朝起きたら、夫が『落語家』になっていた件
※しいなここみ様主催『朝起きたら……企画』参加作品です。
朝起きたら、なぜか夫の篤くんが『落語家』になっていた。
いや、見た目は特に変わってない。いつも通りの篤くんだ。
ただ、そのしぐさや身のこなしが何となく落語家っぽいし、何より言葉遣いが完全に『落語家』のソレなのよね。
ほら、ダイニングの椅子の上に正座しちゃったし。
「おおっと、朝っぱらから真っ白なおまんまとは嬉しいねぇ。
それと味噌汁に卵焼き。やっぱり朝はこうじゃねぇとな」
「──ねえ、さっきから気になってたんだけど、そのしゃべり方、どうしちゃったの?」
「別にどうもしねぇよ? 俺ぁいつもどおりだけどな。
あー、そんなことよりお前ぇも早く食いなって。冷めっちまうぜ」
いつもは『僕』『瀬里奈ちゃん』呼びなんだけどなー。
これって、落語とかで聞く江戸っ子の『べらんめぇ』口調よね?
あ、『落語家』じゃなくて『江戸っ子』になっちゃっただけなのかも。
まあ、そっちだったとしても、かなりおかしな現象なんだけど。
「ちょっと、篤くん。落語とかで見る『お蕎麦を食べる真似』って出来る?」
「何でぇ、藪から棒に。まあ、やったこたねぇけど、こんな感じか?」
ずっ。ずっずっ。──ずずずずずず。ごっくん、ぷはー。
「じゃ、今度は『ものすごーくマズい蕎麦を食べちゃった時の仕草』で」
ずっ。──ずぞぞ。──ずぞ。ずぞ。──くっちゃくっちゃ──うぇぷ。
うん、仕草や音、表情の違いまで完璧。これは間違いなく『落語家』だわ。
朝食を終え、篤くんが出勤していった。
『行ってきますのキス』はいつもの篤くんだったので、元に戻ったのかと少し期待したんだけど。
でも、その後のセリフが『それじゃ、おっかあ、ちょっくら行ってくらあ!』だったのよね。ガッカリだわ。
あんなんで会社に行っても大丈夫なのかな?
──あ、いや、もしかしたらおかしいのは私の方で、私だけにああ見えているのかもしれない。お昼休みにでも、会社に電話してみようかな。
私たちは職場内結婚だったので、篤くんの同僚は私の元・同僚でもある。
会社の人たちに、篤くんの様子がおかしくなかったか、それとなく聞いてみよう。
──なんて思ってたら、篤くんが会社に着いたくらいの時間からスマホにメッセージがバンバン届き始めた。
『おい、お前の旦那のあれはなんなんだ!?』
『瀬里奈! 篤君が壊れちゃってるんだけど!?』
『アツシのやつ なぜに落語家???』
『センパーイ 主任のアレって新手のプレイか何かですかぁ?』
面倒なので、返信はぜんぶ短文のコピペで済ませた。
『原因不明 本人に自覚無し 要経過観察 情報求む』
ネットで調べてみたけど、何ひとつ情報は得られなかった。
医者をやってる伯父さんに電話で相談してみたら、心療内科の受診を強く勧められた──私の方が、だけど。
うーん、やっぱり篤くんを病院に連れていくべきなんだろうか。でもこういうのって心療内科? それとも精神科?
本人に自覚がないのにどう説得する? いや、まず本人にこのことを告げるべきなんだろうか?
一日中、家事を片付けながら色々と考えていたんだけど、夜になって篤くんが帰ってくるくらいの時間に、どこからともなく三味線と太鼓の音が聞こえてきた。
幻聴なんかじゃない。あたりを見回すと、玄関近くの何もない空間から『ちゃんちきおけさ』のメロディが聞こえてくる。
え、これってもしかして落語の『出囃子』!?
そして曲が終わる少し前に玄関が開いて、篤くんが帰ってきたのだ。
「おっかぁ、今帰ったぜ!」
──うわーん、事態はますます悪化してるしー。
私は覚悟を決めた。何よりもまずは、篤くんに『落語病』(私が勝手に命名した)を自覚してもらわないと。
──始めは、私の話に『何バカなこと言ってやんでぇ、べらぼうめ!』って言ってた篤くんだったけど、スマホでの会社の人たちとのやり取りを見せると、ようやく事態を理解してくれたようだ。
「す、するってぇと何か? 俺ぁ朝からずっと、落語みてぇな話し方をしてたってことか?」
「今もだけどね」
「本当かよおい! 自分じゃ、いつもどおり普通に話してるつもりなんだがなぁ。
あっ、何だかみんなよそよそしかったのは、それでか。ようやく合点がいったぜ」
少しは思い当たる節もあったみたい。
「で、どうする、篤くん。しばらく会社は休む?」
「うーん、仕事は普通にこなせてたしなぁ。上司も妙な顔はしてたけど『帰れ』とも『明日から来るな』とも言われてねぇしよ。
あまり休んでられる状況でもねぇし、向こうから何か言われるまでは行くとするさ。
で、もう少し仕事が落ち着くか、仕事に支障が出るようなら病院に行ってみる。こんなとこでどうでい?」
そんなわけで、篤くんはしばらく現状維持でいくことになった。
ところがこれが、仕事の面ではなかなかにいい影響があったらしい。
これまで、新規に取引したいけどなかなかうまく行ってない会社との商談でも、篤くんの話し方を珍しがってゆっくり話を聞いてくれるようになり、結果的に大きな契約がいくつかまとまったんだとか。
会議が煮詰まった時にも、篤くんが空気を変えることで、リラックスしたムードで活発に意見が出るようになったという。
始めのうちは『離婚一択でしょ!』とか『病院に連れてったら?』とか言ってた元・同僚たちも、『中身が篤くんのままなら、別に今のままでもいいんじゃない?』とか言うようになっちゃったし。
今日も篤くんは、晩ご飯を食べながら会社での出来事を面白おかしく話してくれている。
何でも、今月の営業成績がトップだったので表彰されるんだとか。
でも私は、『今月も上手くいかなかったよ』って弱々しく笑う篤くんを励ます、あの時間も好きだったんだ。
あの頃の、はにかんだような顔で柔らかく話す篤くんはもういない。それを寂しいと思っているのが私だけだと思うと、ちょっと切ない。
それにこの頃は、篤くんの話をただ聞いているというのが苦痛に思えてならない。
私の中で『もう終わりにしたい』『全部終わらせてしまおうか』という衝動がどうしようもなく膨れ上がってきている。
そして今、篤くんがダジャレでオチをつけようとしている気配を感じた時──。
私はついに、我慢の限界を超えてしまったのだ!
思わず立ち上がって篤くんの右隣に立ち、衝動のままに、篤くんのオチに合わせて左手の甲でスナップを利かせてはたく!
「もう、あんたとはやっとれんわ! 失礼しましたー!」
深々と頭を下げると、どこからともなく笑い声や歓声、拍手が聞こえてきた。
ああ、何ていう達成感と充実感──!
どうやら私も、『漫才病』か『ツッコミ病』を発症してしまったみたいだ。