第12話 王宮と神殿、板挟みの日
その日が「板挟みの日」だと気づいたのは、夕方、机の上に紙の山が2つ積み上がった瞬間だった。
午前中、相談と祈祷と書類チェックで執務室を往復していると、若い神官が、妙に重そうな封筒を抱えてやってきた。
「聖女様。王宮からの書類です。神前確認式の……『演出会議要旨』とのことです」
「ありがとうございます。手が空き次第、確認しますね」
封筒を受け取っただけで、厚さとインクの匂いが想像できる。
封を切ったのは、相談の合間、ほんの数分だけ空いた隙間だった。
まず目に飛び込んできたのは、国王陛下の冒頭の言葉だ。
『神前確認式は、国民と諸外国に、我が国と大神殿の結束を示す場である』
結束。絆。……契約の確認、という言葉はどこにもない。
続く段落では、「白い結婚」という言葉が繰り返し使われていた。
けれど、書類の行間を埋めているのは、「見せ方」の話ばかりだった。
王太子殿下と聖女が並んで歩く時間を長く、橋の上で立ち止まる場面を増やす。
そういった文言が並ぶたびに、私は眉間を押さえたくなる。
「……歩く距離が増えても、契約文の1文字も増えていないんですけど」
《良い資料ですねえ。こういうのは危ないですよ例として、後で教本に載せましょう》
「女神様、仕事の熱意の方向がだいぶブラック寄りです」
昼前には、今度は私自身が神殿内の会議に呼び出された。
奉仕契約のときにも使った、少し冷えた会議室だ。窓の外の陽射しだけが春めいていて、部屋の空気だけ冬のまま取り残されている。
「では、今年の神前確認式も、例年通りの式次第で進めることといたしましょう」
大神官長アグナス様が、開口一番そう告げる。
若い神官が、過去の式次第や女神御前報告書を束ねた分厚いファイルを机に並べていく。
紙の山は、前例という名の岩の塊みたいに、私の前に積み上がっていった。
「女神様も、毎年『形式通りに進めましょう』とおっしゃっている」
「つまり、条文も式も、このままで良いということですな」
古参神官たちが、誇らしげに頷き合う。
《言ってませんよ? そんな意味で》
耳元で、女神様がむっとした。
《私の形式通りは、本来の手順通りって意味です。条文読んで、ログ確認して、必要なら更新して、までセットなんですけど》
「分かってます。でも、ここで言うと、きっと聖女様は細かいで終わりますよね」
ため息を吞み込み、私は別の角度から切り込むことにした。
「大神官長様、一つだけ確認をよろしいでしょうか。
神前確認式では、『契約が守られているか』が神の前で確かめられると教わりました。
もし、守られていない条文があった場合は……?」
アグナス様は、にこやかに私の言葉を遮る。
「聖女様は本当にお優しい。
しかし、神はすべてをご存じです。
我らは前例通りに式を整え、あとは女神様のご判断に委ねればよいのです」
「その通り」「我らの務めは形を保つこと」と、古参神官たちが追随する。
形を保つ。その言葉のどこにも、「中身を守る」という意味は含まれていない。
質問は、やんわりと宙に消されてしまった。
それどころか、話は当然のようにこう続いていく。
「国民の期待も高まっておりますから、聖女様には今年は少し長めに祈祷を」
「神前祝福の時間を、昨年より延長するのはいかがでしょう」
「奉仕の言葉を一節追加すれば、きっと感動も深まりますな」
増えていくのは、私の祈祷時間と台詞ばかりだ。
「聖女様のお身体は、神の祝福そのもの。
多少のご負担は、むしろ神の喜びとなりましょう」
アグナス様のまとめに、会議室は「さすが大神官長様だ」と、どこかずれた感嘆で満たされる。
多少って、誰の基準なんだろう。
見習い聖女が倒れ込んだときの姿が頭に浮かび、私はペンを握る手に少しだけ力を込めた。
同じ頃、契約大橋のたもとの小さな合同連絡所では、王宮と神殿の代表者たちが向かい合っていたという。
片方の窓からは王宮、もう片方の窓からは大神殿。そのど真ん中に、宰相補佐セルジュさんが座らされていたと、あとで聞かされた。
王宮側は「王太子と聖女が並んで歩く時間をできるだけ長く」「橋上で立ち止まる場面を増やしたい」と主張し、神殿側は「橋上で立ち止まるのは危険」「祈祷時間は前例通り確保すべき」と返す。
王宮は見せ方を、神殿は前例を、それぞれの正しさとして譲らない。
そのどこにも、「聖女本人の許容範囲」という項目は存在しない。
区切りのタイミングで、セルジュさんは口を開いたらしい。
「当日のスケジュールに、聖女の休息時間と医師の待機を明記すべきだと考えます。
また、聖女奉仕契約の『可能な範囲で』という文言の運用基準も、この場で共有しておきたい」
私からすれば、感謝状を山ほど送りたい提案だ。
けれど、その場の反応は冷ややかだったという。
「そんな細部は現場裁量で良い。今日の議題は見せ方だ」
「聖女様は神の祝福に満ちておられる。
具体的数字に落とし込むのは、かえって信仰心を疑われましょう」
そうやって、現場裁量と信仰心の一言で、話は片づけられた。
それでもセルジュさんは、「承知しました」とだけ答え、表情を崩さなかったそうだ。
代わりに、議事録には残らない一行を書き添えていた。
『※当日、女神によるログ確認が入る可能性。
条文未履行部分の指摘リスクあり』
さらに、その下に小さな字で。
『本件、聖女本人への確認が必要』
感情ではなく、条文とログで守る。
本来なら、そのための舞台が神前確認式であるはずなのに。
――そして夕方。私はようやく、自分のデスクでその現物と向き合うことになった。
右手側には、王宮から届いた「神前確認式演出会議要旨」。
左手側には、神殿幹部会議の「式次第確認議事録」。
「右が国のためのアピールで、左が神のための前例、ですね……」
思わず小さくつぶやく。
その真ん中で、私の胃だけが静かに抗議していた。
どちらの紙束にも、「聖女本人の希望」欄なんて、どこにもない。
ノックの音がして、執務室の扉が開く。
「失礼いたします、聖女リディア様」
黒髪の文官礼服が視界に入る。宰相補佐セルジュ・ラグランジュさんだ。
「本日の王宮会議のご報告に参りました」
「どうぞ。ちょうど、こちらの山を読み始めたところでした」
私が右側の紙束を持ち上げてみせると、彼は一度だけ視線を落とし、淡々と要点を告げた。
「……以上が、本日の王宮会議の結論です。
式の段取りそのものに、大きな変更はありません」
事務的な口調。けれど、最後の一文だけ、ほんの少し声が低くなる。
「本来、あの場で聖女の負担についても議論すべきだったと、個人的には考えています」
その「個人的には」に、私は思わず苦笑した。
「便利ですね、その但し書き。強く言いたいことを、ぎりぎりまで包んで運べます」
「お察しの通りです」
セルジュさんも、わずかに目元を緩める。
「少なくとも私は、あなたがこの2つの紙束の真ん中に、一人で挟まれている状態を、正しいとは思いません」
板挟み。その言葉が、今日一日の圧迫感にぴたりとはまる。
《そうそう。板挟みは、本来なら板のほうをどうにかすべきで、人を挟むものじゃないんですよ》
女神様が、いつもの軽い調子で口を挟んだ。
《条文をちゃんと敷き直せば、間に立つ人はクッションでよくなるんです。
次は、クッション側に条文を書いてもらいましょう。三年分のログもありますし》
「……クッション、ですか」
《ええ。あなたが無理に板の間に立たなくていいように、って意味です》
そのときの私はまだ、「板挟みの日」の議事録が、
後で世界中の契約教本に載ることになるなんて、夢にも思っていなかった。
静かな均衡がきしむ瞬間ほど、物語は甘くひねりを帯びるものですね。
今回の第12話は、リディアが“誰のために立つのか”を選び始めた分岐点でした。読んでくださったあなたのまなざしが、彼女の勇気の灯芯になります。
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次話も、世界がもう少しざわめきます。




