第11話 宰相補佐は聖女の残業を見逃さない
宰相府の夜は静かだ。
セルジュ・ラグランジュは、机に広げた書類から顔を上げ、窓の外を見た。西の丘から望む王都アルシエルは、商業区も王宮も、ほとんどの灯りが落ちている。
けれど、川の向こう、東の高台にそびえる公正契約大神殿だけは違った。上層の窓が、今夜も白く光っている。
(3日連続だな)
机の端には、神前確認式の進行表と、大神殿から送られてきた聖女出務ログの控えがある。セルジュは数字の列を指で追った。
祈祷、相談窓口、契約審査、打ち合わせ。刻まれた時刻を足し合わせれば、一日16時間前後の稼働になる。
(聖女の勤務時間は、契約上どこまで許容されていたか)
脳裏に、古い神殿契約の文言が浮かぶ。「聖女は、神と国のために可能な範囲で奉仕するものとする」。
(便利な一文だ。倒れるまで使える)
眉がわずかに動く。セルジュは外套を手に取った。
(政治的リスク。信用の失墜。そして、聖女個人の安全)
胸に浮かんだ言葉を、「安全管理」というラベルで包み直す。
「……確認に行くか」
短く呟き、夜の宰相府を後にした。
◇
終電もタイムカードもない世界の残業タイムだ、と頭の中で苦笑した。ここは、公正契約大神殿の地下にある契約書庫だ。
私は机に積み上がったログをめくりながら、欠伸を噛み殺した。
「聖女様、本当に休まないと倒れますよ……」
向かいの机で、書記官のティオが情けない声を出す。
「大丈夫。あとこの束を読み終わったら、今日の分は終わりだから」
「さっきも同じこと言ってましたよ」
「気のせいだよ。たぶん」
神前確認式の台本と、ここ3年分の聖女関連ログ。式の前に、女神様に見せるべき問題点をまとめるため、私は過去の自分の稼働記録を掘り返している。
「これ全部整理して、女神様にまとめて休暇くださいって申請するから」
「まとめて、休暇……そんな制度、あるんですか」
「あるといいね。そこは女神様次第」
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。複数人の、少し緊張した気配。
「こちらでよろしいでしょうか、宰相補佐殿」「こんな時間に聖女様をお呼び立てするのは」
神官たちのひそひそ声が扉越しに聞こえ、ティオががばっと立ち上がる。
「せ、聖女様! 宰相補佐って、あの王宮の!? 書類が、机が、散らかってます!」
「散らかってるんじゃなくて、優先順に積んであるだけだよ」
「世間では、それを散らかってるって言うんです!」
控えめなノック音が響いた。
「聖女リディア様、失礼いたします」
先に入ってきた神官が頭を下げ、その後ろから黒髪の男性が姿を現した。きっちり束ねた髪、よく手入れされた礼服。噂に聞く宰相補佐その人だ。
「アルシオン王国宰相補佐、セルジュ・ラグランジュ殿です」
紹介に合わせて、彼は深く一礼する。
「宰相府より参りました。夜分に失礼いたします」
「聖女のリディアです。こんな時間に、どうかされましたか」
私は立ち上がりながら、机の上の紙束を端に寄せた。たぶん、ほとんど意味はない。
「神前確認式の段取りについて、いくつか確認したい条項がありまして。神殿から上がってきた出務ログの解釈に、不明な点がございます」
淡々とした声。けれど、その灰色の瞳は、机の端に積まれた相談ログや、インクの染みた袖口まで、細かく見ているように感じた。
「この時間まで失礼とは存じませんが、宰相府から見える大神殿の明かりが、なかなか消えませんので」
「……丸見えなんですね」
思わず本音が漏れてしまう。
ティオが慌てて席を譲り、セルジュが向かいに腰を下ろした。彼は持参してきた進行表と、こちらのログを手際よく並べる。
「本日のご出務内容を、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「えっと、朝の祈祷から始まって、相談窓口が3枠と、式の台本チェックが1本。午後に緊急相談が2件あって……今は、そのログ整理です」
「休憩は」
「鐘と相談しながら、それなりに」
曖昧に笑ってみせると、セルジュの指がぴたりと止まった。
「失礼ながら、聖女様。本日の稼働時間を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「聖女の1日は、鐘と相談次第です」
冗談めかして返す。横でティオが小さくうめいた。
セルジュは小さく息を吐いた。
「そういう建前は、契約書の外だけにしておいていただけると助かります」
少しだけ、声の温度が変わる。
「神前確認式は、あなたが万全の状態で臨まなければ意味がありません。聖女リディア様」
灰色の瞳が、まっすぐこちらを向いた。
「あなたは、この国にとっても、この神殿にとっても、本来、守られるべき人です」
(そんなふうに言ってくれたの、女神様以外では初めてだ)
息の仕方を一瞬忘れる。真面目に受け止めると、涙腺が危険そうだった。
だから、私は半歩だけ逃げ道を作った。
「それ、条文にしてもらえませんか」
「……条文に、ですか」
「聖女は本来、守られるべき存在とする。どこかにそう書いてあったら、だいぶ楽になるんですけど」
冗談の仮面をかぶせて笑う。
セルジュは、わずかに目を見開き、それから静かに頷いた。
「……検討いたします」
あまりにも真面目な答えで、今度は私が言葉を失う。
《いいですね、その条文。テンプレにしておきましょう》
頭の奥で、女神様の声が楽しそうに響いた。
(女神様、テンプレって言わないでください)
《聖女保護基本条項案、とりあえずそんな名前にしておきますか》
見えない羽ペンの先が、どこかで光った気がした。
「本当に条文にしてくれるとは思っていませんから。さすがに、聖女を守るなんて条文、前例がないでしょうし」
私がそう付け足すと、セルジュは視線を落とし、進行表の余白に何か短く書き込んだ。
「前例は、作ればいいだけです」
低く落とされた声に、ぞくりとする。
「式の段取りには、まだ調整の余地があります。条文の見直しについても、神前確認式の議題案として、私の方から上げさせていただきます」
「そんなこと、本当に通るんでしょうか」
「通さなければなりません」
即答だった。
「少なくとも、聖女の稼働時間と休息については、明文化されるべきです」
「前の世界の話まで、透けて見えてます?」
「いえ。推測です」
セルジュは椅子から立ち上がり、書類を丁寧に揃えた。
「長くお引き止めしてしまいました。どうか、今夜はこれ以上の残業をなさらずに」
「それこそ、神殿の就業規程にも書いておいてほしい言葉ですね」
軽口で返すと、彼はほんの少しだけ口元を緩める。
「では、その文言も併せて、検討しておきましょう」
冗談なのか本気なのか分からない。それでも、胸の重さは少し軽くなっていた。
◇
書庫を出て廊下を歩くと、窓の外に本堂の尖塔が影のように立っている。祭壇の灯りが、遠くからでも淡く見えた。
「近く、神前確認式が行われますね」
隣を歩くセルジュが、何気なく口にする。
「はい。3年間の答え合わせ、だそうです」
自分で言って、喉の奥がきゅっとした。
「式の段取りには、まだ調整の余地があります。条文の見直しについても、当日の議題に含められるよう動いてみます」
「そんなふうに言っていただけるだけで、十分です」
現実が変わるかどうかは分からない。それでも、「条文にしてくれるかもしれない人」が現れた事実は、私の中で何かを動かしていた。
石段を降りていく彼の背中を、窓越しに見送る。
(あの人がどこまで本気なのか、このときの私はまだ知らない)
ただ、それを条文にしてくれる人が現れたらいいのにと、前の世界で一度だけ願ったことを、思い出しながら。
◇
その夜遅く、宰相府の一角で、新しい紙が1枚、机の上に広げられた。
セルジュ・ラグランジュはペンを取り、見出しを書く。
「神前確認式 議題案:聖女労働条項の確認」
そこまで記したところで、ペン先が止まった。
(感情ではなく、条文で守る)
胸に浮かんだ言葉を、彼は心の内だけで反芻する。
(それなら、間違いなく、私の仕事の範疇だ)
窓の向こう、東の高台の灯りは落ちていた。
物語の芯に火が入る瞬間を、ここまで読んでくださったあなたと共有できたことが、とても心強く感じられています。
聖女の働き方すら条文にしてしまおうとする宰相補佐の静かな情熱は、これから物語全体を大きく揺らしていきます。見えている伏線も、まだ姿を隠した伏線も、すべて回収されるその日まで。
あなたの一つの評価やブックマークが、続きへ踏み出す力になります。
これからも見守っていただけたら嬉しいです。




