39.気が狂いし六時の番人
ナイトメアの世界の空は、見た目以上に歪だった。
上に跳んでも下に跳んでも、一度でも別の地面に足を付けるとそこが地上になる不思議な世界。
てっきり最初にいた場所がちゃんとした足場だと思っていたけど、赤い月が絶対に空になるようになっているみたい。
しかも月へ近付こうにも気が付いたら目の前にあったのが後ろに行くし、もう何度も空に跳んだと思ったら地面に落ちたっていう感覚を味わっている。
方向感覚も訳が分からなくなってきたし、ナイトメアの嫌な性格がはっきり伝わってくる。
「どうしよう。途中で邪魔されているから、たどり着けないのかな」
今は適度に跳んで宙に浮いたまま、変わらず笑っている月を眺めることしかできない。
もしナイトメアが邪魔をしているのなら、わたしには無理矢理通るしか思い付かない。
一方で足場を走るウサギたちはわたしには目もくれず、一瞬青く光った方向へと進んでいる。
おそらくアリスさんのせいなんだろうけど、大勢移動している光景は虫の大群を思い出して寒気がする。
「もう一回、やってみるしかないね」
あの月にたどり着くまで、何度でも。
前を向いて挑んでみよう。
そう意気込んで足に力をいれようとしたら、聞き慣れた声が遠くの迷路から聞こえてきた。
「……メアっ、メアっ、メアぁぁぁぁぁあああああ!」
「メア!? 何で……!」
浮いたまま逃げ惑うメアの後ろには、ウサギではない別の何かが這いずり追い回している。
シルクハットをかぶった、黄色とも銀色とも見える鈍い色の塊。
硬そうなのに、柔らかく動き人に近い不定形で動いている。
コウモリの翼に似た長い剣と短い剣を持ってはいるけど、メアに追い付いてすらいないのに振っている。
アレもナイトメアの仕業だろうか。
とにかくメアを助けないといけないので、空中で体の向きを変えて、宙を蹴る。
がむしゃらに剣を振っているところへ殴ってみると、見た目通りに硬くモルフェスの桃色の光で弾き飛ばしても、あまり遠くまでは飛ばなかった。
一応金属で出来てはいるようで、殴った右手が痺れて痛い。
「いったぁぁ……」
「ナデカ、本当にナデカメアか?」
「うん、わたしだよ。ほら早くこっちへ」
痛む右手を振って痛みを和らげる。
恐る恐るわたしであるかを聞いてくるメアに左手を差し出して、涙を我慢して笑いかける。
「こ、怖かったメアあああああ、ナデカぁぁぁあああああ!」
左手に飛び付くメアは桃色の光を漏らしながら、私の体へと溶けていく。
込み上げてくる熱い力を感じ、やっと一人で無くなったことを実感する。
『ああでもこれはこれで、ナデカのやることが怖いメアぁぁ……』
「それは何て言うか、ごめんね」
逃げているときは分かるけど、わたしと一緒になっても怖いと言われるのはちょっと納得がいかない。
いつもメアへのお詫びを考えはしているんだけど、メアの好きな物が分からないので、落ち着いたら聞いてみよう。
『オオ。アシキユメニエガクハ、チイサキホシ』
『メア……?』
「ひっ……!」
ゆらりと起き上がる塊は、人の形を無視した動きでこちらに頭を向けてくる。
上半身は横向きで寝て、五回以上首をねじり回した頭を地面に突き刺した短剣で支えている。
下半身は無造作にジタバタと暴れ、空いた右手は宙に掲げて長い剣をジャグリングしている。
変に人の形に近いせいで、そういった変質者に見えて恐怖感が煽られる。
どこを見ても理解できない行動で、こんなことで他のウサギと違うとは思いたくなかった。
『ナンジハイトシキ、キボウナリヤ?』
『何言ってるメアか、こいつは』
「……ええー」
細やかに全身を震わせている塊は、両手に剣を持ち直すとどちらも地面へ突き刺して逆立ちになる。
柄を持つ両手は震えて、暴れている両足を見ているとバランスが取れているのが不思議な位だ。
『オチユクソラニナガレユク』
何をやってもかぶっている帽子は落ちない。
両手を剣から離して、地面へ頭から落ちても形は崩れることなくそのままだ。
『カミノメグミタルホウキボシ』
短剣を地面に、長剣を足先へと向ける。
さながら時計の黒針。
いつかの六時を報せるように、塊は振動する。
『オオ。アシキユメニエガク、チイサキホシヨ』
彼の時は進まない。
空を目指しても、地に堕ちても。
変わらず真っ直ぐ六時を指し示すから。
彼がいるから――
『汝は愛しき希望なりや?』
一瞬にして脇腹に剣を叩き込まれる。
奇妙な言動からの不意打ちで、わたしの体は軽々と吹き飛ばされる。
後ろに迫る壁をなんとか足場にして、蹴りつける。
お腹は痛むけど斬れてはいないし、バットで殴られたような感覚だ。
さっきは不意を突かれただけで、彼の動き自体は早くない。
もう一撃と拳を振るうと、両手の剣で六時の体勢になる彼は微動だにせず、桃色の光だけが飛び散る。
「かたっ……何これ!」
『ナデカ、こんな奴、相手にしないで逃げるメア』
「逃げるって言っても」
手を押さえて痛みに耐えているところへ、今度はお腹に短剣が突き刺さる。
皮膚は破けていないし肉も切れていないけど、無理矢理押し込まれていて、とても痛い。
その勢いのまま突き飛ばされて、また同じく壁にぶつかりそうになるのを、今度は足に力をこめて上に跳ぶ。
メアと一緒になったことで速度が上がったのか、体勢を整える前に反対側の地面に到達して頭をぶつける。
「――……っんー!」
『何やってるメア、早く逃げるメア』
「わ、分かってる!」
もう一度別の方向へと跳ぶ。
ふと後ろを振り向くと、両方の剣の柄尻を合わせた物を手にして、彼が全身を震わせながら跳ねてきていた。
「うそっ、追い付くの!?」
『とにかく遠くへ行くメア、ナデカ』
全方位にある迷宮を足場に、わたしは赤い線を引くピンボールとして彼から逃げていく。
それでも後ろを振り向いたら彼の姿は見えたままで、距離は縮まらないけど離せもしない。
終わらない鬼ごっこ。
ナイトメアの言っていた鬼ごっこって、きっとこれの事だろう。
ウサギでは追い付けない音速に近い早さになっても、彼はずっとわたしを捉え続ける。
『切りが無いメア。何かいい方法はあるメアか?』
「無い。だから真っ向勝負で行く」
『知ってたメア。それでどう正面突破するか、教えて欲しいメア』
靴に作られた蝶の羽根へ花びらが集まる。
足元には波紋が浮かび、しゃがむ体勢になってタイミングを窺う。
狙うのは赤い月と彼が重なった時。
わたしの全速力で突撃して、月ごと彼を倒そう。
彼はきっと、ウサギたちとは違って人間だったのかもしれない。
元人間のドッペルは力が強いから、ナイトメアに操られても別の形になったんだと思う。
自然発生でも、元人間でも。
生きている事には違いは無いから、思うことは変わらない。
傷つけて、ごめんなさい。
「あの月を壊すよ」
『ちょーっと待つメア。月を壊すって――』
揺れる波紋を蹴ると、メアの声が途切れる。
遅れて衝撃波が周囲に渡り、呼吸する間もなく彼へと近付く。
この早さじゃ足りないと、彼の触れるか触れないかの距離でもう一度宙を蹴り、握りしめた右手を突き出す。
硬い金属の体にはヒビが入り、桃色の粒子が漏れ出ている。
彼の背中から見える赤い月はすぐそこで、このまま無事にたどり着けば、わたしもアリスさんもナイトメアの世界から解放される。
『ナデカ、そいつか離れるメア!』
強い想いで伝わってきたメアの声。
弾かれるように彼を突き飛ばすと、青い光が彼の胴体をバラバラにした。
『今回のイカれ野郎は良かったんだけどなー、相手が悪いかそうかー』
赤い月から聞こえる敵の声。
迷宮の天地に落ちていく彼の体の先に見えたのは、赤い三日月を浮かべる猫の仮面。
銃ではなく大剣を片手に持ったアリスさんが、藍色の光をまとって月に佇んでいた。




