リガチャー
松田均は数年間クローゼットの奥にしまいっぱなしだったポールスミスのジャケットを引っ張り出して袖を通した。そして、まだこの服が着られる体形を維持できていたことに安堵をし、最近サボりがちではあったがそれなりに効果を得られていた腹筋ローラーに感謝をした。
ずっとジャケットを着るような機会とは無縁であった松田だが、今日は友人の夏目美沙からの誘いで、彼女の親友である落合奈々美のライブバーでの初演奏に祝福も兼ねて聴きに行くことになったのだ。電話口で、美沙は強い口調で「来なかったらもう絶交」と言い放った。
待ち合わせの東京駅に向かう途中、松田はちょっとした用事を済ませるために職場に寄った。職場では同期の浅野さんがひとりでテキパキと忙しなく働いていた。白の薄手のシャツに髪を後ろに束ねたその姿は洒落たイタリア料理店のホール係を思わせ、端正で華麗な印象を醸し出していた。彼女は剣道をやっていたからか姿勢がよく、均整のとれた体形と相まってその所作の見目麗しさは見る者の心を惹きつける。陳腐な言い方をすれば粋でいなせな美女であった。松田が彼女の美しさに見とれていると、彼女が気がつき、予想外で現れた彼に声をかけた。「あれ、どうしました」
職場での用事を済ました松田は、なんとなしにショッピングモールのレコード店に寄った。久しぶりに足を踏み入れたレコード店で彼は洋楽のコーナーを探し、それが店の隅に追いやられ、しかもとても小さい規模に縮小されているのに驚いた。今では洋楽はCDで聴かれなくなっているとは知っていたが、実際に目にし実感すると受ける印象は違った。彼はオススメのコーナーでアヴァランチーズの新譜が出ていたことを知った。そしてこの手の情報に疎くなってしまったと改めて思う。
待ち合わせ場所である東京駅構内のカフェに入ると、美沙はすでに来ていた。テーブル上にはフルーツジュースのようなドリンクがあり、熱心にスマホを見ている。黒を基調としたシックなドレスを着ていて、たしか27か28だったはずだがそれよりも年上に見える。松田は彼女のフォーマルな装いにしまったと思う。ランチにドレスコードがあるような店を期待していたのかもしれないと。こっちはリーバイスのデニムパンツにナイキのスニーカーだ。己の気配りのなさを恨めしく思いながら彼はテーブルに歩を進める。
「ご無沙汰してます」そういいながら松田がテーブルにつくと、美沙はスマホを置き満面の笑みを浮かべた。
「ひさしぶり、元気にしてた」
「まあまあかな。最近よく足がつるけど。君は変わりなくしてた」
「うん。元気だし変わりないよ。もう、なんで誘っても会ってくれないの」
「土日は忙しいんだ」松田は嘘をついた。
「私だって忙しいよ。最近なにやってるの。アルトは吹いてる」
「もうずいぶん吹いていないな。しまいっぱなしにしてたらフェルトは虫に喰われて穴が開いてしまったし、リガチャーは割れて壊れてしまった」
「ハリソンだったっけ、あれ高かったんでしょ。壊れちゃったんだ、もったいない」
「もったいないもなにも、もう吹いていないからね。最近か、しいて言えば文章を書いてるかな」
「ふうん、どんなの書いてるの」
「箸にも棒にも掛からぬような駄文を書き連ねているだけさ。ところで君の方はどうなの、彼氏とか」
「まあ、ぼちぼちかな」美沙は言葉を濁した。松田は思う、こんなに容姿端麗で頭がいい女の子だ、しかもピアノもそこそこ巧いときている、世の男どもが放っておくわけはないな、と。結婚式の披露宴で演奏を依頼されるのも近いかなとも考える。楽器のメンテを考えておいた方がいいかな。そして、この子を手に入れ、その後の人生を共に過ごすことになる幸運な男が現れるという事実にすこし悋気を覚える。美沙の小ぶりだが形のよい乳房の柔らかな感触を思い出しそうになり、とっさに打ち払った。
松田が美沙と出会ったのは知人の結婚式の披露宴だった。彼は披露宴で行われるキャンドルサービスでのBGM演奏を頼まれた。親類や友人、知人は結婚式を行うことになると決まって松田に演奏を頼み、彼は快く引き受けた。
その式でも松田は数曲のスタンダードナンバーやオリジナル曲をソロで演奏し、依頼を果たした。式が終わったあと、当時まだ学生だった美沙が松田に話しかけた。そして音楽の話題で盛り上がったふたりは互いの連絡先を交換することとなる。
美沙と落合奈々美は音大の同級生だった。ふたりともピアノ科で、気が合うところがあり仲が良かった。だがふたりの間には演奏技術の面で決定的な差があった。奈々美は音大の数いる学生のなかでも稀有な本物であった。のちに美沙は松田に語った。「これだけ差を見せつけられると悔しいという気持ちさえ起こらないの」
美沙は奈々美を松田に紹介した。奈々美は松田に相談のような話をした。
「私はピアノを弾いて生きていきたいんです。ピアノなしの人生なんて考えられません。それに人に教えて終わるのも嫌。自分の演奏を聴いてもらって生きていきたいんです」
「夏目さんから聞いているよ、あなたの演奏は素晴らしいって。問題なくピアニストとしてやっていけるんじゃないの」
「ダメなんです。それは自分が一番わかっています。クラシックの世界はそれほど甘くはないって。私はこれまで、真剣にピアノで生きていこうと決心するその時まで、自分の時間のすべてを練習に費やすことが出来ませんでした。それが今になって重く圧し掛かってきていることに気がついてしまったんです。それで私はクラシックと同じくらい好きになったジャズピアノを弾いていきたいと考えたんです。でも誤解して欲しくないのは、決してジャズがクラシックより容易い道だと思っての選択ではないと」
「言いたいことは分ります。クラシックとジャズでは求められる努力の方向性が違うということだと。でも、ジャズはクラシックよりパーソナリティが求められるというか、天性の資質が重要視される面があるから、ある意味ではより難しいかもしれませんよ」
「そこなんです。私も私なりにジャズを学んで弾いているんですけれど、なんだか違うんです。でも、どこがおかしいのか、何が足りないのか自分では分からなくって」
そこで後日、松田は奈々美の演奏を聴く場を設けた。まずはクラシックの定番曲を披露してもらった。ショパンやリストなどの有名曲だ。松田は奈々美の演奏に圧倒された。一流のピアニストの演奏とブラインドテストをされたとしても彼には判別をつけられる自信はなかった。これだけの技量をもってしても認められることがないクラシックの世界の奥深さに圧倒された。同席していた美沙が『どう、凄いでしょ』と言わんばかりに目配せをした。
続いてジャズのスタンダードナンバーをソロで弾いてもらった。たしかに巧かったが、どこかつまらなく感じる。俗な言い方をすればグルーブ感がないというか、テキストをなぞっているような演奏に聴こえる。そこで松田は自分も楽器を持ってデュオで演奏をしてみた。やはり面白味がなく、こちらの演奏に対する反応も予想どおりで機械を相手にしているように感じた。何曲か演奏をしたのち松田は率直な感想を告げた。いささか辛辣かもしれないと思いつつ、あえてオブラートに包むことなく思うところをそのまま伝えた。奈々美はすこし俯いて、黙って彼の言葉を聴いていた。
カフェを出た松田と美沙は、まだかなりある時間をどこでつぶそうという話になった。ランチもまだとっていない。すると美沙が皇居に行ってみたいというのでふたりは大手町方面に向かった。
土曜日の大手町は人の気配も少なく静かだった。空は抜けるような青空で、少し冷たいビル風も心地よい。ふたりはレストランを探すために幸行通りを外れビルの合間を縫うように歩きながら話を続けた。
「そういえば最近へんな感じがするんだ」信号待ちをしながら松田がいった。「むかし一緒にバンドをやっていた福田、まえに話したことがあるから知ってるよね。あいつが一発当てた例の曲がラジオでやたらとかかっていたり、師匠のアルバムがYouTubeのオススメに出てきたりするんだ」
「どちらもヒットしたから別におかしくないんじゃないの。だれでも知ってるような曲だもん」
「そうだとしても今まではそんな感じはなかったんだよなあ。ここ最近になってからだよ」
「均くんの音楽に対する欲求が膨らんで、情報の刺激に対して敏感になっているんじゃない」
美沙は笑いながらいった。
「そうかなあ」
信号が青になり、ふたりは再び歩き出す。
ビルとビルに挟まれた空間が遊歩道のように演出されたところでビストロがオープンテラスをやっていた。
「お昼ここで食べない」美沙が提案した。
「ここは日も当たってないし、ビル風も冷たいよ。寒くないか」
「大丈夫だって」
「僕は君のようにコートを着てないんだよ。このジャケットだけだよ」
「私だって席に着いたらコートを脱ぐよ。それともなに、年寄りには冷たい風は耐えられないって」
「しょうがないなあ。言い出したら聞かないのは相変わらずなんだから」
ふたりは席に着き料理を頼んだ。ワインを飲んだふたりは身体が温まりビル風も気にならなくなった。
ふたりがバーに着いたのは開演の少し前だった。店はほぼ満員で、なんとか席に着くことができた。
ステージに上がった奈々美は衣装とメイクのせいか松田の記憶に残っている彼女の印象とはがらっと違って見えた。どこか妖艶にすら感じる。以前会ったときの素朴な印象はどこにも残っていないように思えた。
そして演奏が始まった。それはとても素晴らしい内容だった。持ち味であった正確で繊細な音色に心地よいゆらぎのようなものが加えられ聴衆の心の琴線に触れた。そして時折情熱的な激しいパッセージを響かせそのダイナミクスに引き込まれていく。ドラムやベースとの相性もよく、お互いの信頼関係のようなものも感じさせられる。あっという間に演奏時間が過ぎていった。
ステージが終わると、奈々美はメンバーに松田と美沙を紹介した。
「私の先生なの」と松田を指していった。
「そんな先生だなんて、君に教えたことなんていちどもないよ」松田はいう。
「それじゃ小言おじさん」笑っていう。
「そっちの方が近いかな」
皆が笑った。
ドラムとベースは先に帰り、松田と美沙と奈々美の三人は客席でウイスキーを舐めながら話に興じた。
「今日はありがとう。来てくれてうれしい」奈々美がいう。
「こちらこそ、いい演奏を聴けてうれしいよ。"Stablemates" が特によかった。それにおめでとう。メンバーにも恵まれたみたいだね」
「ありがとう。ねえ、ふたりは演奏続けてるの」
「ううん、忙しくて全然弾く時間ないの。均くんも吹いていないんだって」
「へえ、そうなんだ。なにかやってるの」
「文章書いているんだって。ね」
「そうなの。こんど読ませてよ」
「んー、恥ずかしいからやだ」
「けち」美沙と奈々美は同意するように頷き合う。
「あ、そうだ」松田がいう。「ピアノの正式な練習を始めたんだ。バイエル」
「えっ」と美沙と奈々美。
「これまで我流で弾いてたからね。思い立ってバイエルの教本を買って始めてみたんだ。これがなかなか難しくってさ、やっと最近終わった」
「この人、バイエルも弾けなかったのに音大生に指導してたんだ」呆れたように美沙。
「指導をした覚えはないけど。でも映画監督が自身は演技の才能を持っていなくても成立するのと同じだよ」
「誰しもがクリント・イーストウッドである必要はない、ってこと」と奈々美。
「そうそう。僕はヒッチコックタイプなんだ」
三人で笑った。
閉店時間の少し前に松田と美沙は店を出た。美沙がいう。
「ねえ、このあともう一軒寄って飲んでいかない。コロナの規制も緩くなったんでしょ」
「遅くなっちゃうよ」
「私は平気、遅くなったって。明日は日曜だし」
「残念だけど、明日は仕事で早いんだ」松田はまた嘘をついた。
松田はタクシーを捕まえるとそれに美沙を乗せた。そして走り去るテールランプが小さくなって見えなくなるまで歩道で見送った。それが見えなくなると地下鉄の駅へと歩き始めた。