オノコロ島の誕生
それはまだ天と地が分かたれてからまださほど時間がたっていない時代の話。
陰と陽。光と闇。天と地。
空の果てから地の底でも混沌ばかりが存在しており、秩序などどこにもありはしなかった。
変化のない時代が長年続いた果てに天と地が分かたれた。
こうして天の一番高い場所に高天原と呼ばれる天上世界が形成された。そこからいと貴き神々が秩序を形成していくのである。
最初に生まれたのが天を主宰するアメノミナカヌシノカミ。
次に天上世界の創造神タカミムスヒノカミ。
地上世界の創造神カミムスヒノカミが現れました。
ここからしばらく間をおいてクラゲの様に揺蕩う地上から葦の芽が芽吹くかのように生命を司るウマシアシカビヒコヂノカミが、それに続いて天上世界の永遠性を司るアメノトコタチノカミが現れました。
これらの神は神の中でも特別な神で別天津神と呼ばれている。
時を同じくして地上でも神がお生まれになられており地上の永遠を司るクニノトコタチノカミ。
自然へと命を吹き込むトヨグモノノカミがお生まれとなった。
これらの神は性別を持たぬ独り神であり生まれてからすぐにお隠れとなってしまった。
次に生まれたのはこれまでとは違い男女一対の神でありウヒジニノカミ。その妹のスヒヂニノカミ。
ツヌグイノカミ、その妹のイクグイノカミ。
オオトノヂノカミ、その妹のオオトノベノカミ。
オモダルノカミ。その妹のアヤカシコネノカミ。
最後にイザナギノカミとイザナミノカミがお生まれになりました。
これらの神は神代七代と呼ばれています。
「退屈ね、本当に退屈」
じたばたとこの世で最も高貴な女性が寝転がりながら足をバタ尽かせるものだから袴から女の艶めかしい足が零れ落ちた。
傍らにいた男。イザナギはどぎまぎする心臓をどうにかなだめながら「だったらまたいつもの鍛錬に戻ればいい」と模範的な回等で返した。
「それが嫌だから退屈してるんでしょうが。もう私たちが一体どれだけの時間を鍛錬に費やしたのか忘れてしまったの」
イザナミとて最初からここまで無気力であったわけではない。人の人生でいえば八代ほど移り変わるという想像できない時間であろうとも神であれば一瞬と断じることができる程度の時間は真面目に鍛錬を励んでいた。
しかし、九代十代移り変わりが起きようかという時分になって、自分のやっていることに疑問を感じはじめ、今では退屈だ退屈だと愚痴をこぼし鍛錬を怠るまでになった。
そもそも高天原での日々は「無意味」の連続なのだ。
剣を振り重りを持ち上げ力を鍛えようと、術を知り、道具を作り生活を豊かにしようとも、周囲にいるのはすべからく全能の力を持った神々ばかり。
誰もかれもが困窮せずどんなに努力しようとも力を生かす場面などあるはずもない。
イザナミなどはこの変わり映えのない日常に嫌気がさしていた。
「どこかで新しい神が生まれないかしら。それこそ呪いを振りまくだけの祟り神でもいいわ」
やけっぱちになったイザナミは変化があるならば障害でも構わないと口にした。
「冗談でも、そんなことを言うものではない。世が平和であればそれに越したことはないのだからな」
「なら、そういった悪神が現れたらあなたは私をまもってくださるでしょうか。怖くなって逃げだすこととかしない」
「もちろんだ」
「なら、私を守ったままだとその悪神を倒せないとなったら討伐と私の救助どちらを優先してくださるの」
「それは、場合によるが。それでも、イザナミの救助を優先するさ」
「そこで迷いなく私って言いだせないところが女々しいわね」
イザナミにとってつらいのはこのやり取りですら「八百万」と繰り返した光景ということだった。
出会う人、向う場所も変わることはない。何気ないやり取りやたわいない遊びに至るまでやりつくされ、退屈という毒によって神の心は侵されていた。
またいつものようなつまらない日常が続いていくのだろうなと諦め心地でイザナミがため息をついていると、頭の中に一瞬閃光のような光が駆け巡った。
「イザナギ、今のは」
「間違いなく託宣だ。しかし、別天津神様達も一体いかなるようで我らを呼んだのだ」
「そんなもの行けば分かるのではなくて。ささあ行きましょう」
よっぽど娯楽に植えていたのだろう。
いかなる要件かわからないというのにイザナミは軽い足取りで別天津神のところに向かう。それにイザナギが落ち着いた調子で続いて行った。
歩いている最中でもイザナギはいったい此度の要件は何なのだろうと考えてみたが、何一つとして思い当たるものがないままに別天津神がおわす神殿へとたどり着いていた。
神殿には別天津神のみならず神代七世の面々までがそろっていた。
元来生真面目な性格であるイザナギはいくら急な呼び出しだったとはいっても序列が最も低い自分が最後にやってきたことを気に病んで謝罪の言葉を口にしたが、ほかの面々に関しては突然呼び出されたことを理解しているからこそ気に留める様子もなく着席を促した。
そして全員が別天津神と向き合うとと発言を今か今かと待ちわびた。
「ここに呼んだのはほかでもない、お主らに頼みがあるのだ」
その一言の重みをこの場にいる面々は衝撃とともに理解した。
全能に限りなく近いものの言葉だからだ。
まだ若い神である二人にはお願いという文言であったとしても命令以外の何物でもなかった。
そのうえで不可解さも感じる。
この神が自分ではできないことをとうてい自分たちができるとは思えなかったからだ。
もうそれだけでイザナギには厄介ごとの気配しか感じられなかった。
「貴殿らを地上の様子をどう思う」
「そ、それは……」
「ただクラゲの様に揺蕩うのみの混沌とした地としか感じません」
格上の存在からの質問に何と答えればいいのか考えあぐねていたイザナギの代わりにイザナミがよどみなく答えた。
「その通り、我ら天津神は地上世界もまたこの高天原が誕生したときの様に形を成し姿を変えると考えていた。幾千幾万の時が過ぎようとも地上、中つ国が形を成すことがなかった。
よって中つ国に形を成す役割を貴殿らに任せたいのだ」
「は、はぁ」
失礼だとイザナギは思った。思ったもののことのスケールがあまりに大きすぎたせいでなんといえばいいのかがわからない
「それで一体誰がその任に」
神代七世に向けられた言葉。イザナギは、一番の若手である自分が大役を任されるわけがないと、我関せずの姿勢をとった。
イザナミは、前代未聞の大業に目を輝かせるものの、隣にいるイザナギからの黙っていろという視線に負けて動くことができない。
神代七世の面々もこの話の終着点がどこに向かうのだとじっと成り行きをうかがっている。
そして、別天津神は「この一件イザナミとイザナギ両名に任せたいのだがどうだ」と口を開いた。
その神託に参加者各々は驚きに目を丸くして本当なのかとも聞き間違いではないかと各々に確認をとったほどだ。
イザナギとイザナミはこの参加者の中で最も若く未熟な存在だ。周囲の面々はとても彼らがこの大事業を遂行できるなどとは思えなかったのである。
「どうして我々なのでしょうか。我らはしょせん神々の末席。まだ若く未熟。
他の面々には役割や仕事があるというのはわかりますが、天と地を分かつ大事業我らのような末弟に務まるとは思いませぬ」
別天津神が決定に異を唱える。この高天原において前代未聞の大事件だった。
だが誰も何も言わない。
多かれ少なかれ皆同じような疑問を感じていたからだ。
「中つ国のことであるのならばクニノトコタチノカミ、トヨクノノカミの領分。
我らが手を出すようなことではないと考えます」
「そのことについてはその二柱ともよくよく相談して此度の決定を行ったのだ。
どうして選ばれたのかという話だったな。
その理由については簡単だ。
貴殿らが最も若い神だからだ。
貴殿ら以外の神は皆が多かれ少なかれ天と地が分かれる前の時代を生きている。
神が増えるにつれこの世界が安定し貴殿らが生まれることによって天と地の完璧な分離が達成した。
要は貴殿らのみが秩序のみの世界で生まれ生きてきた最初の神。
混沌を知らぬからこそ秩序ある世界を作るうえで最も適任と考えたのだ」
皆から与えられた重圧に耐えかねて、代案や別案を提案しても、別天津神は動じることなどなくただ泰然としているだけだった。
兄姉は、この大事業を任せることができるのかどうか半信半疑といった風で、もし無理そうならば助け船を出すつもりだった。
どうすればいいのかとイザナギは決めかねていた。
事態があまりにも壮大すぎて軽々しく受けることなどできるはずもない。
「とりあえず受けてみてはどうかしら」
ただただ重い沈黙が支配する場でイザナミの声が響いた。
「たとえ地上に降りたとしても無理そうならば手伝っていただけるのでしょう。
私たちがやるだけやって手詰まりになればほかの神に降臨してもらえばよろしいのではなくて」
無理ならば増援を。
無責任にも聞こえるが、この場においては最適解ともいえた。
周囲の面々も末の兄妹のことを心配していたこともあって皆がその意見に賛同した。
「とはいえだ。我らとて貴殿らに困難な願いをしていることは自覚しておる。ゆえに手ぶらで外界に送ることなどせぬとも」
もし至高の芸術があるとすればこの槍をさすのだろうとイザナギは思った。
刃の刃先から柄の石突に至るまでの全体の形状の整い方、満天の星空をそのまま固めたかのような柄の色合い。
真に才能を持つ研磨師が丹精込めて磨き上げたかのような刃先の輝き。
緑、赤、茶、白、黒の勾玉が飾り付けられており。この武器がただの道具でも芸術品でもないことがこの槍が放つ圧倒的な圧から感じられた。
「さて、行きましょうか」
任を引き受けこれからどうしようかを二人で話し合おうとした矢先。イザナギは動き出した。
「待て、まずは動き出す前にこれからの計画を立てるべきだ」
慎重な性格のイザナギはイザナミを制止しようとしたのだが。
「そもそもの話、地上に降りたことはありまして。それなのにいかなる計画を立てられましょうか」
「だとしても皆に話を聞き地上の様子を知るなり」
「地上には何もないというのに」
計画を立てようとしたイザナギもその一言で何も言い返せなくなった。
そも、神である彼らには地上とは全く未知の世界なのだ。
誰に話を聞こうにももたらされる知識や意見など現状の彼らが持つ情報と大差ないことだろう。
「それにしても意外でした。あなたならば一番最初の段階で応援を呼ぶと思っていたから」
「そこで皆にご足労してもらうのはいささか気が引けたのでな。それに私にもまた私の計画というものもある」
「その計画というのはいったい何なのでしょうか」
「それは秘密だ」
「これからともに大事業に挑むのですから。今更隠し事など」
「残念だが秘密だ」
かたくなに答えを口にしないイザナギにやや不振に思うもののどうせ大したことではないだろうとイザナミは思いなおした。
何せこれからいくらでも確かめる機会はあるのだから。
二人がまず天の浮橋へと向かった。
天上世界から地上を見渡すことができる唯一の場所。
「やはりいまだに 中つ国には海と大地との境界すらありはしない」
今の地上は奇しくも天沼鉾が有する勾玉と同じように緑、赤、茶、白、黒。この五色の要素が移り変わり立ち代わり混沌を極めていた。
「陰と陽を分かった程度でこの大地をどうこうすることができるのだろうか」
別天津神から贈られた鉾。そこに秘められた力を知るものの、二人はいざという時分になって経験と実力の不足から不安に駆られた。
隣で自分と同じように尻込みするイザナギを見てイザナミの中に功名心とも誉ともいえない不思議な感情が巻き起こった。
高天原において自分は最後に生まれた神。ゆえに絶えず部をわきまえた行動を強要されてきた。
しかし、今から向かうは中つ国、天上世界とは確かな断絶と隔たりが存在する。
「それ貸してくださらない」
イザナギが持つ天沼鉾を手にしたとき、そしてそれを振るった時。彼女の中に潜んでいた真の「己」が顔を出していた。
「何も起きませんね。故障でしょうか」
とはいえ、どれだけ欲と力をたぎらせようともできないものはできない。
天沼鉾を大地に突き刺し陰と陽を分かとうとしてもうんともすんとも言わない。
外面を取っ払いただ誉を求めなりふり構わずに動いたというのにこれである。
「ちょっと変わってくださらない」
一時の熱が過ぎ去れば急にいつものしとやかさと健気さとが息を吹き返し、イザナミは羞恥に一人ほほを染めながらも天沼鉾をイザナミへと返却した。
彼もまた矛をふるい陰と陽とをあるべき姿に分離しようとするのだがこちらもこちらで何の変化も起こりはしない。
「さすがに別天津神から賜った至宝だ。
ガラクタや故障などということはないだろう」
「それならば使用に何か条件でもあるのでしょうか」
そんなものがあるのであれば最初から説明してくれればよかったのにと別天津神を恨めしく思いながらもイザナミは頭を働かせ始めた。
「少し、試したいことがありますのでこちらに……」
少し試したいことがあり、イザナミへと手を伸ばしたらそこに矛から伝う力がぐっと重くなったのを感じた。
その変化に驚きイザナミははっと矛から手を放す。
今の感触を確かめるためにイザナギはさらに矛をふるっていくのだが刃先から感じる重さは変わることはないものの軽くなることはなかった。
「もしかして複数人で矛をふるわなければならないのか」
「おそらくは男女で振るわなければならないのでしょうね。この矛の力は陰と陽とを分離するものだから」
二人で矛をふるっていけば最初のころは灘の感触もなかった大地から少しずつ確実に重さが伝わってくる。
大地をかき回す回数が多くなれば多くなるほどに穂先から感じる感触が重く確かなものとなっていった。
回しに回しイザナミがもう回すことができないと感じたところで矛を引き抜いた。
すると穂先から零れ落ちた潮がおのずから塊だし、島が形成された。
「潮がおのずから凝り固まった。よし、この島の名前はオノゴロ島としましょう」