15.香る紅茶の一時
目の前に置かれた真っ白で花柄が描かれたティーカップへ、紅茶が音もなく注がれる。
カップに満たされていく紅茶からは、上品な香りが溢れてくる。
ここは優月さんの夢の世界。
金の月がいつまでも昇る、レンガ作りの家が地平の向こうまで広がっている、夜の町。
そこで唯一あるなだらかな丘に、堂々と建てられているお城に、わたしはいる。
優月さんと別れて、すぐの夜。
目が覚めたらまたこの世界に来ており、ウートさんにここまで招かれたのだ。
この部屋へ来るにはとにかく簡単だった。
ウートさんが持っていた、三日月が彫られた鍵を適当な家に差して扉を開けたら、すぐここまで来れた。
「どうぞ、八重咲様」
「ありがとうございます、ウートさん」
差し出された紅茶を、まずは一口飲んでみる。
右手で取っ手を掴み、左手を熱さが感じる程度に柔らかく添える。
外とは違い、過ごしやすい程度の気温になっている部屋は、紅茶の暖かさをほんのり主張させる。
甘味がなくちょっと飲むのには抵抗があったが、それでも美味しいと感じる。
舌を火傷しそうになったけど、そんな事を気にしなくなるぐらいだ。
顔に出ていたのか、ウートさんは目を伏せて軽く頷くと、色々と置かれたワゴンの上から二つの容器を渡してくれる。
蓋を開けてみると、入っているのは角砂糖とミルク。
こちらも、と前に置かれるのはイチゴが一つ乗せられたケーキ。
上には赤のソース、それが塗られているのはイチゴ色のホイップを挟み込んだ、白いスポンジ。
「ラズベリーソースで仕上げた、苺のショートケーキで御座います。今回八重咲様をモチーフにいたしまたので、クリームは苺のものを使っております」
「いただきます」
わたしをモチーフにと言われて、はやる気持ちを抑えて紅茶に角砂糖を三つ入れる。
沈んでいく角砂糖は溶けきらず、底へ力なく沈んでいく。
ティーカップの向こう側にある、ソーサーに置かれたティースプーンを手に取って、残った砂糖を紅茶に馴染ませる。
そのまま左手でミルクポットを、カップの縁に口を当ててゆっくりとミルクを注ぐ。
澄んだ茶色へ柔い白が混じり、混ぜる度に穏やかな色へ変わっていく。
色が全体に行き渡ったのを見て、ティースプーンを元の場所に戻す。
改めて紅茶を口に含むと、甘くて飲みやすい、けれどもしつこさのない味が広がる。
次へ次へと飲んでしまいそうになるけれど、今度はそれを抑えてケーキへ目を向ける。
赤いケーキと共にお皿へ置かれた銀のフォークを手に取り、切り込む。
跳ねるスポンジを押し込み、分けられた小さい方をフォークで取り頬張る。
まず来たのはソースの酸味。
酸っぱいと思ったけど、すかさずやって来てくれたのは、衝撃を受け止めてくれるスポンジと、バランスを取ってくれる甘いホイップ。
最後にはホイップの甘さが残り、別の何かを口の中が求めてくる。
そのために、残した紅茶へ手を伸ばす。
フォークを置いて、潤いを求める口へ注いでいく。
流される甘さは、また別の甘さへ変わる。
そうしたらまた、あの酸味が欲しいとケーキへ手が伸びていく。
これは恵みの水に肥沃の大地と言うべきだろう。
永遠と繰り返すことができる、甘味の楽園。
「……まるで小動物ね」
「ええ、愛らしい生き物です」
「無いはずの耳と尻尾が見えるメア」
「ふえ……?」
円状のテーブルに、わたしと同じく椅子へ腰かける優月さんは呆れた物言いで紅茶を嗜んでいる。
わたしとは柄違いのカップで、描かれているのは月の浮かぶ空。
中身は砂糖もミルクも入れず、リンゴの香りがかすかに漂ってくる。
メアはテーブルの上に乗り暇を持て余しているので、本当のぬいぐるみみたいだ。
ウートさんは変わらず、わたしと優月さんを行き来している。
最初は手伝おうと思ったのだが、お客様でお嬢様のご友人である八重咲様には至高の一時を過ごしていただきたい、と断られてしまった。
「動物……?」
「気にしなくていいわ。とにかく話を始めるわよ。それじゃあお願いウート」
「畏まりました」
最後には紅茶で一息つき、テーブルから少し距離が離れた場所で待機していたウートさんへ、椅子ごと体を向ける。
昔の王様とかが住んでいそうな豪華な造りの部屋で、狼だけど執事服のウートさんが立っているのは実にそれらしい。
天井に飾られたシャンデリアには黄みがかった炎が灯され、部屋全体もよく見ると金の装飾が多い。
わたしたちが手にしていたカップの柄も、金色が中心だ。
「ではまず、夢の世界についてです。これは簡単に生物の夢がそのまま空間となっているとお考えください」
「その夢の世界は一人一人違うものを持っていて、ここは私だけの世界って言うこと。だから安全で私の力が一番使いやすい場所」
「加えて個人の夢の世界は、オネロスにとって重要な拠点。言わば家です。――ですので八重咲様は現在、家が無いという状態です」
詳しく聞いたら、どうやら夢――将来になりたいものとかがはっきりしていたり、それに強い思いがあるとできるらしい。
つまりはわたしには目指すものが無くて、迷子になっているということだった。
だから二回目以降が知らない所で目が覚めたらしい。
……はっきり目標無く生きていると言われると、耳が痛い。
「ていうか何でウートが説明してるメア。ユヅキでも良くないメアか?」
「詳しいのはコイツだからよ。本来なら貴方が撫花に説明することよ、これ」
「メアは生まれたばかりだから、勘弁して欲しいメア」
そう。
あの戦いの後に、優月さんがメアに話を聞いて分かった事の一つ。
メアは自然発生したドッペルで、最初にあったのはポベトルだったらしい。
そのポベトルの話が終わらない内に、オネロスを探しに飛び出してわたしに出会ったと言うことで、知識の量はわたしと同じだ。
「私たちはドッペルをこの世界に呼び込み、確実に狩っているのですが、オネロスの基本は世界を飛び回ること。そうですね、アリス様が良い例です」
「あれは意図的に飛んでるから、典型例は撫花よ。眠る度に一体ずつ狩る。良い例だとしても、私やアイツを基準にしちゃ駄目」
「世界とは関係ないんだけど、ポベトルはドッペルを食べるんだよね。メアがそう言ってたんだけど」
「表現の一つですよ。倒す以外のことは致しません。そもそも食事をするドッペルは稀ですから」
わたしの知らないところで二人は食べているのかと思ったけど、そういう訳ではなかったみたいだ。
「そして夢の世界があり、同じく悪夢が形を成したドッペルがいる。ここで出てくるのが、なぜ自然発生した彼らは人を狙うのでしょう」
「現実の世界が羨ましいから、とか」
「もっと全体的な話です。私も先達から聞いた話ですので不確かですが。――どうやらドッペルに、人を狙えと煽動した者がいるらしいのです」
「めちゃくちゃ悪い奴メアね」
「私も聞いたときは、そんな分かりやすいラスボスいるんだと思ったわよ」
「何で人間だったんだろう」
全員が黙り混んでしまう。
ドッペルが発生するは、生物全てが寝ている時。
なのになぜ、人間だけ入れ替えが起こっているのか。
それとも知らないだけで、他の生き物も代わっているのか。
「今は周りの影響で行っているドッペルが中心だとは聞いています。それに私たちポベトルも、その様な形で数を増やしておりますし」
始まりがいつからか、分からない。
ずっとずっと、気の遠くなる時間をドッペルとポベトルは争ってきた。
オネロスも、同じように最初がいつかは分からないらしい。
「ですが、現在は明確な目標はあります。長く存在するポベトルは皆、それを倒すべくオネロスを探しているのです」
「目標メアか?」
「"冥幽夜会"。自然発生のドッペルを束ねて、オネロスと争ってる集団がいるの」
「盟友……」
「同盟の友じゃないわよ。冥界の幽霊ね」
「え、幽霊……」
ドッペルがいるのだから、幽霊がいてもおかしくはない。
「漢字がそう書くだけですので、ご安心を。相手は私たちと変わらないドッペルです」
「私も会ったことは無いから、どういう奴らなのかは分からないわ」
「現状三人。この集団に属している者がいるので、彼らを倒せばドッペルが人を襲う頻度はかなり減ります」
ウートさんは順々に指を立てていく。
人差し指、中指、薬指。
「彼らはそれぞれ"捕食者"、"黒羊"、"略奪者"と呼ばれています。黒羊以外は古参で、少なくとも千年はいるらしいです」
黒羊以外は嫌なイメージしか湧かない呼び名。
それだけ多くのオネロスとポベトルを苦しめたということか。
千年という単語には正直、驚くというよりかは凄いという簡単な感想しか浮かばなかった。
「そのメイユウ夜会っていうのを止めるのが、今後の目標なんだね」
「そうメアね。ナデカならそんな奴ら一発メア」
「呑気なものね。千年も倒せる奴がいなかったのに、そんな簡単に倒せる訳ないでしょう」
千年分の知識と経験が向こうにはあるのだから、十数年しか生きていないわたしたちに、まともな勝ち筋は無いと優月さん言う。
考えてみれば当然で、真っ当な手段は全て彼らの知っているものだらけだろう。
それを超えるには、都合の良い奇跡しか思い当たらない。
「私は八重咲様ならもしかすると、と思っております。八重咲様は類に見ないモルフェスの使い手。可能性はあります」
「問題は、撫花自身は戦いに向いていないっていうことね」
「あー……うん。できるなら痛いのは嫌だね」
「なのにナデカは攻撃を避けないメアから、見ているこっちは心臓に悪いメア」
色々と目標に向けての問題が明らかになっていく。
敵の事、わたしたち自身の事。
そういった問題を話している内に、眠る前に思った事を思い出す。
「そう言えば、夕方に優月さん言っていた、デイドリームってなに」
「デイドリーム、白昼夢ですね。メア様は力が弱く、夢の出来事を現実に持ち越せないので、お嬢様の命により私がお助けいたしました。いわゆる、裏技です」
「直接的に意識させるタイミングが欲しかったから、私が会いに行ったの。ウートとタイミングが会わないとできない小技よ」
「ええ、ですのでお嬢様。この忠実なる僕に、甘美な罰をお与えください。この私が優秀であれば、いつ如何なる時も力を振るえたのですから」
流れる動きで優月さんの前へ膝を付くウートさん。
冷めた目でウートさんを見下ろしながら、優月さんは紅茶を一口含む。
見下しているように見えるけど、あれはたぶん困っている。
「毎度こうやってるのメアかね」
「わたしはメアのこと、好きだから撫でるね。帰ってきてくれてありがとー」
「抱き締めるのも、メア的にはあまりして欲しくないメアー」
結局、この後はドッペルとも会わず、ウートさん淹れたお茶を楽しみながら雑談し、夢から覚めるのだった。




