男という名の本
その男には、何もなかった。
家族は早くに亡くし、やっとの思いで交際を始めた恋人には、あっさり裏切られ、借金を背負って家を追い出された。
「世の中には何もない……。俺は、もう死ぬしかないのだろうか……?」
自殺しようと思い、とある建物の屋上へやってきた男は、一冊の本を見つけた。
屋上にぽつんと置かれていた。
古びた本からは、カビの匂いがする。男はそれをふと手に取って読んでみた。
『佐藤啓介は、20XX年に〇〇県で生まれた』
冒頭の文章に、男は驚いた。
だって、佐藤啓介は男の名前だったのだ。
不思議に思ったが、男は深く考えずに次のページを開いた。
『啓介には、両親と兄がいた。彼は平和に暮らしていた』
文章は、一ページに一行しか書かれていない。
次のページに目を落とす。
『だが、五歳の時に、両親は事故で他界してしまった』
思い出されるのは、葬式の時の両親の死体。
繋ぎ合わされた顔。化粧はされていたが、事故の痛々しさが子供心に辛かったのを覚えている。
ページを捲る手は止まらない。
『伯父の家に預けられ、兄と一緒に十歳まで暮らした』
『しかし十歳のある日、伯父は電車で女子高生に痴漢をしたとして逮捕されてしまい、兄と二人で孤独に生きなければならなくなった』
また捲る。
『しかし兄は、啓介が十七歳になりたての頃、不慮の事故で死んでしまう』
『代わりに伯父は牢獄から帰って来たが、啓介は彼の元から離れる決断をした』
脳裏をかけ抜ける、過去の記憶。
家出を宣言し、きのみきのまま飛び出した。
『しかし、何も上手くはいかず、どこも雇ってくれなかった』
『すっかり金なしになった彼は、バーで働き始めた』
『そこで、一人の女と出会った。女、安住は美しく、ひとめ惚れした』
安住は綺麗な女性だった。男は、彼女を心から愛していた。のに、
『安住は佐藤を裏切った。彼と趣味が合わなかったからだ。佐藤は本当に独りになった』
『彼は、住んでいたマンションを追い出され、多額の借金を背負い、どん底に落ちた』
『そして、彼は自殺しようと思い立ち、とある建物の屋上へやってきた。だが彼は、一冊の本を見つけた』
次には一体、何が書いてあるのだろうか。
震える指で、ページを開いたその時、背後から声がした。
「あらあらまあまあ。見つけてしまったんですね」
振り返ると、そこには、一人の女性が佇んでいた。
黒い衣装を身に纏い、怪しげな笑みを讃えている。
「誰だ?」と男が聞くと、女は言った。
「私は、世界の司書です。そんなことよりも、その本について知りたくはありませんか?」
言われてみればこの本が一体何であるのか、謎でしかなかった。
「何なんだ、この本は?」
「これは、その人間の人生の全部が記されている本です」
女はそう言ったが、男は首を傾げる他にない。
人生の本、だなんて言われてもピンとくる人間が日本には、いいや世界のどこにだってきっといないだろう。
「この世界には、何十億人という人間がいますよね。星の数ほどの人間それぞれには全て人生があります。その人生は、一つ一つこのようにして本に記されて最初から定まっているのです。そしてそれを管理しているのが私。……ところであなた、最後のページまで読みましたか?」
男は首を振った。
「そうですか。それは良かった。うっかりその本をなくしてしまい、困っていたのです。本は、運命を全て書き記してありますが、だからこそ、所有者は絶対に読んではいけない決まりなのですよ。そうなる前に、無事に手に入れられて、本当に幸運でした」
女はそう笑いながら、男の手にしていた本を、大事に腕に抱え込む。
それを見つめて、男は考えた。
「所有者の運命が書かれているなら、俺の未来だって書かれている筈だ。さっきは読めなかったあの続きを読めば、俺にも明るい未来が切り開けるかもだ」
そうとなれば、行動に移すしかなかった。
男は女を突き飛ばし、その腕から本をひったくる。そして、無我夢中で読み始めた。
『彼は女を突き飛ばし、運命の本を手に取って開いた』
次のページを捲る。
『どんな未来が記されているのだろう。ワクワクとドキドキに包まれながらページを捲ると、嫌な気配がした』
『首だけで後を見ると、そこには狂気的な笑みを浮かべる女がいた』
『「見てしまったのですね」。そう言いながら女は――』
嫌な気配を感じ、男は首だけで後を見た。するとそこには、狂気的な笑みを浮かべる女がいた。
「見てしまったのですか。……はぁ。このことは運命として、最初から決まっていたのですね。人間としての決まりを破ったあなたに、もう生き続けることは許されません。ですので――さようなら」
女はその瞬間、男の胸をどついた。
屋上の縁に立っていた男は、本を取り落とし、あっけなく足を踏み外して落ちて行った。
数秒後、男はトマトのようにつぶれて死んだ。
それを見終えると、女は本を手に取る。
そして、最後の一ページに目を落とした。
『決まりを破った彼、佐藤啓介は女にどつかれ、屋上から落下して命を終えた。これは世界の主からの報いなのだ。それにしたって後で怒られるだろうなとゲンナリした気持ちで、世界の司書は本を閉じた』
女が読み終わった時、男という名の本は光の粒となって消失した。