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第五話 ヒエラルキーが逆転した瞬間

「……って、あれ?」


 既に狼の顎は閉じられており、俺の身体には幾本かの鋭い牙が突き立てられている……はずなのだけど、


「……なんか、思ってたほど痛くないな」


 噛み千切られる痛みって、もっとこう……絶叫を上げるくらいの激痛が奔るものだとばかり思っていたのだが、今俺が感じているのはチクチクと針が肌に刺さるような……その程度の僅かな痛みだけだった。


 というか……よく考えたら、痛みを感じ続けているってことは……俺の腕、まだ繋がったままじゃないか? 奴の牙なら、俺の腕くらい簡単に食い千切れそうなものだが……何故か奴は、俺の腕を咥え込んだまま微動だにしていない。


 いや、厳密には動いていないわけではない。さっきから、もぞもぞと細かく顎の開閉は行っている。チクチクとした刺痛が断続的に続いているのがその証拠だ。


 でも……あくまでそれだけ。奴は、まるでペットが飼い主に甘えるかのように、がぶがぶと俺の左腕を甘噛みしてきているだけだ。


 何だこれ……。さっきまでは俺のこと、捕食対象としてしか見ていなかったじゃないか……だのに、今更になって甘えられても……戸惑いしか湧かないのだが。


 そう思って、奴の顔を覗き込んでみる……すると、その瞳からは必死さが伝わってきた。いや、どちらかというと躍起になっているって感じだろうか? ……少なくとも、媚を売られているようには見えなかった。


 もしかして……この狼、あれだけの立派な牙を持ちながら、まさか俺如きの腕すら噛み千切れないほど顎の筋肉が脆弱なのでは……って、いやいや、そんなことあるわけ……。


「な、なあ……食わないのか?」


 でも、どうしてかその可能性が捨てきれなくて、俺は思わず必死に俺の腕へと噛みつく狼へそう語りかけてしまっていた。


 すると、奴があからさまにぴくりと身体を跳ねさせたのが分かった。それから、ムキになったように先ほどよりも激しく俺の身体へ牙を食い込ませてくる。


 ……それでも、噛み千切るどころか、奴の牙は俺の肌にすら突き刺さっていなかった。この巨体で、脚力も凄くて、牙も鋭い……なのに、顎が弱くて人間の皮膚すら貫けない……えっ、そんなことあるのか?


 ついには下顎を左右に動かし、俺の腕を無理矢理削ぎ落とそうとまでしてきた……のだが、俺の皮膚は一向に破れる気配を見せない。……ここまでくると、奴の顎の問題というより、俺の身体が異常なのでは……などと考えてしまう。


 だって、これだけのことをされれば出血は免れないはずだろ……? 外界から身体を護る役割を持つとはいえ、皮膚はそれほど丈夫にはできていない。少なくとも、今みたいに尖ったもので何度も擦られれば傷は付く。


 だから、幾ら奴の顎の筋肉が極端なくらいに脆弱だったとしても、ここまでされて血の一滴も出ないっていうのはあまりにおかしすぎる……。


 相変わらずチクチクとした軽い痛みを腕に感じながら、俺は躍起になって俺の肌と奮闘する狼を訝し気な瞳で見つめていた。人間の腕に齧りつく巨大な狼と、そんな狼の様子を無表情で眺める男……傍から見たらシュールな光景に映るだろうな。


 そうこうしていると、いよいよ噛み千切るのは不可能だと理解したのか、狼は咥えていた俺の左腕をぺっと吐き出すと、その巨体に似合わない俊敏な動きで俺から距離を取り始めた。


 そんな狼だが、先ほどまでの獰猛な雰囲気はすっかり鳴りを潜め、怯えたような瞳で俺の顔と奴の口から吐き出された左腕とを交互に見比べていた。


 ……そりゃ、弱い存在としか思っていなかった人間如きの腕一本すら噛み千切れないわけだもんな、恐怖心を覚えても仕方ないのかもしれない。


 というか、あの様子……もしかしなくても、自分の牙と顎に絶対の自信を持っていたんじゃなかろうか。今思えば、最初の余裕な態度も、一向に牙が通らず焦っていたのも、すべては"絶対に捕食できる"という自信があったからこそのものだったんじゃ……。


 そんな自分の牙が一切通用しない稀有な存在……そんな奴を目の前にして、平然としていられる奴がいるだろうか。……いや、いるはずがない。


 俺だって、あの狼の立場だったら……んん、俺だったらもしかしたら何も感じないかも……。あれだな、俺を引き合いに出すのは辞めておこう。話がややこしくなる。


 ともかくだ、絶対的有利だと思っていた存在に文字通り歯が立たなかったら、幾ら獰猛な野生動物だろうと得体の知れない恐怖を覚えるのは必然といえる。


 ……本当、訳が分からない。なんで俺の身体、こんな頑強になってしまっているのだろう。確かに、よく暴行は受けていたから、周りより少しだけ丈夫な身体はしているとは思っていたけど……。


「……狼すら歯が立たないなんて、予想外だったな」


 奴から解放された左腕へ視線を向ける。着ていた服の肩口はズタボロに破けてしまっていたが、その下から覗ける俺の肌にはやはり傷なんて一つもなくて……精々浅めの歯型が残っている程度だった。


 当然、痛みも既になくなっている。試しに腕を動かしてみるが……うん、何の異常も見られない。完璧なまでにいつも通りの左腕だ。


「食べるつもりでいたんだよな、俺を。甘えていたとかじゃ……ないんだよな?」


 野獣に襲われて尚、五体満足のまま生存を続けている自分自身に現実感が湧かず、ついそんな呟きを漏らしてしまう。


 けれど、そんな俺の呟きを耳にした狼が、さらに怯えを強くして俺から一歩後退りを見せたことで、本当に俺はあり得ない形で奴から生き延びてしまったのだと再認識させられてしまった。


 これは……一体俺はどんな反応をすれば良いのだろうか。無事だったことを喜ぶべきか、知らぬ間に常人の域を超えた肉体を手にしてしまっていたことを怖がるべきなのか……今ばかりは、少なくとも無感情のままではいられなかった。


 などと一人困惑していると、先ほどまでは震えながら俺を遠巻きに眺めているだけだった狼がおかしな挙動を取り始めていることに気付く。


 虚空へ顔を向けながら、静かに大口を開ける狼。何をしているのだろう……と、しばらく呆然と奴の様子を伺っていると……、


「……えっ」


 俺の瞳が、あり得ない光景を捉えた。奴の身体が急に輝きを帯び始めたのだ。野生獣って、そんな自力発光とかいう謎芸当なんてできるのか……い、いやいや、流石にそんなことは……。


 ……でも、光ってるもんなぁ。木々に邪魔されて陽の光もほとんど届いていない森の中で、何に照らされるでもなく自ら輝きを放っている。……さっきから超次元的な現象が生じすぎていて、流石に頭がパンクしそうだ。


 さらなる困惑を覚える俺の前で、次第に奴の身体を包む輝きは黒く変色し、やがて大きく開かれた奴の口元へ収束していく。


 そこでようやく、俺は再び自分に死の危険が迫っていることを自覚した。……これはまずい、今度こそまずい。何がまずいって、何が起こるかが予想できないのがまずすぎる。得体の知れない攻撃に対応なんてできるはずがない。


 と、とにかく逃げるしか……と俺が身体を起こしたと同時、口いっぱいに黒い何かを溜め込んだ狼が勢いをつけるように首を大きく後ろへ振り被った。


 立ち上がることはできたが、もはや逃げる余裕はない。むしろ、今ここで奴に背を向けるのは悪手にも見える。覚悟を決め、俺は奴と正面から対峙した。


 そう俺が構えた直後、ついにその時が訪れる。奴は振り被った頭を勢い良く前へ倒し、咆哮を上げながら口の中の黒い何かを吐き出し、黒色の衝撃波として俺の身体へ飛ばしてきた。


 その速度は目で追えないほど速く、俺は躱す暇もなくその黒い波動を正面から食らってしまった。


 突如、爆発したような衝撃が俺の身体を襲う。呆気に取られていて踏ん張りを利かせることもできなかった俺は、訳も分からぬまま後方へ吹き飛ばされてしまっていた。


 5mは飛ばされただろうか……やがて俺の身体は一本の大木に背中から激突し、そうして勢いを失いその場に崩れ落ちた。


 視界の先には砂埃が舞っており、狼の様子を伺うことはできない。……って、何故俺は冷静に奴の姿を探そうとしているのだろう。それ以前に考えるべきことがあるというのに……。


「……また、生き残ったな」


 おかしい……。あんな殺意に満ちた衝撃波をもろに食らい、爆発に巻き込まれ、数mも吹き飛ばされたというのに……命を失うどころか無傷のままだなんて……。


 痛みはあったんだ。あの衝撃波に飲まれた時には灼熱痛を味わったし、それに木に激突した時にも……。そのどれもが、先ほど奴に腕を噛まれた時以上の痛みを感じさせるようなものだった。


 ……でも、それだけ。それ相応には痛かったけれど、決して限度を超えた激痛というわけではなかった。……多分、初めて義兄の剣撃を受け止めた時の方が数倍痛かったと思う。


 ……何だこれ、一体俺の身体はどうなっている? 上着が焼け落ち、ほとんど剥き出しとなった自身の上半身を見下ろしながら、もはや自分の異常さに驚愕するしかできない俺だった。


 そうしている間に、砂埃の中からこちらへ向かって駆けてくる一つの気配を感じ取る。狼のものだろう。……どんな顔して奴と対面すべきだろうか。


 もしかしなくても、さっきの攻撃は奴の十八番的な何某だったのだろう。攻撃モーションも長かったし。


 でも、耐えきってしまった。しかも、無傷で……。そんな俺の様子を見たら、きっと奴のプライドは崩壊するに違いない。ヒエラルキーが圧倒的に下位である俺にすべての攻撃を防がれるとか、屈辱以外の何物でもないだろうからな。……可哀そうに。


 ……いや、何故俺は自身を殺そうとしてきた相手に同情なんてしているのだろうか。命が助かったんだし、たかが獣一匹のプライドくらいどうだって良いじゃないか。


 そう憐みの心を切り捨てたところで、目の前の砂埃が晴れ、再度奴と対面を果たす。


 最初に見えた奴の足取りは非常に意気揚々としたものだった。……だが、俺と目が合った瞬間、奴の動きがぴたりと止まった。その眼は、信じられないものを見たと言外に語っているようだった。


 今度こそ仕留めたと思っていたはずの相手が、平然と自分を見返してきていれば、そりゃそんな反応にもなるか。しかも、着ていた服以外に真新しい傷もできていないわけだしな。


 なんて内心で苦笑を浮かべていると、次第に奴の身体ががくがくと震え出す。奥の手……と思しき攻撃まで受け止められ、再び怯えの感情に支配されてしまったようだ。その巨体が、今は何故か子犬くらい小さく見えた。


 ……うん、やっぱり哀れだ。同情は切り捨てられていなかったらしい。俺はつい、奴に声をかけてしまっていた。


「その……悪いな。どうやら、俺はお前の食料にはなってやれないらしい」


 その言葉に、奴は一層びくりと身体を跳ねさせた。……かと思ったら、唐突にその場にごろんと寝転がってしまう。


 こちらに腹を見せている……ということはつまり、これは服従の姿勢……っていうやつなのだろうか。とすると……この狼、完全に戦意喪失してしまった……というわけか。


 俺の意図に反し、今の言葉がどうやら奴のプライドにとどめを刺してしまったようだ。まだ分からないことだらけだが、なんか俺……野生動物に勝ってしまったらしい。

??

 うーむ、こいつ……どうしようか。いっそのこと手名付けて、この森を案内してもらっても良いかもな。


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