37.悪夢の迷宮
見上げた空には薄くかかった雲に、裂けた口から赤黒い粘液を垂れ流す生物的な真紅の三日月。
焦点の合う事が無い瞳孔は見開き続けて、笑ったり泣いたり怒ったり、どれもこれも落ち着かない。
足場も建物も、石造りにレンガとコンクリートでどれもひび割れて蔦が覆い茂っている。
それが水平にだけだったらどれだけ良かった事か。
正面にも、空中にも、そして月の先にも。
密閉された空間の中に作られた立体迷路が、どこまでも続いている。
赤い月に暗色の空以外は、どれも色合いがまとまらず、暗い色の中に突然明るい色が混ざっているのがほとんど。
赤も青も緑も黄色も、どんな色でも扱いが雑でだからこそ気持ち悪い。
何を使っても結局は黒になるのだから、鮮やかな色に意味は無いと言っているみたいで。
「何のつもり、ナイトメア」
『困るんだよねーそんな簡単に仲良しこよしをされるとさー。感動の再開だった? それまたおめでとうー最悪だよ。だからだからさー。アリスの想いが揺らがない様に、最低なパーティーを開こうと思ったんだ』
「手短にしてくれる? 私は撫花と話さないといけないんだけど」
この世界がナイトメアの世界だというのは、来た時から分かってはいた。
でも、彼女がアリスさん?
だとしたらお姉ちゃんがアリスさんで、でもドッペルの可能性も有って、ああもう訳分かんない。
『ここにはさー、白昼夢の応用でテキトーに招待状送ったから。誰がどれ位来てるかは分かんないけど、たーぶーんー悪夢が一杯いるはず』
「白昼夢の応用って、何をやったの?」
『おお!? ナデカそこ気になるー? 気になるよねそうだよねー。実はねー』
もうナイトメアの声が姿も無く聞こえてくるのは、気にならなくなってきた。
声とか言い方とかは慣れそうにはないけれど、我慢しないと先に進めない。
アリスさん自身のことは落ち着いた後にゆっくり聞こう。
まずはナイトメアを何とかしないと。
『二人の波長とかそんな感じのを元に、白昼夢を見せているから、もしかしたら悪夢以外もいるかもねー』
「やっぱり、わたしはあなたのことは嫌いだ」
「……そうね。今回はふざけ過ぎよ、ナイトメア」
姿が見当たらないから、空に浮かぶ月に向かって睨み付ける。
アリスさんも苛立っているのか、感情の読めなかった目に色が付く。
姿は現実と同じで不安になる程細く弱々しい印象なのに、自分のポベトルであるナイトメアに向ける冷たい感情には、確かに覚えがあった。
「どうして貴方がアイツと同じ事をしているの」
『エンプーサ=モロスの白昼夢とは似て非なるものだよ、アリス。私のは強制的にここに連れてくるだけ。アイツのは、強制的に人間を悪夢にする。ねぇ、違うでしょう』
「同じ事でしょうが。撫花や関係の無い人たちを無理矢理ここへ連れてきて」
『来た後は知らないさ。悪夢に食われようがオネロスに助けられようが。自分の運の悪さに感謝すればいいと思うよ』
どこまでもふざけている。
好き勝手巻き込んで、その後はどうなろうと知らないなんて。
今まではアリスさんと一緒に行動していたから、敵でも味方でもないって思っていた。
だけどもう、わたしの中ではナイトメアは敵だと確信する。
『さぁここまで来なよ二人共。楽しい愉しい鬼ごっこだ。ニュフフフ、ニャハハハハハハハ』
笑い声に重なって、月明りに影ができる。
病的に蝋燭じみた体に、赤い涙を流す狂った目。
わたしたちと同じぐらいの大きさで、ウサギの形をしたナニカ。
それは頭の半分まで口が裂けて、鋭い牙を光らせる。
何匹も何匹も現れて、半ば落ちた状態で襲いかかってくる。
「――っ変身!」
メアがいないから不安はあるけれど、間髪入れずに変身する。
今までの相手とは違い、何の工夫も無く向かってくるウサギには生物的な意思が感じられない。
この後はこうしようとか、こうすればいいはずとか。
生きているのなら当然の思考が無く、自然発生のドッペルでも感じる動物的なものない。
これは避けなくてもいいのでは、と軽い気持ちが浮かんでくる。
見た目は怖いけれど、強そうには思えない。
「撫花、こっち」
「ま、待ってくださいアリスさん」
手を引っ張られてわたしは我に返る。
わたしは慌てて変身をしたのにアリスさんは変身をしておらず、ウサギたちからどんどん距離を離していく。
UFOキャッチャーの景品みたいに山となって落ちて潰れるウサギたちは、気持ち悪い悲鳴を上げてはお互いに絡まって動けなくなる。
必死に耳を動かして目を見開き、体を痙攣させて大口を開いては鳴いているウサギたち。
「見ちゃ駄目」
迷路の曲がり角まで連れてこられたわたしは、アリスさんの胸元に顔を埋められて何も見えなくされる。
聞こえてくるのはビチャビチャと粘度の高い絵の具が撒かれる音。
アリスさんは善意で見えないようにしてくれているのは分かっているけれど、音だけでも想像が付いてしまう。
むしろ音だけ聞こえてくるので、見ているよりも怖い気もする。
「あの……アリスさん、あれは……」
「ナイトメアはよく三月ウサギって言ってる。この世界に来た自然発生の悪夢は、ああいう姿に無理矢理変えられるの」
液体の散る音が止まない内に、次のウサギたちが現れる。
この世界に慣れているのか迷いのない動きでアリスさんは走り始め、わたしはそれを追っていく。
変身をしなくても現実離れした動きは、今の病弱な姿からは想像もできない迷路の進み方をする。
加減をして走っているとはいえ、アリスさんは障害物や壁を軽々超えていくので追い付くのが精いっぱい。
後ろを振り向くとウサギたちは頼りない足取りで走り、派手に転んだ矢先に絵の具へと変貌していく。
転んでいる姿は少しかわいいと思ったのに、一瞬にして血の気が引く光景を見せられ後ろを見ることを止める。
「撫花、空飛べる?」
「えっ、何ですかいきなり。空ですか? い、一応跳べます!」
「じゃあ、お願い」
小さな広場にでたアリスさんは、息を整える暇も無く質問をしてくる。
お願いというのは、アリスさんを抱えて飛んで欲しいという事だろうか。
スカイと会った時に覚えたあれを使えば確かに跳べる。
跳べるけれども、人を抱えたまま跳んだことなんて無いし、メアがいないからうまくできるかも分からない。
お願いと言われても、素直にはいと言い切れない。
「勘違いしないで、撫花。貴女だけ飛べればそれでいいの」
「わたしだけ……?」
「そう。あの月を壊す事が、この世界を抜け出す条件。ナイトメアの作ったこの迷路なんて、意味は無い」
当然と言えば当然か。
ナイトメアのパートナーであるアリスさんが、ナイトメアの言っていた鬼ごっこのルールを知らない訳が無い。
だから最低限の手順で攻略を進めることができる。
「アリスさんは、どうするんですか」
「……撫花」
少し下へ逸れた瞳が閉じられる。
一呼吸おいて何も言わない背中を、ゆっくりと向けられる。
追い付いてきたウサギたちが壁や建物から姿を現す。
赤い目をらんらんと光らせて、だらしなく開けられた口からは涎が零れている。
名前を呼んだだけでそれ以上は何も言ってくれない。
それだけ知っていれば良いのか。
ううん、違うよね。
それ以上は言えないし、言いたくない。
――そういうことで良いのかな。
「何も言ってくれないのなら、お願いだけは聞いてください」
わたしよりも線が細く、無言を貫く冷たい背中に想いを込めて投げかける。
ここまで来てもどういうことか分からない、わたしとアリスさんの関係。
どうして姿が似ているのか、本当に姉なのか、もしかしたらアリスさんはドッペルなのか。
分からないことだらけで、聞きたいことが多すぎて、どれが一番聞きたい事かは自分でも分からない。
だからわたしなりに彼女にお願いをしよう。
「これが終わったら、アリスさんの知っている事。教えてくれますか?」
「……ここに来た時に言ったはずよ」
顔は決して見せてくれない。
でも、どんなに短くても言葉を続けて応えてくれる。
「私は撫花に話があるって」
「――はい!」
冷たい物言いだったけど、応えてくれた彼女の言葉を胸に足に力を籠める。
光は弱いけれど足に蝶の羽が作り出される。
お互いに背を向けたわたしたち。
蝶を誘う花は月へと舞うために風に乗り、残された花は集うウサギを炎へくべる。
悪夢の迷宮に咲く二輪の花は、それぞれの想いを月下に散らす。




