第10話 女神と深夜の条文会議(2)離婚か再契約か
女神様が羽ペンをくるりと回すと、泉の上に浮かぶ光の書類が、また静かに並び替えられた。
左に聖女奉仕契約。真ん中に聖職者労働規程。そして、右端には、見慣れてしまったはずの婚約契約書。
《では、ここからは王太子殿下との婚約契約について、条文ごとに確認していきましょうか》
「……逃げるための契約、でしたよね」
《ええ。逃げるか、書き換えるか。その判断材料をそろえるのが、今夜の残業です》
残業という単語に、思わず口元が引きつる。
透明な板のような羊皮紙が、泉の水面からすっと立ち上がった。王家の紋章と神殿の紋が金の線で飾り枠になっていて、一見しただけなら、祝福そのものに見える書類だ。
けれど、その一行目を目で追った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
「聖女リディアは、王太子レオンの婚約者として、その身と祈りを国と王家のために捧げることを約する」
《この一文だけで、だいたいの雰囲気は伝わりますね》
「……良くも悪くも」
前の世界で、会社のロゴがど真ん中に入った採用通知を思い出す。お祝いの紙の顔をしていながら、その裏には、終電と休日を溶かす条文が隠れていた。
水面の上では、「国の安定」と刻まれたタグだけが濃く光り、「聖女本人の安全」「休息」といった言葉は、淡く霞んでいた。
(やっぱり、私自身は、ここにはいない)
小さく息を吐いた瞬間、女神様の羽ペンの先が、書類の左上をこつりと叩く。
《では、第1条から。紙の上の綺麗ごとと、ログを照らし合わせていきましょう》
◇
《第1条。双方は互いの名誉と信頼を損なう行為を避け、常に尊敬をもって接すること》
女神様が読み上げると同時に、泉の上に、もうひとつの画面がふわりと開いた。
王宮の回廊。夜風。硬い革靴の音。
「お前を愛するつもりはない」と告げられた、あの夜の景色だ。
《名誉と信頼を守る、ですね》
「……守られていた感じは、正直、一度もありません」
口に出してしまうと、思ったよりも声が震えていた。
王太子妃候補としての私が、誰かに笑われないように着飾られ、隣に立たされる場面はあった。けれど「聖女リディア」という人間として、私の不安や疲れを気にかけてくれたことが、あっただろうか。
《ログ上、この条文はだいぶ未達ですね》
女神様のまとめは、容赦がない。けれど、その容赦のなさが、少しだけ救いでもあった。
《第2条。王太子は聖女の務めを尊重し、その負担を軽減するよう努めるものとする》
今度は別の映像が浮かぶ。
長時間の儀式を終えた日に、その足で舞踏会に引きずり出された夜。疲れで膝が笑っているのに、「君ならできるだろう」と笑って、予定を積み上げていったレオン殿下。
(負担を軽減する、ね)
思わず苦笑が漏れた。
「『努めるものとする』って、便利な言葉ですよね。前の会社の就業規則にも、たくさんありました」
《ええ。『努める』だけなら、ログに残らなくても言い訳ができますから》
女神様がさらりと言う。
私は、前の世界で読んだ「会社は従業員の健康に配慮するよう努める」という一文を思い出した。努力義務。守らなくても、誰も罰せられない約束。
《ここも、達成度は低いですね。むしろ逆方向に努めておられたようで》
「そこまで言わなくていいです」
でも、否定はできない。
泉の上では、婚約契約書の余白に、小さな文字がふわりと浮かび上がっていく。
「休息」「拒否権」「危険な命令を断る権利」「婚約解消条件」──薄い鉛筆書きのような文字列だ。
「それは……?」
《あなたの生活を守るために、本来は必要だった条文候補です。今はまだ、余白にメモしているだけ》
女神様の声は、いつも通り軽い。けれど、そのペン先だけは、真剣な光を湛えていた。
◇
条文とログを何度か往復したあと、女神様は大きく一呼吸おいて、婚約契約書全体を見渡した。
《総合すると、この婚約契約は『信頼条項の不履行』と『聖女保護条項の欠如』で、かなり危険寄りですね》
「危険寄り、って、契約に対して使う言葉じゃないですよ」
《ブラック度合いを測るときには便利ですよ》
《ここから先は、メニューの話になります》
「メニュー」
《はい。ざっくり3つ》
女神様の羽ペンが、いくつかの条文の上に、太い二重線を引いていく。
「永続的な献身」「王家に対する無条件の忠誠」といった言葉が、光の中で次々と消されていく様子は、見ていて少しだけ胸がすっとした。
《1つ。条文を修正して、改善案つきで再契約する》
《2つ。条文が守られる見込みがないなら、契約自体を解消する。いわゆる神前離婚ですね》
《3つ。どちらも選べないなら、条件が満たされるまで『凍結』。婚約だけ棚に上げて、別の生き方を確保しておく》
「凍結、なんてできるんですか」
《世界契約全体ではまだ珍しいですが、手段としてはありますよ》
軽く未来の話を差し込まれて、想像が膨らむ。
けれど今、考えなければならないのは、ただ1つの婚約契約だ。
「……私が離婚を望んだら、女神様は、怒りますか」
自分でも驚くほど小さな声だった。
聖女として、この婚約は国と神殿のためだと、ずっと教えられてきた。ここで逃げたいと口にすることは、国を裏切ることだと、何度も何度も言い聞かせられてきた。
前の世界で見た、辞めたくても辞められなかった同僚たちの顔が浮かぶ。
(家族のために)
(迷惑をかけたくないから)
その言葉と、「聖女だから」という言葉は、どこか同じ匂いがした。
《私は怒りませんよ》
女神様の返事は、あまりにもあっさりしていた。
《私は、契約に書かれた願いを、できるだけフェアに叶えたいだけです。怒るのは、条文を読まずに得だけ取りたい人たちの役目です》
「……願い」
《ええ。それに、『嫌だ』も立派な願いですよ》
《『ここから逃げたい』を条文にしてはいけない理由なんて、本当はどこにもありません》
胸の奥で、何かがかちりと鳴った気がした。
自分の「嫌だ」を条文にしてもいい、と言われたのは、生まれて初めてだった。
◇
《ちょうど、形式通りあなた方の婚約を『世の前で確認する』儀式が近くありますよね》
「神前確認式」
《はい。形式上は、契約がちゃんと守られているかを神の前で確かめる場です》
女神様が泉の奥に視線を投げると、水面の向こうに、公正契約大神殿の本堂が小さく映し出された。
高い天井、光の板、祭壇。そこで、私とレオン殿下が並んで立つ姿が、ぼんやりとした影として浮かぶ。
《そこで、どのボタンを押すか決めるのも1つの案です》
「ボタン?」
《前の世界でありましたよね。同意するを押すかどうか、画面の前で悩むやつ》
「ああ……あれですか」
《今回は、ちゃんと全部読んでから押しましょう》
女神様が笑う。
私も、つられて笑ってしまった。
「……今すぐ離婚しますって言える自信は、まだありません」
そう言うと、女神様は否定もしなければ、急かしもしなかった。
《それで構いませんよ》
《神前確認式までに、あなたがどうしたいのか、自分のための条文案を考えておいてください》
《逃げるためでも、書き換えるためでも。どちらにしても、『あなたが生き延びる』という条件だけは、最優先で入れましょう》
「……私が、生き延びる方を、優先していいんでしょうか」
《それを最優先にできる契約が、長持ちするんです》
女神様の羽ペンが、婚約契約書の最後のページをめくる。
そこに、ふわりと大きな空白が生まれた。何も書かれていないのに、そこに自分の未来が詰まっているようで、息が詰まる。
《世界を変えるときは、たいていここから始まります。当事者の同意なき義務に、2本線を引くところから》
「本当に、私の婚約から、世界を動かしていいんでしょうか」
震える声で問うと、女神様は少しだけ目を細めた。
《契約は、いつだって1人からですよ》
羽ペンの先が、第1条の上にぴたりと止まる。
紙には触れていない。二重線も、逃げ道の条文も、ここにはない。
静かな夜の泉で、光るペン先が紙に触れようとする、その寸前の気配だけが、長く長く、私の胸に焼きついた。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
第10話は、「契約ってそもそも誰のためのもの?」をリディア視点でじっくり掘り下げてみました。女神との深夜会議は、これから国全体を巻き込む大きな波の予告編のつもりです。
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次回はいよいよ神前確認式。彼女の選ぶ「一文」を見届けてもらえたら嬉しいです。




