20.猫の無い嗤いアイ -後編-
構えていた銃を降ろし、アリスさんは優月さんに向けて一歩一歩進んでいく。
どこかで見たことのある、情の無い歩み。
テンシさんと会った時と同じ、悪夢が迫る靴の音。
「――拘束!」
右手を振るってパンタスを使う優月さんは、もう一度アリスさんの束縛を試みる。
四方から伸びていく鎖は、アリスさんに触れた途端に青い炎に包まれて溶け落ちていく。
そして鎖を放つ黄色い炎は、青い炎に飲み込まれて暗色に変わり果てる。
怯むどころか技の口上すらせず無効化された優月さんは、顔をしかめて次に移る。
「防御、支援」
歩みを止めないアリスさんを挟む形で現れた閉じた扉が、黄色の炎を放ちながらアリスさんを押し潰す。
それでも鎖と何ら変わらず、重なった扉は溶け落ちる。
優月さんでは止められない。
彼女の足を引っ張るどころか、その手は力なく床に伏せられている。
『椅子も用意できない程、余裕ないみたいだねお姫様。これ前の方が強かったんじゃない?』
「うるさい! アンタなんかに何が分かる!」
『だってねぇー』
アリスさんの尻尾が揺れる。
脈絡もなく優月さんの眼前に現れたナイトメアの仮面は、斜め上に傾きながら目口の三日月をさらに歪ませる。
『前に出してた武器、一個も出してないじゃん。どうしたの? まさかとは思うけど、人を傷付けるのがそんなに怖い?』
声が、聞こえない。
陰を落とす優月さんは怒りを露にして、宙に浮いた仮面へ力を放つ。
空から落ちてきた一本のシンプルな針が仮面を貫く。
大きさは大人よりも高く、太さはたぶんわたしの腕ぐらいだと思う。
トランプをまき散らしながら割れた仮面は、最後まで笑っていた。
『おお怖い。やっぱりアレがちょっとは効いてるねぇ、アリス。あの子が自信満々に使ってきた技、全部片っ端から完封したの』
「……っさい」
『笑えたよあれは。使ってきた攻撃を全部アリスが君で試したものね。どう? あの感覚、まだ覚えてる?』
「うるさい!」
『――ClubNightmare』
ナイトメアの静かな囁きを最後に、わたしの視界が暗くなっていく。
まぶたが重い。
早く氷を解いて、優月さんの下へ――
『さぁ、愛しの花は閉じられた。ここから先は楽しい楽しい悪夢の時間』
笑う仮面に向けて、世界が埋め尽くされる程の鋏が作り出される。
カチカチと刃を鳴らし、黄金の炎を翼として飛翔する。
その身を切り刻むと群がる鋏たちは、しかしどれも暗色に染まる。
腐食しない金の鋏は、理不尽に冒され溶かされ食らわれる。
避ける価値などないと言わんばかりに、ひたすら進むアリスに優月は更なる力を行使する。
彼女の背後に現れる無人の交響楽団。
黄金で揃えられた楽器たちは黄金律の旋律を奏で、アリスの心に訴えかける。
何か一つでも思う事があるのなら、今すぐ背を向け立ち去れと。
世界に響き渡る音色は、無情にもたった一つの異音により掻き消される。
流麗に並べられた音程も、色彩豊かな音階も、銃声と言う雑音に殺されていく。
旋律は世界に何も及ぼさず、奏者はみな凶弾により散っていく。
黄金の旋律なんて聞くに堪えない。
歌い喚くなら嘆きであれと、アリスは黙々と進み続ける。
「いやっ……! こないでっ……! こっちに……」
優月の足元に雫が滴り落ちる。
顔は青ざめ、猫の悪夢が近寄るたびに後ろへ下がる足は震え、たった数歩でバランスを崩す。
声がかすれ、熱の下がる体で、心は唯一熱く動いている。
手も足も震え切り、力が入らないから体も碌に支えられない。
それでも動けと言ってくれる心を頼りに、優月は弱々しい力を暴れさせる。
飛び交う鋏に鎖、鎚に剣や槍。
果てはチェンソーなどが金の翼で空を駆けるも、等しく地へと還される。
赤子の抵抗にも劣る、ただ跳ねる虫と同義だと。
もはやアリスの手には銃すら握られてはいなかった。
『おいおいアリス。銃が一番手っ取り早いのに、何でしまっちゃったのさ』
「ナイトメア」
優月の恐怖なんて知ったことではないと、気楽にアリスへ話しかけるナイトメアに初めて反応が返ってくる。
優月が初めて聞いた、アリスの声。
それが例えどんな声だろうと、耳には何も残らない。
足元に広がっていく水の感覚も、どうでもいい。
胃から込み上げてくる違和感も、そろそろ我慢の限界だ。
お願いだから眠らせてと、嘲笑う仮面へ懇願する。
「私たちの目的、忘れたの?」
『ああ、成る程。――それもそうだね』
優月の首筋を暖かくザリザリしたものが舐め上げる。
声何て上等なものは出ない。
哭く事しかできない優月は、呼吸すら出来ずにつられて後ろを振り向いてしまう。
赤い三日月を浮かべる暗色の仮面が、血の舌で今度は頬を舐める。
優月の視界は白に近くなり、手で押さえる事も叶わず胃から込み上げてきた物を地面へ撒き散らす。
足の間からはどうしようもなく水が漏れ、混ざるアンモニア臭と酸味の臭いがこれらを更に呼び起こす。
『今度こそ、君には悪夢を見ないよう。最高の悪夢を見せて上げるよ』
「い…………や…………っ……………!」
迫るアリスの手に、音なのかすら怪しい声を上げる優月には、もう自分の心の音しか聞き取ることは出来なかった。
*
「……デカ! ナデカ!」
「メア?」
顔を揺すられる感覚に、わたしは起き上がる。
丁度頭に降って来たチェスの駒で、最後に見た光景を思い出す。
「……っ。優月さん!」
『ほらお姫様だよーナデカー。にゅふふ』
意識が整わない内に飛び出そうとしたところへ、ナイトメアの声が聞こえたかと思うと重たいものを放り込まれる。
それは全身赤黒い液体に包まれた優月さん。
元の姿に戻っており、着ている服は乱れてボロボロになっている。
もう元々の色なんて数えるくらいしか残っていなくて、青ざめた顔に涙でグシャグシャになった光の無い瞳。
口周りは液体まみれで、体はわたしに体重を預けてくるほど力が無い。
もう全てがどうでもいいと、絶望に満たされた瞳はわたしすら見ていない。
『パンタスは強くなっているけど、モルフェスは弱体したねー。最初武器を使わなかったのが良い証拠かなー。武器を取ることが怖くなった。今度もまたアレをやられるかもしれない、ってね。殺す気のない奴が殺し合いをするなよ』
冷たく言い放つナイトメアをわたしは睨み付ける。
変身は解けているけど、それでもわたしの想いを示す。
『起きたらソイツに言っておいてねナデカちゃん。他人に人を傷付ける責任を押し付けるのは楽しかったかなって。にゃははは』
「いい加減なこと言わないで! 優月さんは……優月さんは……!」
腕の中の優月さんを抱きしめて、虚勢を張る。
だけどわたしの言葉は最後まで言い切る前に、文字通り砂の中へと消えていく。
広大なチェス盤の間から砂があふれ出し、駒とトランプを降らせる雲は引き裂かれる。
時間をかけずに世界は夜の砂漠へと変わり果てた。
空に浮かぶのは陰鬱な雲ではなく、壊れた砂時計みたいに砂を零す欠けた月。
息が白くなるほど寒くなり、腕の中の優月さんのまぶたが閉じられる。
「優月さん? なんで、ちょっと起きてよ……!」
生きているとは思えないぐらい体が冷たくなっていく。
浅く呼吸はしているけど、肌を近付けないと分からない。
胸に耳を当てると、心臓は動いているのは聞こえてくる。
「――我、略奪せし者なり」
低く渋みを感じる、重い男性の声。
この寒さのせいか、体全体が重く感じて、意識もぼぉっとし始める。
砂を踏みしめる足音が、遠く聞こえたり近く聞こえたり。
とても眠いし、寒いのに体はあったかくなっていく。
「我は悪」
かすれる視界に映るのは、冬国の服を着た長身のお爺さん。
着ている服は黒と銀で彩られて、軍人さんが着ている服と言われても納得する。
そう思ったのは白髪とあごに生えた少しのヒゲ。
だけど言葉に乗っているそんな印象は鋭い黒目と、鍛えられた体に否定される。
「我は罪」
担いでいるのは西洋の葬式で使う棺桶で、軽々と持っている時点で普通じゃない。
そしてわたしの隣で平然と立っているアリスさんも、相当おかしいと思う。
寒くないの?
眠くないの?
怖くないの、あの人が。
「故に奮えよ信賞必罰。いざ尋常に死合おうか、"死神"よ」
アリスさんを死神と呼ぶ彼に反応したのか、背負われていた棺桶が、鈍い金属の砂に代わり彼を覆い始める。
彼をかたどった金属の砂は今度は液体に代わり、ある形へ彼の姿を変化させていく。
銀色の西洋の鎧。
「夜が来たぞ、眠りの刻だ」
もう眠れと、彼の呪いが重々しくのしかかる。
わたしたちの変身に近い、力の解放。
明ける朝は無いと銀月の鎧は、わたしたちに砂を撒いて目をつぶらせる。
彼はもしかしてオネロスで、あの棺桶がポベトルだったりするのだろうか。
『"冥幽夜会"のザント=アルターがこんな所にいるなんて、珍しい事もあるものだね』
淡い期待は簡単に否定される。
アリスさんがいくら悪夢らしいとは言え、彼女みたいな人たちはそういないのは当然だ。
そして、冥幽夜会?
ウートさんが言っていた、ドッペルをまとめる集団。
わたしたちの、最終目標。
「何。エンプーサ=モロスは当てにならんのでな。"鍵姫"と新米を片付けに来たのだが、貴様が先に殺っているとは思わなかったぞ」
意気揚々と喋る彼が言っているのは、優月さんとわたしのことだろうか。
そして誰かは分からなかったけど、名前らしきところでアリスさんから夜の砂漠よりも冷たいものを感じた。
『先越されて不満? 不満ついでに帰ってよ。お前の相手は疲れる』
「……そうさな。死神の気もアヤツに盗られてしまった。ならばこうしよう」
砂が舞い上がり、わたしの視界は閉ざされる。
目を閉じてしまい二度と開けられないと思ったけど、砂が治まる頃には眠気はそのままだけど開けることはできた。
彼の周囲には浮かんだ砂で捕らえられた、眠るメアとスカイ。
「メア! スカイ! このっ……」
「立つか。ならばこれを使え」
彼から放り投げられてわたしの足元に落ちたのは、白いリング。
意図が掴めず、おそるおそる手に取ると桃色の猫の意匠が入っていた。
メアにそっくりな猫の意匠のリングで、さらに訳が分からなくなる。
「何、これ」
「死神の代わりだ、我が同類よ。こやつらを返して欲しいのだろう? ならば全霊をかけて挑むがいい」
ようするにこれを使って変身し、彼に挑めと。
……無理だよ。
立つのがやっとで、歩くことすらできない。
リングを握る手も握れているのか怪しいぐらいだ。
本当なら彼を見て怖くてすくむはずなのに、それすらできないほど眠い。
こんな状態で、どうしろっていうの。
「奪われたのなら、取り返すのが道理だろう。ならばこそ、心火を滾らせ天上の奈落へ飛翔せよ」
奪われたから取り戻すのは当然で。
そのためなら怒りを燃やして、どこまでも行けるはず?
「そんなの……わたしには無理だよ……」
砂に雫が溶け込む。
足にはとうとう力が入らなくなり、さらにぼやける視界で砂漠を見つめる。
「お願いです。わたしはどうなってもいいから、二人を……二人を返してください……。お願いします……」
ボロボロと零れた雫が砂を湿らせる。
前が向けない。
うずくまって、もう泣いて頼むことしかできない。
わたし一人じゃ、何もできない。
「聞けぬ。先刻告げた筈だ、取り戻せと。出来ぬのなら、逝ね」
最後の言葉と共に振り上げられた拳は、飛び込んできた藍色の影に邪魔をされる。
余波で吹き飛ばされたわたしが最後に見たのは、赤く光る三つの三日月と銀月の鎧による、大地を枯らせる殺し合い。




