5 女の子になっちゃった
ピチョン、と水滴が瞼に落ちてきて、唐突に覚醒した。
重い瞼を開いていくと、ぼんやりと緑色に発光する高い天井が見える。……なんだこれ。 え、俺今どこにいるの? あれ、さっきまで何してたっけ?
記憶をひとつひとつ手繰っていった。そうだ、龍之介に誘われて一緒に東京駅まで行ったんだっけ。それで俺たちの番がきたから、せーので手を突いたらつんのめって、それで――。
そうだ、龍之介はどこだ!?
慌てて右を向くと、俺が滑り落ちてきたらしい傾斜した坂が見えた。かなり急なので、あそこから上に戻るのは厳しいかもしれない。
急いで反対側を向く。すぐ横に、苦しそうに眉間に皺を寄せて瞼を閉じている龍之介の姿があった。さっきまでの俺と同様、気絶してるっぽい。
「龍之介!」
ガバッと上半身を起こして身体を捻り――。
「……ん?」
ふたつの違和感に気が付いた。
違和感その1。今の声、なに? なんていうか、声変わり前の懐かしい俺の声が龍之介の名前を呼んだような……。
はっ! まさかヘリウムガスが充満しているとかじゃないだろうな!? ふとした瞬間に引火してドッカーンなんてことに……! うわ、そっと、そうそっと動け、俺!
違和感その2。身体を捻った時、二の腕に当たった不思議な感触。……いやまさかな。いくらなんだってそんな非現実的なことはなあ、あは、ははは。
だけど、俺の目に映る伸ばされた俺の手が、腕が、なんかいつもと違う気がする。いや別にさ、元々でかくはないんだけど、もっとなんかこう曲線っぽいっていうの? とにかく何となく違う気がして落ち着かない。
嫌な予感に襲われて、思考が一瞬停止した。
だけど、ここがどこだかも分からないし、頼れる筈の龍之介は気絶してるし、とにかく状況確認はしないと!
ごくりと唾を嚥下すると、深呼吸して覚悟を決める。ゆっくりと、目線を下に落とした。
「……お、おう……?」
再び顔を上げる。目の前には、相変わらず苦しそうな顔で寝ている龍之介の姿がある。うん、夢じゃないっぽいな。えーと、もう一度確認してみよっかな。見間違いってこともあるしな。
再びそーっと下を見る。……やっぱりある。いつもだったらろくに筋肉も付いていないぺったんこの腹まで視界が良好な筈なのに、胸の部分が膨らんでいてその先が見えない。この盛り上がりって、もしやあれ?
Tシャツの襟を前に引っ張ると、そっと覗いてみた。……わお。谷間なんてこんな至近距離で初めて見たよ。でもそれが自分に付いてるもんだと思うと、感動もへったくれもない。
ふと、俺はとんでもないことに気付いてしまった。そういえば、さっきから横座りをしているのに、股が随分と違和感なくぴったりくっついているような。
背中がヒヤリとする。え、マジで冗談じゃないよ?
襟を戻すと、手を股間にゆっくりと伸ばしていった。嘘だよね? 決して自慢できるほどの代物じゃないけど、そういうことじゃなくて、男のアイデンティティっていうか、ほらあるじゃん? だから頼む、まさかないなんてことはやめてくれよ――。
「……」
だけど俺の手は、そこにある筈の存在に触れることはなかった。つるんとした感触は、まるでキューピー人形のお股のようだ。
「――ちょ、ま、えっ、どういうこと!?」
頭を抱えて髪をグシャグシャに掻き毟った。
「お、落ち着け亘。まずはそう、鏡で確認だ。鏡、鏡……あ、そうだ」
斜めがけにしていた鞄から、スマホを取り出す。カメラを起動してインカメラにする。
……数年前の可愛らしかった俺をちょっとふんわりさせた俺の面影がふんだんにある顔が写っていた。
「……うん、俺ね? 俺なんだけど、俺なんだけど……」
辿り着いた答えは、ひとつ。……嫌だ、信じたくない! 俺は男だぞ!? なのになんで、なんでこんなことに――!
未だ呑気にうなされている龍之介に飛びつくと、グワングワンと大きく揺さぶり始めた。
「龍之介えええええっ! どうしようっ! 助けて!」
「ん……亘……どうし……」
「とにかく起きろよ、どうしよう俺、俺……っ!」
腹が立つくらいゆっくりと、龍之介の瞼が開かれていく。龍之介はぼんやりと俺の顔を捉えると、また瞼を閉じ――大きく見開いた。
「えっ!? は、わ、亘!?」
龍之介が、飛び上がるように上半身を起こす。
「やっと起きた! お前おっせーよ! もうさ、俺どうしようってすっげー困っててさ!」
「は、え、わ、亘、だよね……?」
龍之介は切れ長の瞳をこれ以上ないくらい見開くと、不躾なくらいに上から下まで俺を眺めた。
俺は涙ながらに訴える。
「俺だよ! 俺なのに俺、こんな……女子になっちゃってんだけどどーゆーこと!?」
呆気に取られた表情を浮かべながら、龍之介が肯定する。
「……確かになってるね」
「やっぱり!? え、どうしよう!? なんで!? 俺この先どうやって生きてったらいいの!?」
叫びたくなるような不安に襲われて、ガバッと龍之介に抱きついた。龍之介は目をまん丸くしたまま固まると、鼻の下を伸ばす。
「や、柔らか……っ」
「女子の柔らかさを俺で堪能してんじゃねーよ! そうじゃないってば、誰か説明してくれよこの状況!」
涙目になって、上目遣いで訴えた。龍之介が、顔を真っ赤にして口許を押さえる。
「うわ、かわ……! 昔の亘がいる……!」
「なんか感動してないでさ、なあ龍之介、どーしたらいいの俺!?」
龍之介の服を前後に揺さぶると、龍之介は慰めるように俺の背中を撫でた。
「と、とりあえず亘は僕が必ず守るから! とにかく原因を探って、元に戻る方法を探そう、ね!?」
「本当だな!? やっぱり龍之介は頼りになるな! さすが俺のおかん!」
今度は嬉しくなってもう一度龍之介に抱きつくと、龍之介は「うあぁ……っ」と弱々しい悲鳴を上げながら天を仰いだ。
上を向いたまま、呟く。
「……あの、亘? 色々ね、柔らかいものが当たってる、んだけど……」
龍之介の脇腹に、拳をゴッと当てた。
「あ? なに俺相手に照れてんだって! 女体化しちゃったけど中身は俺だぞ?」
「イテッ、いやその、まあそうなんだけど……っ」
「お前な、いくら女子に免疫がないからって、俺を避けるなよ? 泣くぞ?」
こいつは滅茶苦茶もてまくる癖に、これまで一度も彼女ができたことがなかった。
毎回告白されても断ってしまうので「付き合えばいいのに」と俺が言うと、「女子はちょっと免疫がその」なんて困った笑顔になるのが常。
その後「亘といるのが一番気楽でいいんだもん」とイケメンフェイスで言われるから、「じゃあまあいっか、彼女できなくても減るもんじゃないしな」って思ってた。
だってさ、俺は全然もてないし。女子マネたちにはマスコットキャラ扱いされてたし。親友に彼女ができたら俺はぼっちになるじゃん? だからまあ、龍之介がいいっていうならいっかって流してたんだよな。
だけどそれが今回、裏目に出た。
あまりに女子に免疫がないせいで、中身は俺なのに挙動がおかしくなっている。
「龍之介ぇ?」
ギロリと睨むと、龍之介は慌ててブンブン首を縦に振った。
「さ、避けないっ! 泣かせない!」
「頼むぞ本当。お前だけが頼りなんだからさ」
抱きついていた腕を解きながら龍之介の腹を拳で小突くと、龍之介は「頼り……うん!」と何故か嬉しそうに微笑んで頷いたのだった。
次話は明日の朝投稿します。