第14話 神前確認式、開幕
契約大橋のざわめきが、背後で扉一枚ぶん遠くなる。
厚い扉が閉まる音がして、外の喧騒は一度きれいに薄まり、広い空間特有の低いざわめきだけが胸の奥に残った。
「こちらへどうぞ、聖女様」
案内役の神官の声にうなずき、赤い敷物の上を進む。
少し前を歩くレオン殿下とは、腕一本ぶんの距離が空いていた。婚約者同士なのに腕を組まないこと自体が、「清らかな白い婚約」を象徴する演出だと、打ち合わせで何度も聞かされている。
(腕を組まないことまで、演出に含めなくていいと思うんですけれど)
外の人たちにとって、今日は祝福の式だ。王太子と聖女が手を取り合い、国と神殿の絆を確かめ合う舞台。
けれど私にとって今日はいわば、三年間の勤務表と契約書の「答え合わせ」だ。
《答え合わせ式。地味ですけど、いい響きですねえ》
頭の内側で、いつもの気楽な声が笑う。
公正契約の女神様。今日の式の主催者であり、この世界で一番、条文にうるさい存在。
(女神様。今日だけは、笑ってごまかさないでくださいね)
《ごまかしませんよ。真面目に、ログを読みます》
その一言だけで、喉の奥が少し乾いた。
視線を上げると、天井一面のレリーフが目に入る。
過去の「大案件」の名前と図柄が、輪のように刻まれている。戦争終結、王位継承の調停、神殿と王家の和解。
その一番端に、ぽつりと空いた枠が一つ。
(三年前、初めてここに立ったときは、「自分には関係のない場所」だと思っていたのに)
けれど今は、その空白が、自分の案件のために空けてある余白のように見える。
(余白があるなら、書き込むことも、線を引いて消すことも、本当はできるはず)
深夜の泉で、女神様が婚約契約書の余白に「休息」「拒否権」などの言葉をそっと書き込んでいった夜を思い出す。
足元には、巨大な契約書のレイアウトを模した線が描かれている。条文の枠、署名欄、証印のスペース。
私とレオン殿下は、その署名欄にあたる位置に並び立つことになっていた。
前方には、王と王妃、王宮の重臣たち。
横手には、大神官長アグナスと神殿幹部。
王宮と神殿に挟まれた、ただ1人の媒介者。
(板挟み、ってこういう立ち位置のことを言うんだろうな)
胸のあたりが、きゅっと締めつけられた。
祭壇の背後には、光の板が何枚も重なって浮かんでいる。そこには、レオン殿下との婚約契約の条文が、祝福の光に包まれて静かに並んでいた。
左手の薬指の指輪が、わずかに浮いて皮膚をこする。半号ほど大きいサイズは、相変わらず指になじまない。
《やっぱり指輪、少し大きいですねえ》
(今その観察、必要ですか)
《とても。サイズの合わない指輪って、「この案件、最初からどこかズレてましたよ」のサインなこと多いですし》
(それを神様が言わないでください)
そんなやり取りをしているあいだに、私たちは指定の場所で向き合い、ひざまずいた。
中央に立つ神官が、祝詞のような調子で声を張る。
「ただいまより、公正契約大神殿における、王太子レオン殿下と聖女リディアの神前確認式を執り行う」
広い本堂の空気が、一度ぴんと張りつめる。
ここから先は、打ち合わせで何度もなぞった、形式通りの流れのはずだ。
(形式通り、なんて。今さら、その言葉を素直に信じられるほど、私はのんきじゃない)
《形式通りって、本来はいい言葉ですよ? 条文と実態をちゃんと確認する手順、という意味ですから》
◇
「互いの名誉を守ること。王国と神殿の協力関係を維持すること。聖女としての務めを最優先すること」
神官が、婚約契約の条文を、祝福の言葉のように読み上げていく。
客席のあちこちから、うっとりとした気配が伝わってきた。
《出ました、互いの名誉テンプレ》
(テンプレって言い方、完全に現場の人です)
《実務で揉めるの、だいたいこの辺りなんですよ。便利な言葉ほど、解釈の幅が広くて》
私は表情を変えないまま、条文の一行一行を目で追う。
紙の上で約束されているだけ、前の世界よりはマシ。そう思った時期もあった。
けれど、それはあくまで「マシ」というだけで、「守られていた」と言うにはほど遠い。
「聖女の安全は、可能な限り配慮され――」
祝詞の一文に合わせて、脳裏に別の光景がよみがえる。
徹夜明けの契約書庫。インクの匂いが濃くて、視界がかすんだ朝。
「聖女様の負担を減らしたくて」と笑った直後に倒れた、見習い聖女の姿。
あれもログには残っているけれど、胸を張れる結果ではない。
「王家はその権威をもって、聖女の務めを守護し――」
別の一文で、記憶は豪雨の夜へ飛ぶ。
水害の被災地から戻った廊下で、泥と冷気で震える手を袖に隠したまま、私はレオン殿下から一言だけ告げられた。
『聖女としての働きに感謝する』
形式としては正しい言葉。けれど、その背中はすぐに遠ざかっていった。
(あの夜のログにも、「王太子、感謝の意思表示」と記録されているんでしょうね)
《はい、きっちり。感謝ログの達成度だけは高いですよ》
(そこだけ高くても、あまり意味はないと思います)
神官の祝詞と、頭の中で再生される三年間の裏ログ。
神前確認式の読み上げは、三年間の勤務表の「見出し行」だけを拾っているみたいだった。
視界の端で、観客席の反応が揺れる。
前列の貴族夫人たちは、ハンカチで目頭を押さえながら、静かにささやき合っていた。
「愛ではなく信義で結ばれるなんて、なんて崇高なのかしら」
「白い結婚だなんて、本当に物語みたい」
外の広場では、きっと今も誰かが噂の替え歌を口ずさんでいる。
お前を愛するつもりはない、から始まる、少し不謹慎な歌。
(文字だけ見れば、私たちの婚約は、「互いの役割を尊重し合う契約」に見えるのに)
だからこそ、この場で読み上げられた条文を聞いた誰も、「そんな約束は知らなかった」と言い訳することはできない。
◇
ひととおり祝詞が進み、神官が巻物を閉じる。
「以上をもって、婚約契約条文の確認を――」
言いかけたところで一礼。
楽師が締めの和音を鳴らし、会場に穏やかな拍手が起きかけて、ふっと止まった。
澄んだ音が高い天井に吸い込まれていき、その余韻の中で空気がゆっくりと張り替わっていく。
(もしここで、本当に形式通りに終わるなら)
この音とともに、式は静かに幕を閉じていたはずだ。
けれど。
祭壇の上の光が、わずかに色を変えた。
条文板だけが、周囲よりも強く輝き始める。
《では――形式通り、内容の確認をいたしましょう》
女神様の声が、本堂全体に響いた。
姿は見えない。けれど、その声を聞いた誰もが、どこからともなく降る気配に背筋を正す。
前列の神官たちは、「形式通り」という言葉に一瞬ほっとしたように頷きかけて、すぐに顔を引きつらせた。
彼らにとっての形式は、「前例通りに何も変えないこと」だからだ。
《婚約契約は、条文そのものは美しいままです》
《ですので、形式通り――条文を一条ずつ確認しながら、この三年間のログと照らし合わせてまいりましょう》
淡々とした女神様の声。
レオン殿下が、わずかに眉をひそめる。
「……そこまでの必要はない。形式上、問題がなければ、それで充分だろう」
前にも似た言葉を聞いた。あのとき私は、黙って飲み込んだ。
《必要かどうかを決めるのは、契約の当事者全員ですよ、王太子殿下》
女神様の声は穏やかだが、その一言だけで、本堂の空気が目に見えない線で切り分けられた気がした。
《条文も、ログも。どちらも見てから判断いたしましょう》
会場のざわめきが、低く揺れる。
《契約は、いつだって1人からですよ》
《嫌だ、も立派な願いです。ここから逃げたい、を条文にしてはいけない理由なんて、本当はどこにもありません》
深夜の泉のほとりで聞いた声が、胸の奥で再生される。
あの夜、自分の「嫌だ」を条文にしてもいいと知った瞬間から、今日ここでログを開く流れは、どこかで決まっていたのかもしれない。
祭壇の上の条文板が、一瞬だけ揺らぎ、その向こうに眠たげな女神様の瞳が浮かんだ気がした。
私は、誰にも気づかれない程度に視線を上げ、ほんのわずかに頷く。
(深夜の条文会議で、その言葉をくれた女神様が)
(今日ここで「形式通り、内容確認を」と言うなら――私は、その場に立ち会う)
《それでは、まずは発言ログから――》
羽ペンが光をまとい、条文の一条目にそっと触れる。
三年間、積み上がった言葉たちが、今から「証拠」になる。
私の前で、ログの扉が、静かに開こうとしていた。
神前確認式、ついに「ログ開示」編でした。
形式通りで終わるはずの儀式が、女神様のガチ監査で一気に空気が変わる回になりました。
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