2.かくして撫子の花は咲き誇る
硬く焼けたお菓子の足場を走り抜ける。
後ろから迫るお菓子の巨人が歩みを進める度に、振動が足へと伝わってくる。
いくら走ってもお菓子の町の端にはたどり着かず、ずっと似た光景が流れていく。
『おヤ。人間とハ、とても足の遅い生き物ナのですね』
遠く離れても、空から聞こえてくる巨人の声。
彼の放つ甘い臭いも、いつまでも消えることがない。
「逃げても無理メア。もうアイツの世界に閉じ込められたメア。出る方法は、アイツを倒す。それだけメア」
「た、たおっ……! むり、無理だってそんなのー」
夢の中だからか、不思議と息が上がらず走り続ける。
その隣で浮いたまま一緒に逃げるメアは、唐突にそんなこと言ってくる。
人があんな大きいのに勝てる訳ないじゃん。
「ちゃんとその為の力はあげるメア。アイツが遊び半分のうちに、早くその力を手にするメア」
「力!? どこにあるの?」
「メアを使うメア!」
メアを使う?
よく分からないけど、一緒に逃げていたメアが左の二の腕にしがみついてくる。
メアがうっすらと光を放ち、ほのかに甘みと酸味が混ざった匂いを放ち始める。
「何でもいいメア。なりたいものとか、アイツを倒すとか。とにかく強いイメージを想像しながら、叫ぶメア!」
「なりたい……もの……」
メアの手伝いのため、あの巨人を倒す。
そんなの夢だからってできる訳がない。
わたしは勉強ができる訳じゃないから、倒す工夫は思い付かない。
自慢できるほど運動ができる訳でもない。
なりたいものも、これと言って思い付かない。
『おヤおヤ。手こずっているようですね、お客サマ。契約前にお声掛けしタのハ、都合が悪カっタでしょうカ』
「うるさいメア。お前はナデカに倒される準備だけするメア」
『おヤ。でハ僭越ナガラ、お手つダい致しマしょう。これも準備のうちです』
かき混ぜられて黒に近くなっていく空。
大きいと言っても、10mあるか無いかの巨体は既にわたしの視界には入っていない。
入り組んだお菓子の町を走り抜けた事もあり、わたし自身もあの巨人がどこにいるのかは、正確には分からない。
その筈だった。
黒い空から一滴の雫がこぼれ落ちる。
わたしの目の前に落ちた雫は、あっという間にあの巨人の姿へと変わっていく。
『見タところ、アマり我々を理解しておられナいようダ。ナらバここハ紳士に、ワタしの話でも致しマしょう』
怖い。
もうそれしか考えられなかった。
どこまでも続く町。
どこへ逃げても、当たり前に目の前に現れる巨人。
こんな悪夢みたいな相手を倒せるわけがない。
『これハ、とアる少年の話です。彼ハ病により床に伏せ、一生涯医者の下より離れラれぬ身でしタ』
戸惑うわたしを気にせずに、巨人は話し始める。
迷路の町は気付けば道がなくなり、小道すらない円の形に建物が並んでいる。
まるで絵本に描かれた光景で、どこまでも夢の世界だと実感する。
『彼ハ願っタのです。せめて、美味ナ物を食して逝きタい、と』
少年の事は簡単に。
その事自体は大切ではないのだと。
口にせずとも、巨人の少年への興味の対象が分かってくる。
少年の不幸はどうでも良くて、彼が何かを望むことが大切だと。
『私ハそんナ彼に提案しタのです。夢の中でナら死ぬこともナく、食に困ることもナい。ナので、その不幸ナ体をいタダけナいカ、と』
一瞬。
巨人の体が、見知らぬ少年の姿へ変わる。
見間違いではなく、世界のズレと共に確かに変わっていた。
「……見定めた相手の体を乗っ取り、永遠にその人の精神は夢へ閉じ込められる。それがコイツらの所業メア」
『否定はしマせん。何でアれ我々ハ彼ラ人間に代ワり、彼ラとして生きていく。ご理解頂けマしタカナ、お嬢サん』
夢に閉じ込められて、代わりにこの巨人みたいなのがわたしたちになる。
そうなったら、現実の世界はどうなるの。
家族は、友人は。
悪夢たちにいいようにされてしまうのか。
それに閉じ込められたら、わたしたちはどうすればいいの。
『一つ言い忘れていマしタ。これは彼にも問ワれタのですガ、アくマで私ハ彼に――入れ替ワる人間とナるのです。記憶も、意思も。全てハ代ワる人間そのものにナりマす』
「だから現実の人たちは気付かないメア。知っているのは、メアたち悪夢。そして入れ替わった本人のみメア」
「入れ替わった人は、この世界でどう生きていくの……?」
「ただ、生きるだけメア。永遠に夢で暮らしていく。そのほとんどは精神が壊れ、体を変えて、夢の住人へと成り果てるメア」
夢の住人へと、成り果てる。
その言葉にのせられた感情は、どこまでも冷たい。
それがある事実に行き着き、自然とこぶしを握りしめる。
「彼を倒したら、どうなるの? 答えて。メア」
「メアが食べて、消えるメア」
簡単にメアが答えてくれた。
彼が少年に入れ替わるのも。
彼をこのままにするのも。
どちらを取っても、知ってしまったから辛くなる。
『良い眼ですね。ヤハりオネロスの適正がアるものハ、真っ直ぐで眩しい……。しカし。ええしカしです!』
わたしの体が宙に浮く。
気付けば、目の前に迫っていたクッキーの大きい腕が、全身を突き飛ばしてきた。
お菓子の壁にめり込んだわたしは、意識を失いかける。
痛みを感じる間もなく、目の前が真っ暗になる。
「目を覚ますメア。ここで眠ったら現実に戻されて、アイツが少年と入れ替わっちゃうメア」
声が聞こえ、身体中が痛みを訴え始める。
夢の中なのに、痛い。
骨も折れてるのかな、息をするほど痛い。
目の前が霞む、もう自分がどうなってるのか分からない。
だけど、メアが近くにいるのは分かる。
わたしは奥歯を噛みしめて、壁から抜け出る。
震えが止まらない両足で地面を踏みしめて、彼と向かい合う。
『おヤ。……失礼。ここハ敬意を示すとき』
彼は再び踏み込もうとしたけど、何故かそれを止めて、わたしの動きを観察する。
彼には今のわたしが、どう見えるのだろう。
何もできない女の子の最後の抵抗か。
それとも、別の何かか。
「ナデカ。準備は、覚悟は良いメア?」
「……うん。良いよ」
花を撫でるように、優しくメアを抱き寄せる。
腕の中に収まったメアからは、赤と桃色の光が溢れ出て一輪の花を咲かせる。
わたしという雌しべに、メアという雄しべ。
二人が寄り添いあって咲かせる、夢の花。
「――変身」
飾らず、たった一言。
それが赤桃の花に実を結ばせ、わたしたちを包み込む。
ゆっくりと、焦らずに開けられた目を閉じる。
これから始まるのは、夢の一時。
蝶を誘う夢花を一輪、このお菓子の国へと咲かせよう。
『祝福いタしマしょう、悪夢狩りの誕生を。これはマタ、愛らしくも美しい。それ以上の言葉ハ、最早不要でしょう』
実が弾けて、花にこめられた力が噴き出す。
お菓子の迷路に赤と桃の種が降り注ぎ、八重の花が咲き乱れる。
「わたしの夢、受け取ってくれますか?」
『是非もアりマせん。ですが花より団子という言葉ガアりマす。彼ガどちらを取るカハ……楽しみですね』
撫子色の長髪から、赤と桃の花びらを散らす。
花を思わせる薄桃色の衣装は赤がアクセントとして入り、白色のフリルが飾られている。
赤い瞳でお菓子の巨人を見つめ、わたしは右手を彼に差し出す。
彼もそれに答え、右腕を向けてくれる。
それはある種の舞踊の誘い。
花の姫に差し伸べられた手を、お菓子の紳士は無論と手に取る。