第四話 目覚めた時には森の中
……冷えた風がふわりと頬を撫でる。耳には、さらさらと草葉が擦れるような音が微かに聞こえてくる。
鼻で息をする度に、土と緑の入り混じった自然の香りが鼻孔に広がるのが分かる。……まるで森の中にいるような、そんな錯覚を覚えてしまう。
だが、何だろう……夢にしては、今感じている音も香りもどことなくリアリティを帯びているような……そんな気がしてならない。
じゃあ、俺は本当に森の中で眠っていたのか……そう問われると、それには生憎納得しかねる。
昨日は……というっかいつもだけど、俺はちゃんと自分の家に戻ったはずだ。そして、寝室で新たなバイト先の候補の絞り出しを終えた後、特にどこかへ行くこともなくすぐに布団に入って眠りに就いたはずである。
だから、普通なら外にいるなんてこと考えられない。ならば誘拐か……という考えが一瞬脳裏を過るが、俺を誘拐することに何の価値があるのかも分からないし、あり得ない話だ。
……いや、そもそも現実だと決めつけること自体がおかしいのかもしれない。案外、眼を開けばいつも通りの部屋の天井が見えてくるんじゃなかろうか。
そう思い至った俺は、恐る恐る瞼を持ち上げる……が、開けた視界の先に広がっていたのは、
「外……だな」
残念なことに、想像していた通りの光景だった。つまり俺は、緑の生い茂った深い森の中に寝転がっていたわけだ。
そんな光景を目の当たりにした俺は……、
「……夢か」
そう切り捨て、もう一度目を閉じた。きっと、次に目を覚ませば、今度こそ見慣れた部屋の中にいるはず……そう期待して。
*
「……変わってないな」
しかし、そんな期待はあっさりと打ち砕かれてしまう。
結局、二度寝から覚めても目にした景色に変化はなく、鬱蒼とした薄暗い森が広がっているだけだった。
となると、これは夢ではないってことか……。俺、森に入った記憶なんて全くないのだけど……。
そもそも、家の近くに森なんてなかったはずなんだが……住んでいる場所、比較的都会だし。それに、態々森に行くような目的も見つからない。
だがなぁ……誰かにここまで連れてこられたという可能性も薄そうなんだよな。周囲に俺以外の人の気配を一切感じられない。多分、ここまで誰かに連れてこられていたなら、俺を連れてきた当人の姿くらいは見つけられそうなものだが。
それに、手足を拘束されているわけでもないし、誘拐という線もやはり薄そうだ。……とすると、これはまさか……俺、この森に捨てられたのか?
……って、それもなさそうか。義母ならともかく、義兄と義姉は俺を体の良い道具と考えているからな、よほどの不都合が生じない限りは手放すつもりもないだろう。
……それじゃあ、一体何故こんなところにいるんだ、俺は。本当に分からなくなってきたぞ……。
……というか、今気付いたんだが、いつの間にか服が変わっている。しかも俺、こんな服持っていたっけ……。うーむ……、ますます謎だ。
こういう時、スマホがあれば現在地の検索とかできたんだろうけど、いつも寝る時は枕元に置いていたからなぁ……都合良く手元にあるとは……
「……ん?」
思えない……と思ったのだけど、ダメもとでズボンのポケットを確認したら、どういうわけか入っていた……。
ま、まぁ、理由はどうあれスマホが見つかったのはありがたい。これで現在地の確認ができるわけだからな。
というわけで、早速調べてみようとポケットからスマホを引っ張り出そうとしたところで……突然目の前の茂みが揺れた。同時に、何か強烈な気配がこちらへ近付いてきているのを感じ取る。
人……っていう感じじゃなさそう……まさか、野生動物? こんな森の奥じゃ、確かにいてもおかしくはないが……。
それはともかく、まずいな……もしこの気配が本当に野生動物のものだったとしたら、見つかった瞬間死ぬ。人からの暴力は受け流せても、人の常識を超えた存在には適うはずもない。
とにかく、今のうちにできるだけ距離を放さねば。スマホで位置確認なんてしている場合ではない。
そう考え、俺はその場に立ち上がり、一目散にその場から駆け出した……のだが、
「なっ……」
どうやら向こうも俺の気配を敏感に察知していたようで、俺が動き出したことに気付いてか勢い良く茂みから飛び出してきた。そりゃ、ただの人間が相手の気配を察知できるような距離で、野生動物が気付けないはずないわな。
……というか、デカいな。見たところ、狼っぽい見た目ではあるが……その体長はざっと3mくらいはありそうだ。狼の標準サイズとか分からないけど、森奥の野生動物ってこれほどまでに大きいのか……。
捕まったら、本当にしゃれにならないな。あんな巨獣からすれば、俺みたいな人間なんて格好の獲物でしかないだろう。食われて終わることは想像に難くない。
こんなところで死ぬわけにもいかないんだがな……。義父の自己満足だったとはいえ、俺からすれば彼に救われたのもまた事実。拾ってもらった命をこんなところで無駄にするわけには……。
それに、早く新しいバイト先を決めなければならない。金を稼がないと、アパートの家賃すら払えなくなる。
そうなればきっと、親権を持つ義母に責任問題が圧し掛かってしまう。これ以上面倒をかけたら、あの世でも恨まれ続けそうだ。……そんなの、真っ平御免だ。
そんな使命感に駆られた俺は、無我夢中で脚を振り出し、脇目も振らずに全速力で巨狼から逃亡を図る。たとえ逃げきれる可能性は限りなく0であろうと、とことんまで足掻いてやる……そんな気概で森の中を駆け抜けた。
当然、背後からは巨狼が唸り声を上げて俺を追ってきている。分かってはいたが、奴の走る様は巨体に似合わず身軽なものだった。少しずつだが、俺と奴との距離は着実に近付いて……って、あれ?
てっきり、もっと圧倒的な走力差があるとばかり思っていたのだけど……案外逃げ延びているな、俺。いやまぁ、このままだといずれ捕まることは目に見えてはいるんだが……。
しかし、差の縮まり方がやけにゆっくりなのだ。……俺って、こんなに足速かったのか。でも、よくよく見てみると、周囲の景色が猛スピードで後ろへ流れていっていた。それだけの速度を出せているという証拠だ。
昨日、義兄に呼ばれて実家へ急いだ時はこんな速度出せなかったはずなのだが……逃走本能とはすごいものだ。
……いや、そんなことを考えている場合でないことは分かっているんだがな、死を目前にして思考が変な方向へ飛びかけている気がする。
そうしている間にも、狼と俺の距離はますます短くなっていた。もはや10mもないんじゃ……ヤバいな、これ。
「……一か八か、やるしかないか」
こんな直線距離での追いかけっっこじゃ歯が立たない……ならば、この森の入り組んだ地形を利用して撹乱するしか……。
そう考えた俺は、唐突に進行方向を左に切り替え、横道へと飛び込んでいく。そんな俺の突然の動きには流石の狼も対応できなかったようで、左に曲がりきれず勢いあまって大木の幹に身体を激突させていた。
……よしよし、何とか奴の大幅な減速には成功した。今のうちに、できるだけ奴との距離を延ばさねば。
俺は、狼が大木との激突の衝撃でひるんでいる間に、草木で入り組んだ道なき径をでたらめにひた走る。こんな風に小回りが利くのは人間の利点だ。
そう思っていたのだけれど……、
「うわっ……、マジか……」
後ろの様子を確認したところで、思わずそんな驚愕の言葉が口からこぼれてしまっていた。
何故かって? ……そりゃ、3m超の巨体が狭い小径の間を軽々とすり抜けながらこちらへ迫ってきていれば、誰だって驚くに決まっているだろう。
小回りが利くのは比較的身体が小柄な人間故の特権だと思っていたのに……、何故その巨体でスムーズに狭い径を走れるんだ、奴は。
それでいて、先ほど俺に出し抜かれたのがよほど腹に据えかねたのか、加速の度合いが尋常じゃなくなっている。野生動物の身体能力とは、斯くも恐ろしいものだったとは……侮っているつもりはなかったのだが、どうやら俺の想定はまだまだ甘かったらしい。
というか……これ、相当ピンチじゃないか? 絶対有利だと思って小径に飛び込んだつもりが、むしろ相手に有利な状況を作ってしまった……自分で自分の首を絞めるとはまさしくこのことか。
俺の反射神経じゃ、奴のように加速したら十中八九大木に激突するだろうな……くっ、どうすれば……。
「うおっ……!?」
そんな風に焦って思考に没頭していたからだろう、俺は足元の注意を疎かにしてしまい、気が付けば足元まで伸びていた一本の木の根に躓いてしまっていた。
走っていたために勢いがつきすぎてしまっており、咄嗟に体勢を立て直すこともできなかった俺は、受け身すら取れないままその場に崩れ落ちてしまう。
そしてそれは、獰猛な野獣の前では致命的な隙となる。……気づくと、狼は俺のすぐ後ろまで迫っていた。しかも、俺がすぐに起き上がれそうにないことまで理解しているのかその動きは緩慢で、勝ちを確信した故の余裕が現れていた。
……そうか、どうやらここまでのようだ。足掻いたけれど、やはり野生動物には適わなかったな。
すまない義父さん、この命……残念ながらここで尽きてしまうみたいだ。せっかく拾ってくれたのに、守り切れなかったよ……。
義母さんも、ごめんな……これから多分、かなり面倒をかけさせると思う。……幾ら恨んでもらっても構わない。
そう胸の内で家族への謝罪を唱えているうちに、いよいよ狼の巨体が俺の目と鼻の先まで迫る。その場にへたり込む俺を、捕食者たる奴は冷たい目で見下してきていた。
そんな状況においても、俺の心には恐怖の感情はない。ただただ家族への罪悪の念が募っていくだけだった。
「はぁ……」
そんな、あまりに人間味のない自分の心に、呆れの嘆息が漏れてしまう。
それと同時に、とうとう0距離までやってきた狼がその口を大きく開き、俺を食らおうとじわじわ顔を寄せてくる。
命を捨てることへの未練からか、俺はせめてもの抵抗と言わんばかりに左腕を前に突き出していた。……その程度で押し返せるのなら、今頃苦労なんてしていないのに。
案の定、俺の左腕は易々と奴の口腔内へ侵入してしまう。このまま奴が口を閉じれば、今目の前で剥き出しにされているあの鋭い犬歯たちにより、俺の腕は簡単に噛み千切られることだろう。
それはきっと、今までに感じたこともないような痛みを俺に与えてくるであろう……それくらいは容易く想像できる。それでも、俺は怯えない。無表情で、奴の口腔へ収まっていく自身の左腕を眺めていた。
そんな俺の飄々とした態度が気に入らなかったのか、はたまた空腹感を抑えきれなかったのか、やがて肩の辺りまで腕を飲み込んだところで、奴はその顎を一気に閉じた。
……そして、奴の牙が俺の身体へと勢いよく突き刺さった。