22.愚者の撫子
いつもより帰る時間が遅くなり、外では日が沈みかけている。
空はすでに暗くなり、町の隙間をぬって濃い茜色が漏れている。
眠いのに、眠れないから授業とかでもずっとぼぉっとしたまま。
家に帰ってベッドで横になっても、意識が落ち着かず目は開いたままだ。
「ナデちゃん、ちょっと良い?」
「……うん。大丈夫だよ」
扉の向こうからお義母さんの声が聞こえる。
声を出すことすら億劫になっていたけれど、どうせ起きているのなら何かをしたい。
扉を開けると、そこには大きめの包みを持ったお義母さんが立っていた。
正方形に近い形で揃えられ、そこからは少し食べ物の匂いがした。
「体調が悪い所にごめんね。この中身お父さんが作ってくれたお弁当が入っているの。これを明日見さんのお宅に届けて欲しいの」
「優月さんの?」
「そう。彼女も調子が悪いみたいで、明日見さんのお母さんから頼まれたの。無理なら大丈夫よ」
「……無理じゃない。行ってくるね」
ちょっと重たいお弁当箱を受け取って、自室がある二階から玄関を兼ねているお店の扉へ向かう。
お店自体には人はそこまでいなかった。
空席の方が多くて、忙しいという訳はなさそうだった。
わざわざわたしに頼むのはなぜだろうと思ったけれど、正式な接客はお義母さんしかいないので、もしもの時はいなくてはならない。
だからわたしに頼んだんだと納得して、小さく行ってきますとキッチンにいるお義父さんへ呟く。
家自体は近いので、とぼとぼ歩いても五分もかからず優月さんの家にたどり着いた。
何度見ても立派な家で、本人は否定していたけどわたしからすればお金持ちだ。
新品同然のインターホンを押して、返事が返ってくるのを待つ。
いつもなら優月さんが少し声のトーンを上げて出てくるのだけれど、今日は別の人だった。
『はい、どなたでしょうか』
「定食屋"やえざき"です。ご注文のお弁当をお届けに来ました」
『あっ、今取りに行きますから待っていてください』
優月さんとは少し違う、凛とした女性の声。
たぶん優月さんのお母さんだろう。
そんなことを考えていると玄関が開き、部屋着なのだろう露出の多い服装で女性がこちらに走ってくる。
髪を短くした優月さんをそのまま大人にしたような人で、左の口元にあるほくろについ視線が行ってしまう。
「貴女が撫花ちゃんね。娘から聞いているわ。さぁ遠慮なく入って入って」
「ふぇ……あの、まっ待ってくだ――」
わたしの名前を確認されたかと思うと、後ろから肩を押されて家の中まで誘導されてしまう。
訳が分からない内にリビングにまで通されて、ここに座ってと言われるがまま椅子に座ったら、目の前にお茶を出されてしまう。
お客として来たのではなくて、配達で来たはずなのに何でこうなるのだろう。
「ごめんなさい、元気が無いのに呼んでしまって。貴女のお母さんに無理を言って頼んだことだから、責めるなら私にして頂戴」
「いえ、全然怒ったりしていませんから。でも、なんでわたしを呼んだんですか?」
「ここ最近娘から名前を聞いたのが貴女だったから、友達なら何かあの子の悩みを知っているのかなって」
「……そう、ですか」
悩みどころじゃない。
ナイトメアに、アリスさんに。
想像もできないことをされて、心を壊されて。
それが事実で、でもそれを誰かに言う事はできない。
嘘は、言えない。
わたしが黙ったままうつむいていると、両頬に手を当てられて、上を向かせられたと思ったら顔を覗き込まれる。
「まぁ、何か思うのなら部屋にいるあの子に声をかけて欲しいっていうだけなんだけどね」
「……はい」
わたしの短い返事も気にせず、わたしの顔を見続ける女性に疑問を持つ。
なんでこの人はいつまでもわたしの顔を見ているのだろう。
「私、アイドルをプロデュースしている明日見有輝です」
「は、はい」
いきなり何なんだろう。
名前を知れたのは良いんだけど、さっきまでの暗い雰囲気から何でこうなるの。
「撫花ちゃん。アイドルになってみない?」
「あー……えっと……」
「今は隈とかがあって気になるけど、素材は良いし町内でも人気だって聞いたわよ。丁度うちに大人しめの子が欲しかったし、何なら優月と一緒にユニットを組むのもありね。優月も身内の前以外だと結構大人しいし、控え目であまり主張をしない子がアイドルユニット結成とか、特定の層を狙えそうよ」
どうしよう。
寝不足以外の疲労が出てきた。
アイドル関連の仕事をやっているのは聞いていたけど、この人趣味の話をすると長くなる人だ。
しかもわたしと優月さんが二人でアイドルをやる流れになっているし、前に優月さんから聞いた話は本当だったんだ。
「あの――」
「ああ、ごめんなさい! かわいい子を見るとつい癖で勧誘しちゃうのよ」
咳ばらいをして落ち着きを取り戻す有輝さん。
謝罪と共に、二階にある優月さんの部屋の場所を教えられる。
一言お願いと言われ、自分の気持ちも整わないまま部屋の前まで行ってしまう。
廊下の明かりも消されていて、扉の隙間からも光が漏れていないので、辺り一面薄暗い。
扉にかけられたプレートには、三日月とゆづきの文字が黄色で描かれていて、雲に隠れた月みたいに影が落ちている気がする。
「優月さん、いますか?」
返事は期待しない。
扉が開くなんてことも、ありえないと思っている。
だから、壁に寄りかかって膝を丸める。
昔のわたしのように、光の無い暗い空間で泣きもせずただ丸くなる。
「わたし、あれからずっと考えていたの。どうすれば彼からメアとスカイを取り戻せるんだろうって。足りない頭で考えて考えて、思いついた方法はどれも現実的じゃなかった」
彼を倒す?
それが簡単にできるのなら、あの時点で変身をして殴りかかっている。
なら夢の世界でわたしたち以外の手を借りる?
そんな都合よくオネロスと会える訳がないし、何度もドッペルと会って手伝ってくれる人を探す方がまだ可能性はある。
ううん、それこそ都合が良すぎる。
いっそのこと美友ちゃんとはるちゃんにお願いしてみる。
あの二人なら頷いてくれるし、彼を倒せなくてもメアたちを助けられる。
絶対にダメ。
大切な人をあれに巻き込みたくない、そんなわがままで自分勝手な想いが強く考えを否定する。
結局、残ったのはわたしと優月さんにウートさんの三人で、彼の下へ向かう事だけ。
作戦だとか方法だとか、そんなことを言える話じゃない。
「ダメダメだよね、わたし。そうしたいって思うだけで、何もできず他人任せ。自分一人じゃ何もできない」
美友ちゃんとはるちゃんには、お願いできない。
ウートさんには今は会いに行きたくても、体が言う事を聞いてくれない。
優月さんには、そんなことを頼める時じゃない。
そして、メアとスカイはあのドッペルに掴まっている。
お義父さんたちにも、美友ちゃんたちと同様に相談できることじゃない。
わたしだけ。
何もできず諦められないだけのわたしが、たった一人。
「……ねぇ。一つだけで良いから、答えて」
あの日から、これだけは知りたかった。
まだ可能性があるのなら、どうか声を聞かせてほしい。
「優月さん、もうオネロスは嫌?」
何分、何十分。
どれだけ待ったのかは分からないけれど、返って来たのは星の見えない夜空と同じ、静かな黒。
「そっか。わたしは、わたしが嫌だな」
ポケットに忍ばせていた固い感触を手に取る。
昔の癖が戻った訳じゃない。
でも自分の部屋に入ると、自然とコレが目に入って持ってしまう。
皆から持つことを禁止にされた、わたしの象徴。
持ち出してきちゃったし、これからすることを考えると、ただ怒られるだけでは済まないだろう。
それでも今は、今だけはあの時と同じく自分が大嫌いだ。
「全部、わたし一人でできれば良いのに」
右手で持って、親指を押し出すと固い金属が連続して出る音がする。
今日は袖のない服だから、そのまま左腕を水平に前へ出す。
何もできない、役立たずの腕。
この手は花を撫でるように相手の手を取る手だと、お義父さんに言われたことがあるけれど、弱い手では触れるだけで握れない。
だから、傷ついたとしても構わない。
「――っぅ!」
手首辺りで、右手に持った金属を走らせる。
体が一瞬びくつき、通り抜けた痛みに声を上げそうになるけど、奥歯を噛みしめて押し殺す。
金属が通った後には赤い直線が入り、赤く暖かい液体が流れ出てくる。
思った以上に深かったのか、液体が多く出てきて他人の家だと言うのに腕から零れ落ちてしまう。
「撫花! 何やってるの!」
「……優月さん」
駆け足で開けられた扉からは、青ざめた顔で怒鳴り付けてくる優月さんが現れる。
わたしの左腕を見ると睨み付けてきて、右腕の道具を取り上げられる。
「カチカチって聞こえたと思ったら、撫花の我慢する声が聞こえて。そしたら案の定、カッターなんか使って! ここで大人しくしてなさい! 何もしないこと、良い!?」
「は、はい」
わたしが持っていたカッターの刃を仕舞うと、優月さんは一階へ駆け降りていく。
手持ちぶさたになった右手で、左腕の液体を少しでも落とさないようにしていると、下から驚いた声と慌てる声が響いてくる。
ものの数分で戻ってきた優月さんに引っ張られて、わたしは洗面所にまで連れてこられた。
流れている液体を水で流し、タオルで傷口周りを優しく叩いて水気を取っていく。
赤く染まったタオルは気にせず、優月さんは来たときには置かれていた救急箱から消毒液を取り出す。
「染みるけど、自業自得なんだから我慢しなさい」
「つぅ……ん……」
優月さんの手を振りほどこうとしたけど、さらに消毒液をかけられて視界がにじむ。
慣れた手つきで包帯も巻かれて、止めに包帯の上から傷口を軽く叩かれる。
「いたっ……、さっきから何するの優月さん」
「人を励ましに来たと思ったら、いきなりリストカットし始める馬鹿へのお仕置きよ。ああもう、無駄に行動力のある自分嫌いがいると、落ち込む事すら出来ないのね私」
わたしに対してなのか、自分に対してなのか。
おそらくどっちにもため息を吐く優月さんは、今度はわたしの頬を両手で伸ばしてくる。
「まったく見習いたいくらいね、馬鹿の時の撫花は。正直甘く見ていたわ」
「馬鹿の時って……」
「ここまで自分を傷付けるのに躊躇わないの、羨ましいわ。私なんてここ数日は何もやる気が起きなかったのに」
「優月さんもしようと思ってたの?」
「皮肉よ、分かりなさい馬鹿」
さっきから名前じゃなくて馬鹿って呼ばれる。
頬も思いっきり伸ばされてから離されて、地味に痛い。
「本当に……馬鹿なんだから……!」
「……ごめんなさい」
それ以上は何も言えなかった。
大粒の涙を流して抱きついてくる優月さんにされるがまま、熱を持つ左腕をさする。




