妃のほっとした吐息。神殿幹部たちの、「やはり再契約で」という表情。
その未来が、一瞬で思い浮かんだ。
《時間が必要であれば、儀式の進行を一時停止することも可能です》
《あなたが本当に望む条文を、ゆっくり言葉にしてくださって構いません》
女神様の声が、少しだけ柔らかくなる。
時間が必要なら、と言われた瞬間、私は悟った。
(時間をもらえたら、私はまた「あとで」と先送りにする)
前の世界の会議室。「この件は次回に」と棚上げされる議題。終わらない残業。
あの癖を、ここにも持ち込んではいけない。
《※もちろん、ここで決めてもいいですよ》
《ログは、いつでも更新できますから》
(その軽さで人生を動かさないでほしいです、女神様)
◇
「……聖女リディア」
静寂を破ったのは、レオン殿下の声だった。
いつもの公務用の落ち着いた口調ではなく、少し掠れた、素の声。
「君がどれほどの負担を背負ってきたか、俺は、分かっていなかった」
壇上から一歩だけこちらへ進み、私と真っ直ぐ向き合う。
「だが、改善はできる。新しい条文で、君を守る形に変えられるはずだ。
国と神殿の絆を、この場で断ち切る必要はない」
君を愛するつもりはない。
3年前、同じ口元で告げられた言葉が、耳の奥で蘇る。
(あのときと、同じ顔)
私に向けられているのは、個人への感情ではなく、「聖女」という役職への視線だ。
「俺は、王家の駒で構わない」
レオン殿下が続ける。
「個人の感情より、国と民の安定を優先する。それが王太子の務めだ。
君も国のためにここまで耐えてくれた。
だからこそ、この場で離婚という前例を作るべきではないと、俺は思う」
(俺は駒でいい、か)
その言葉自体は、きっと嘘ではない。
本気でそう信じているからこそ、彼はここまで無自覚に人をすり減らしてきた。
「聖女様」
今度は、別の声が私を呼ぶ。
ミレーヌ侯爵令嬢が立ち上がっていた。
栗色の巻き髪が、緊張でかすかに震えている。それでも顔は、完璧な淑女の笑みを崩さない。
「もし、この婚約を解消したら、国も神殿も、大きく揺れます。
きっと、あなたに責任を問おうとする人も出てくるでしょう」
言いながら、ミレーヌは自分の胸元にそっと手を当てた。
「でしたら、その役目は、私が引き受けます」
「……役目、ですか」
「ええ。私が悪役になればいいのですわ。
王太子殿下が本当に愛しているのは別の女性だった、と。
聖女様は国のために身を捧げようとしたのに、私が間に入って婚約を乱したのだと」
さらりと言い切る声は、少しも揺れていない。
「そうすれば、聖女様は聖女として、これまで通り人々を救えます。
殿下は殿下で、王太子として国を支える。
嫌われ役は……私一人で足ります」
ミレーヌの目は、まっすぐだった。そこには、私への敵意ではなく、妙な献身だけが宿っている。
(自分が悪役でいればいい、か)
胸の奥で、小さく苦笑が浮かぶ。
レオン殿下は「俺は駒でいい」と言い、ミレーヌは「私が悪役でいればいい」と言う。
女神様の声が、脳裏の片隅でひそやかにささやいた。
《※ちなみに、ミレーヌ嬢の実家は、自己犠牲を美徳とする教義を一部輸入しておりまして》
(脚注みたいな情報を今出さないでください)
《「自分が削れれば丸く収まる」発想に慣れすぎている家系ですね》
レオン殿下の駒契約。
ミレーヌの悪役契約。
どちらも、「誰か一人が我慢すれば丸く収まる」構図だ。
もし今、ここで私が頷けば。
王も王妃も、神殿も、安堵するだろう。
観衆も、「聖女様はやはり尊い」と拍手を送るかもしれない。
(でも──それで救われない顔を、私はもう知っている)
◇
冬の路地の冷たい空気が肌を刺す。
「聖女様の負担を減らしたくて……」
見習い聖女が笑った直後に崩れ落ちた音。医師の「よくあることですよ」、大神官長の「熱心な子ほど無理をしがちでして」。
(よくあること、で済まされる命なんてない)
書庫の隅でめくった前任聖女の記録。
『予定以上の祈祷と奉仕。聖女である限り、休息を求めるのは贅沢なのでしょう』
前の世界のオフィス。夜の11時を過ぎた時計。
「裁量労働制について」「みなし残業〇時間」と並ぶ就業規則の見出し。
辞めたくても辞められなかった同僚たちの、「家族のために」「迷惑をかけたくないから」という声。
どの世界でも、「誰かのために」が、静かに人をすり減らしていく。
《それに、嫌だも立派な願いですよ》
《ここから逃げたいを条文にしてはいけない理由なんて、本当はどこにもありません》
女神様の言葉が胸の中心に沈む。
レオン殿下の「俺は駒でいい」。
ミレーヌの「私が悪役でいればいい」。
見習い聖女の「聖女様の負担を減らしたくて」。
どれも、「誰かのために自分を削る契約」だ。
(ここで同じ契約を選び直したら、きっと私は一生、自分の「嫌だ」を後回しにする)
だったら、ここで終わらせる。
◇
視界が、現在の本堂に戻る。
光の契約書は、まだ私の頭上に浮かんでいた。
女神様が、静かに私を見ている。
レオン殿下も、ミレーヌも、王も王妃も、神官たちも。
ここまで一度も、私に向けられたことのなかった「選べ」という視線だった。
私は一度だけ深く息を吸い込み、女神様を正面から見上げた。
「女神様」
自分の声が、思っていたよりもはっきりと出た。
「私は──」
あの日、泉のほとりで宣言したことを思い出す。
『もし、どちらかを選ぶときが来たら。今度こそ、私がどうしたいかから決めたいです』
あれから、どれだけ迷っても、結局戻ってくるのは同じ場所だ。
(「国のため」と笑う顔ではなく)
(「私のために」と言える顔を、やっと女神様に見せたい)
だから、私は言う。
「私は、この契約を継続するつもりはありません」
世界から、音が消えた。
祭壇の上で、光の契約書が揺らぐ。
私の胸元や肩口に貼りついていた加護タグのうち、「王家」「王太子妃」「宮廷社交」と刻まれたものが、ぱち、ぱち、と小さな音を立てて外れていく。
床に落ちる前に、タグは光の粒になって消えた。
残ったのは、「聖女」「人々の安全」「自分の健康」と刻まれた、いくつかのタグだけだ。
《当事者の意思を確認しました》
女神様が静かに頷き、羽ペンを契約書の末尾へ滑らせる。
《では、形式通り。神前離婚の手順へ移りましょう》
形式通り。
3年前、「これは国のための結婚ですから」と言った時と同じ言葉が、今日は全く違う意味で響く。
3年間「国のための契約」を守るために費やした重さが、今ようやく肩から降りていく。
静寂の真ん中で、私はそっと息を吐いた。
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