7 チュートリアル
閉じ込められている小部屋内を、何かないかと確認していく。
と、滑り落ちてきた穴と丁度反対側の壁に、小さな赤いボタンを見つけた。
「龍之介! これ見ろよ!」
地面に何かないかと探していた龍之介を、手招きする。
「えっ! 何か見つけたの?」
龍之介はパッと顔を上げると、軽やかに駆け寄ってきた。
「ほらこれ! ボタンがある」
「え、どこ!?」
よく見ないと見逃してしまいそうな、親指サイズのボタンを指差す。
「これこれ。苔が生えてて分かりづらかったけど」
「凄いじゃん亘!」
「だろー?」
褒められた俺は、言葉通りふんぞり返った。
龍之介は、どんな些細なことでも俺を手放しに褒めてくれるから好きだ。割とやらかしがちな俺だけど、自尊心がそれなりに高い状態でキープできている原因は絶対ここにあると思う。
以前、女子マネたちが「亘先輩がいざ社会に出て世間の荒波に負けちゃったら絶対龍之介先輩が甘やかしたせいですよね……」とかほざいてた。どういう意味だよそれ。俺は先輩だぞ。
まあでも今は過去の失礼な発言は忘れることにして、いかにもな赤いボタンに顔を近付けてみる。目を凝らしてよく見てみると、ボタンの表面に、ちっちゃい字で『押してね♡』と書いてあった。ハートマークが地味にむかつく。
これが『押すな』だったら、さすがに俺だって躊躇したと思う。だけどなんせこれは、わざわざ押せと言っている。だったら押してみようと指を近付けた、次の瞬間。
「……って、待って待って待ってーっ! 躊躇しよ!?」
奇声を上げた龍之介に、後ろからガバッと羽交い締めにされた。
龍之介の腕は、バスケ選手らしくスラリと長い。俺がボタンを押すのを阻止しようとした龍之介の長い腕は、俺の身体の前でクロスして――両胸の膨らみをぐにゅっと掴んでいた。
「うひゃっ!?」
思わず変な悲鳴を上げると、龍之介が「えっ、わ、うわっ!」と慌て出す。だけど、俺がボタンを押すチャンスは絶対に与えたくないんだろう。「ごめん!」と鋭く呟いた後、そのまま俺をヒョイと持ち上げて、ボタンから距離を置いた。
俺の胸を掴鷲掴みにしたまま。
「ちょっ、えっ、うわっ」
なんだこの感触!? これまで感じたことのない異様な感触に、思考も身体も固まる。
「わ……っ、ごめん! 本当ごめん! だけど手を離した瞬間亘がボタンを押す未来しか見えない!」
「……否定できない!」
多分押してた。だって押せって書いてあるじゃないか!
ようやく思考能力が戻ってきた俺は、これまた感じたことのない痛みに涙目になる。
「ていうか、痛いっ! そんなに握り潰されると痛いんだけど!」
「えっ、わ、ご、ごめん! 離すからボタン押さない!?」
「痛い痛いっ、押さないから早く離せって!」
「う、うん! ……飛び出すなよ!?」
「どんだけ信用ねーんだよ俺!」
恐る恐るといった体で、龍之介がようやく俺を離した。すぐさま両腕でジンジンする胸を押さえる。……知らなかった。ただの脂肪かと思ってたけど、神経ってちゃんと通ってるんだな。とんでもなく痛かった……。
ぐすんと鼻を啜ると、龍之介が心底申し訳なさそうに眉を八の字にしながら両手を合わせて謝ってくる。
「ごめんね? 許してくれる……?」
「……自分を安売りするなって言った癖に、エッチ」
「ブフッ!」
龍之介は息を鼻から思い切り吹き出すと、苦しそうにむせた。ふんだ、暫くそうやってろ。こっちはマジで痛かったんだからな。
下からガッと自分の胸を掴み、タプタプする。俺の疑惑は、確信に変わっていた。
「でもこれで分かった」
「え?」
真っ赤な顔で俺の行動を訝しげにチラ見するという器用な真似をしている龍之介が、問い返す。
「支えるものがないと、揺れたり物が当たると普通に痛い」
「ぐ……っ、そ、そういうものなんだ……」
龍之介は手で顔を覆う。でも指の隙間から目が覗いてるぞ。
「俺も初めて知った」
世の中にブラジャーという物が流通する訳だ。激しく納得した俺は、深く頷いた。
「てことで、ボタン押そっか」
「ちょっと待って、どうしてそこでそうなるかな?」
すぐさま伸びてきた龍之介の手で、二の腕を掴まれる。チッ。こいつが石橋を叩くモードに入ると長いんだよな。
「押せって書いてあるんだから押す選択肢しかないだろ」
「だってもし罠だったとしたら!?」
「他に何もないじゃん。俺さ、そろそろトイレも行きたいんだよな。やだよ? 龍之介の前でうんこ座りして丸見えの状態で済ますの。それにその内腹も減るだろうし、なーんもないこの状態は拙いと思うんだけど」
龍之介が、息を止めて黙り込んだ。プルプル震えている。
「……亘にしては冴えた考察で反論できない……」
「やっぱり俺のこと馬鹿だと思ってるよな?」
龍之介は口を真一文字にして考え込んだ後、諦めたように言った。
「分かった。じゃあ、僕が押す。亘は頼むから僕の後ろに隠れてて」
どうやらここいらが妥協できるギリギリのところみたいだ。本当、心配性なんだからなあ。
笑顔になると、ぽん、と龍之介の肩を叩く。
「じゃ、ポチッとよろしくな!」
「亘の能天気さが羨ましいよ」
「じゃあ俺が押そうか?」
「……僕がやるから!」
俺が腕を伸ばそうとした瞬間、腰を落として背中でガードしやがった。腹が立つけどさすがは元バスケ部部長だ。
俺の腕を掴んで遠ざけたまま、長い腕を伸ばしてボタンを押す。
カチッという、乾いた音がした。
龍之介はガードするように背中でグイグイ押してきて、俺を壁から引き離していく。長い腕を横に伸ばして、絶対に行かせないという気迫を感じる。この信用のなさ……。
すると突然、どこからともなくあの神竜とかいうドラゴンの声が響いてきた。
『パンパカパーン! ボタンを見つけた君たち、偉いぞ!』
「イラッとするんだけど」
「シッ」
龍之介の脇の下から顔を覗かせると、腕を回されて首を押さえつけ固定された上に、大きな手で口を塞がれる。……おい。
『それではこれから、このダンジョンを踏破する際のチュートリアルを開始するよ!』
凄い、龍之介の読みがバッチリ当たった。目だけ上に向けたけど、緊張の面持ちの龍之介は周囲に鋭い視線を向けていて、俺のことは見てくれなかった。ちぇ。
『チュートリアルはちょっと長いから、リラックスして聞いてね!』
「もご?」
『今君たちがいる部屋は、毎晩君たちが体を休めることになる二人専用の休憩所だよ! その日に得た経験値をここで使うことができるんだ! 出でよ、初期設備!』
「!」
「亘!」
ドラゴンの掛け声と共に、光が部屋全体に充満する。龍之介は俺の頭を庇うように抱き締めると、自分は俺の肩に額をつけた。
『この初期設備は、ボクからのプレゼントだよ! 寝る場所と排泄する場所、それに身体を清める場所は大事だよね! クローゼットの中にそれぞれの服も入ってるから、後で確認してね!』
恐る恐る瞼を開ける。先ほどまで何もなかった小部屋には、擦り硝子の風呂とトイレ、タンスに三面鏡――そして部屋の中央には、ドデンと馬鹿でかいベッドが置かれていた。シーツはどぎついピンク色をしていて、ご丁寧に並べられた枕はまさかのハート型。
俺と龍之介は絶句しながら、顔を見合わせた。
次話は明日の朝投稿します。