第13話 契約大橋に集うひとびと
まだ空の端が白くにじむころ、契約大通りの石畳に荷車の音が増え始めた。
焼き菓子用の粉袋、簡易神符の木箱、子ども向けの紙冠。
露店の板が組まれ、色とりどりの布がひらめく。
石畳にはうっすら条文が刻まれており、夜露に濡れた文字列がきらりと光った。
『神前確認式当日は、行列の通行を優先する』
古い一文は、この通りが何度も「国の契約」を見送ってきた道だと、今日も黙って告げている。
人々はパンを買いながら、荷を下ろしながら、口々に同じことを言った。
「今日、聖女様と殿下が契約大橋を渡るんだってさ」
◇
橋のたもとでは、騎士たちがロープを張り、旗を立てていた。
「観覧区画はこちらまで。押さないようにお願いします」
若い騎士が声を張り上げ、その横で先輩が淡々と指示を出す。
「ルート、復唱」
「王宮前広場から契約大通りを通って、契約大橋を渡り、大神殿前広場で合流、です!」
欄干には、昔の戦勝契約を刻んだレリーフ。
橋の中央には、丸い紋章石の上に白い布が敷かれ、女神と王家と神殿の紋章が並んでいた。
そこが、今日の列が立ち止まり、祈りを捧げる地点になる。
◇
「おかあさん、もっと前! 橋の真ん中、ちゃんと見えるとこがいい!」
「そんなに早く行ったら、お昼前にへとへとになるわよ」
川沿いの坂を、親子連れや老人たちがゆっくりと登っていく。
橋の下では、洗濯中の女たちが手を止めて空を見上げた。
「上のほう、もう旗が見えるよ」
「偉い人たちも、橋の上じゃちっちゃく見えるねえ」
川面から見上げる契約大橋は、まだ人影まばらな巨大な舞台のようだ。
昼までには、ここに足音と歓声が重なることを、水だけが知っている。
◇
通りの角のパン屋には、朝から列ができていた。
小麦の香りに混じって、噂話がふくらんでいく。
「ねえ聞いた? 王妃様が言ったんだって。殿下と聖女様のご婚約は『白い結婚』だって」
「情熱より、静かに支え合う結婚……だっけ。ほら、『国のための結婚』って言葉、覚えてる?」
店主の妻がパンを紙袋に詰めながら、うっとりとため息をつく。
「素敵よねえ。恋だのなんだのじゃなくて、ちゃんと役目を果たす結婚って感じがして」
「うちは『酒場のための結婚』よ。給料が泡に化けるだけ」
「それも物語にはなるわよ」
笑い声にまぎれて、本当の条文の中身を気にする者はほとんどいない。
袋の口だけが、きれいに折りたたまれていった。
◇
少し先の雑貨屋では、若い店員がショーケースを磨いていた。
「見て、この指輪。式の日だけのレプリカなんだって。紋章、ちゃんと刻んである」
「いいなあ。私もいつか、『国のため』とか言える結婚してみたい」
もう1人の店員が、説明書きの紙を指でとんとん叩く。
「私なら、こういうのがいいな。『互いに尊重し、健康を第一に考えること』って。こっちのほうが、幸せそうじゃない?」
「現実的すぎない?」
「だって本物の契約書って、『聖女として身と祈りを捧げる』とか、難しい言葉ばっかりらしいよ」
彼女が知っているのは、どこかで聞いた一節だけ。
甘い包装紙と硬い条文のあいだにある段差に、かすかな違和感が生まれても、それを言葉にする暇はなかった。
「細かいことは、偉い人たちが考えるんでしょ。私たちはきれいなところだけ見てればいいの」
「……そう、かな」
問いかけるような声は、外のざわめきに飲み込まれる。
◇
路地裏では、配達帰りの少年たちが荷車を囲んで集まっていた。
「なあ、あの歌知ってる? 最近みんながこっそり歌ってるやつ」
「ダメだって。殿下のことからかう歌なんだろ?」
「小さい声なら平気だよ。ほら、せーの」
1人が胸を張り、得意げに歌い出す。
「お前を愛するつもりはない〜♪
ただ国のために、そばにいろ〜♪」
「しっ、大きいって!」
「だって、今日がお披露目なんだから、予習しとかないと」
元になった言葉が本当にいつ、どこで発されたのか、彼らは知らない。
ただ少し背伸びしたい年頃の喉が、面白がって転がすにはちょうどいいフレーズだった。
「こら、そんな歌うたってないで、荷解き手伝いな!」
「はーい!」
叱る声に追い立てられ、替え歌は笑いと一緒に空へ散っていく。
けれどその一節だけが、どこかで誰かに拾われて、また別の場所で口ずさまれていた。
◇
広場の端でその鼻歌を耳にした騎士が、思わず眉をひそめる。
「……今の、聞きました?」
「ああ。上からは、『そういう空気は広げるな』って通達が来てる」
隣に立つ年配の騎士が、肩の鎧を軽く叩いた。
「歌そのものを禁じる条文は、さすがにないさ。けど、今日くらいは、殿下を笑いものにしたくないんだろ」
すぐそばでは、大道芸人が楽器を抱えてにこにこと声を張り上げる。
「さあさあ、本日は特別公演! 聖女様と殿下のお通りを、明るくお祝いしちゃいましょう!」
笑いが湧き、人々は手を打つ。
彼らが見たいのは、きれいに整えられた物語の表側だけ。
重たいログや条文の数字までは、誰の目にも映らない。
◇
やがて太陽が屋根の列を越えるころ、契約大橋の上には自然と道ができていた。
左右に人波が寄り、真ん中に一本の石の通路が走る。
橋の中央、白布をかけた紋章石だけが、静かに光を集めている。
「列はこちらで止まってくださーい! 押さないで!」
騎士たちの声に、人々のざわめきが細く伸びたり縮んだりする。
遠くから、ラッパの音が近づいてきた。
◇
橋のたもと、神殿側の控えの場所で、聖女リディアは礼装の裾を整えた。
肩には重たいマント、胸には王家と神殿の紋章。
(転ばないように。笑うタイミングを間違えないように)
「聖女様、まもなくです」
「……はい」
喉の奥がきゅっと固まる。
それでも彼女は顎を上げ、契約大橋へ最初の一歩を刻んだ。
石畳の上で、靴底が規則正しく音を立てる。
左右には、紙冠をかぶった子ども、パン袋を抱えた母親、レプリカの指輪を見せ合う少女たち。
甘い匂いと、ひやりとした川風。
(今日は、『国のための結婚』を見せるための日)
そう自分に言い聞かせながら歩いていると、耳の端をかすかな歌声がかすめた。
「……お前を愛するつもりはない〜♪」
誰かが冗談半分にくちずさんだのだろう。
すぐそばで、別の誰かが慌てて咳払いをする。
「こら、静かにしなさい」
「は、はい!」
笑いとざわめきに紛れて、その一節はすぐに消えた。
(聞き間違い。そういうことにしておこう)
リディアは前を向き直る。
橋の中央、白い布の敷かれた紋章石が、少しずつ近づいてくる。
その向こうには、王太子レオンの列がゆっくりと進んでいるはずだ。
(これは、『国のための契約』の橋。私のための橋じゃない)
胸の内でそう整理した瞬間、足元の石がほんの少しだけ遠く感じられた。
契約大橋は、今日も誰かの物語を運んでいる。
行き先が、今の私の想像とは違う場所へ続いていることなど、まだ誰も知らない。
第13話まで読んでくださってありがとうございます!
今回はリディア視点から離れ、「国のための結婚」を見上げる街の空気を書いてみました。ひとことで片付けられた言葉が、人々の噂や歌の中でどう歪んでいくのか……今後、本人たちの心とどうぶつかるのかを楽しみにしていてください。
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