第15話 お前を愛するつもりはない
祭壇の上で、女神様の羽ペンがくるりと回った。
《それでは、形式通り――発言ログから抜粋を再生します》
眠たげな声色はいつも通りなのに、本堂の空気だけがきゅっと締まる。石造りの壁も、色ガラスも、息を潜めたみたいに静かになった。
私は、膝の上で組んだ指に力を込めた。冷たく汗ばむ手のひらが、手袋越しにも分かる。
(大丈夫。これは、三年間かけてここまで積んだログの話)
天井の契約文様が淡く光り、そこから垂れるように、薄い光の板が何枚も降りてきた。半透明の羊皮紙が円を描くように私たちの頭上に立ち上がり、それぞれに文字が浮かぶ。
「年月日」「場所」「発言者」。
条文と同じく、すべてが整理され、整列されている。
《王太子レオンハルト殿の発言ログより。三年前から本日に至るまでのうち、婚約契約第二条『互いの名誉を尊重すること』および第四条『聖女の安全と健康を守ること』に関わる部分を、順に再生します》
いくつもある光の板の中で、一枚が強く光を帯びた。件名欄に浮かんだ文字を見て、喉がひゅっと鳴る。
「件名:お前を愛するつもりはない」
見慣れすぎて、私の頭の中ではただのラベルになっていた言葉が、今日は本堂の真ん中に掲げられている。
(……本当に、やるんだ)
胸の奥で、三年前の夜の冷たい空気がよみがえる。それでも、私は視線をそらさない。逃げないと決めて、ここまで来たのだ。
《では、再生開始》
女神様の声と同時に、光の板の縁がくるりと回転する。次の瞬間、本堂の上空に、別の声が響いた。
《再生:三年前 王宮西回廊/発言者:王太子レオンハルト》
『……俺は、国のための駒だ』
低い声が、石壁に反響する形で再生される。実際の回廊ではなく、ログの音だけが、この神殿の天井を叩いている。
ざわ、と前列の貴族席がわずかに揺れた。王家の紋章が刻まれた列のあたりで、誰かが小さく息を呑む音がした気がする。
《この部分は、当事者自身による自己定義ですね。ここから先が、本題です》
女神様の解説は、淡々としている。責めるでも、同情するでもなく、「事実」を机の上に並べる人の声だ。
『誰か一人を、特別に愛するつもりはない』
続いた台詞に、さきほどより大きなざわめきが起きる。「愛するつもりはない」という言葉だけが、耳の中でやけにくっきり響いた。
そして、少し間を置いて、当時の私の声も重なる。
『それでも……せめて、お互いに、人としての信頼だけは、と。そんなふうには……望めないのでしょうか』
自分の声なのに、別人のように聞こえた。あの夜、言葉を選びながら、やっと口から押し出した「信頼」という二文字。今聞くと、か細くて、心許ない。
(あのときの私は、それでもまだ、「国のための婚約」だと自分に言い聞かせていた)
《ここでは互いの名誉を尊重することと、一方的に期待を切る行為の関係が焦点になります》
羽ペンが、空中の条文板の上をなぞる。「互いに尊重すること」「相手の人格を貶めないこと」といった文字列が淡く浮かんでは消える。
ログの再生は、そこで一度途切れた。
《次の抜粋に移ります》
別の光の板が前に滑り出る。
《再生:同日/王宮西回廊/発言者:王太子レオンハルト》
『……君に、期待されても困る』
「どんな文脈だ?」と、後列の騎士のあたりから小声が漏れた。気持ちは分かる。文脈ごと流される側にとっては、もっと困る。
次の瞬間、あの一言が、本当に来た。
『お前を愛するつもりはない。愛せなくても、役割を果たせばいい』
石畳に染み込むように響いた声。その残響まで、ログはきっちり保存していたらしい。天井の文様の隙間で、音だけが長く尾を引いた。
膝の裏が、三年前と同じ場所から冷たくなる。あの夜は、そこで一度、足が折れかけた。
けれど、今日は折れない。私は視線を落とさず、まっすぐ前を見たまま、最後の一音まで聞き切る。
(あのときの私は、あの言葉を、「私への宣告」としてしか受け取れなかった)
今は違う。
(これは、契約の話だ)
女神様が、静かに区切る。
《以上が、三年前の王宮回廊でのやり取りのうち、婚約契約第二条および第四条に関連すると判断した部分の抜粋です》
《ここまでは、事実の再生のみ。評価は、これからですね》
評価、という単語に喉が鳴った。隣で立つレオン殿下の肩が、わずかに揺れた気がする。
光の板が一枚ずつ暗くなり、天井近くへ引いていく。そのかわりに、会場のざわめきが戻ってきた。
前列の王妃様は、扇子を持つ手をそっと口元に当てている。白い指先が、ほんの少し震えていた。かつて「白い結婚」という言葉で、この婚約をきれいに包装した人と同じ手だ。
王は正面から視線を動かさないまま、玉座の肘掛けを掴んだ指に力を込めている。静かな横顔の下で、顎の筋肉だけが固くなっているのが分かった。
(国の駒と言った言葉が、そのまま王家全体の顔に跳ね返っている)
視線を少しずつ動かすと、貴族席のあちこちで、顔を見合わせる姿が目に入る。「本当に言っていたのか」「噂じゃなかったのか」と、小さな声が漏れていた。
その噂を、契約大橋の上で替え歌にして笑っていた子どもたちの顔が、ふと脳裏をよぎる。
(あの子たちは知らない。笑い話にされていた一言が、今日はこうして証拠になっていることを)
視線をさらにずらすと、ミレーヌ様がいた。真っ白な手袋越しにも分かるほど、指先を固く握りこんでいる。あのログの「お前を愛するつもりはない」を聞いた瞬間、彼女の視線がレオン殿下から、ほんの一瞬だけ、こちらに揺れた。
(彼女も、この言葉を誰かを守るための自己犠牲だと受け取ってきたのかもしれない)
けれど、守られなかったのは、結局ここに立っている私だ。
最後に、僅かに視界の端でレオン殿下を見る。普段は揺れない喉仏が、ごくりと上下していた。自分の声がこうして客観的に再生されることに、初めて現実味を覚えている顔だった。
《さて――》
女神様の声が、再び本堂を満たす。先ほどより、少しだけ真面目な響きが混じっていた。
《発言の再生は、以上です。ここから先は、条文との照合と、契約違反の有無の評価になります》
羽ペンの先が、空中に浮かぶ婚約契約書の上を滑る。「互いの名誉を尊重すること」「聖女の安全と健康を守ること」。いくつもの文字列が光り、先ほどのログと線で結ばれていく。
私は、息を吸った。
ここから先に進むためには、誰かが質問をしなければならない。その「誰か」が、ようやく私の番になったのだと、胸の奥が静かに理解する。
(三年間、国と神殿のためだと教えられてきた婚約契約)
(その条文が、本当に守られてきたのかどうかを、今、正式に問い直す)
膝に置いた手をそっとほどき、一歩だけ前に出る。契約の文様が刻まれた床の上で、光がわずかに揺れた。
私は、女神様を見上げた。
「公正契約の女神様」
声が、自分でも驚くほど、震えていなかった。
「この婚約契約において、ただいま再生された発言ログが――」
静寂の中で、言葉をひとつひとつ噛み締める。
「契約条項の違反に当たるかどうか。お伺いしても、よろしいでしょうか」
羽ペンの先が、ぴたりと止まる。女神様の眠たげな瞳が、すうっとこちらに焦点を結んだ。
《はい。形式通り、評価フェーズに入りましょう》
強く光を帯び始めた羽ペンを見つめながら、私は胸の奥で、そっと息を吐いた。
(これは、誰かに許しを乞うための問いではない)
(私が三年間積み上げてきたログを、正式に「証拠」に変えるための、一言だ)
その実感だけが、静かに、私の中に灯っていた。
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