10.灰狼と金月の鍵姫
「なるほど。ヤエザキ様のポベトルである、メア様は現在行方知れずと」
「はい。いつもは目が覚めたら近くにいたのですが、今回はどこにもいなくて」
ジンジャーティーを一口含み、音を立てぬよう静かにソーサーの上へ置く。
温かいけど、メアの事を考えると心の奥まで届かない。
考える仕草をするウートさんは、とても言いづらそうに考えを口にしていく。
「非常に申し上げにくいのですが、状況から考えるとこの世界にいるは望み薄、と言った所でしょうか。少なくとも無事では無いでしょう」
わざわざ遠回しな言い方をしてくれたが、言わなくても分かっている。
現実に戻される直前に、アリスによってお腹にナイフを刺されているのだ。
既にいなくなっていても不思議じゃない。
「しかしと言うかやはりと言うか、アリス様ですか。以前にも増して厳しい方だ」
「会ったことがあるんですか?」
「ええ。あれはお嬢様と契約し、悪夢狩りとして1ヶ月が過ぎた辺りです。食らう悪夢が向こうと被り、その時にお会いしました。結果は……想像の通りです」
ウートさんと彼のオネロスもアリスと出会っていた事もだが、わたし以外にも同じように攻撃を加えていたことに驚きが隠せない。
彼女は出会ったオネロスに危害を加えて、何がしたいのだろう。
「あの方は実に才に溢れた人です。パンタスにモルフェス。どちらも高水準で非常にバランスが取れていた」
「……オネロスを続けていたら、またあの人に会うのかな」
あのにやついた不気味な仮面が頭から離れない。
相手を否定するだけの、ケラケラ不快に笑う声が耳にこびりついている。
かけられたコートを掴み、胸元に寄せて震える体を押さえつける。
呼吸も段々と乱れていく。
「ご安心を、ヤエザキ様」
「……えっ?」
微笑むウートさんは、何か策があるのか落ち着いて紅茶を嗜んでいる。
紅茶の水面を細めた目で眺める彼は、いつになく鋭い声で告げる。
「この件に関してお嬢様は大変お怒りです。ですので、ヤエザキ様がお考えになっていることには、なりませんよ」
呆気に取られて、紅茶を嗜むウートさんを見つめてしまう。
なぜこの人は安心できると言い切れるのだろう。
彼のオネロスは、それほどまでに力が強いのか。
――それは無いだろう。
何せアリスに一度敗退しているのだ。
それから成長したとしても、向こうも強くなっているはず。
なのに何故、彼は言い切ったのか。
「ウートさんは――」
怖くないんですか。
そう言おうとした時、馬車が減速し停車する。
何事かと外を見渡すと、歩道に一人の女の子が壁に寄りかかっていた。
退屈そうに、右手に持っている金色の鍵で遊んでいる。
「これはお嬢様。遅れてしまい申し訳ありません。こちらお客様のヤエザキ様です」
ウートさんは意気揚々と馬車から降り、車内にいるわたしに手を差し伸べてくれる。
その獣の手を取り、彼のエスコートで降りるとそのまま彼女へ紹介をされる。
軽く頭を下げる彼を見て、わたしも深く頭を下げる。
「初めまして、八重咲撫花です。……一応、オネロスをやっています」
自信なくオネロスであることを口にするが、彼女は興味がないのか、視線はウートさんに向けられている。
わたしより一回り身長が低い彼女は、ここからでも分かるほど綺麗に梳かれた髪は1つに纏められ、左肩から前に垂らされている。
髪を纏めたヘアゴムはこの世界の月と同じく黄色で、黄みがかったニットからして気に入っている色なのだろう。
履かれたロングスカートは夜を現す黒なのか、ますます空に昇る月を連想させる。
「明日見優月よ。よろしく」
わたしの事は無視するのかと思えば、名前だけは教えてくれた。
視線もこちらに向いたことから、今はウートさんを優先しているだけなのかも知れない。
「で、駄犬。アンタがのんびり女の子と話している内に悪夢を逃したんだけど、どう責任とるの?」
「御心のままに」
流れる動作で明日見さんの足元にひざまずくウートさん。
尻尾も嬉しそうに振っているので、一見飼い主の次の言葉を待つ犬なのだが、たぶん違うだろう。
何とも言えない気分になり、件の明日見さんはどうなのかと見ると、口をヘの字にして顔を引きつらせ、凄い嫌そうに見下ろしていた。
長い付き合いで彼が望んでいることが分かるのだろう。
本気の軽蔑の瞳だった。
ウートさんの言葉から怖い人なのかと思ったけど、ウートさんがおかしいだけだったみたいだ。
「なら悪夢を探してそいつに一発殴られなさい。今すぐ」
「それならば容易いですね。何せもうそこにいますから」
ウートさんの言葉に、わたしは弾かれたように彼の視線とは逆の方向に跳ね退ける。
馬車の向かうその更に向こう。
黒いもやをまとった赤い瞳の猿が、首を鳴らしながらこっちを見ていた。
さっきまで無かった霧がかかり始め、甲高い笛の外れた音が猿がいる方から聞こえてくる。
「あら、穴捲って逃げた奴がノコノコと」
「それでは……」
立ち上がるウートさんに、壁から離れて歩道の中央に立つ明日見さん。
何をするのかは分かるが、今のわたしにはただ見ているしか出来なかった。
「――開門」
正面へと右腕を伸ばす明日見さん。その手にはブレード部分が猿に向けられた金色の鍵。
つぶやかれた言葉に反応し、明日見さんの左右に長方形の黄色の枠が引かれ、左右対称の開いた扉が作り出される。
創られた扉には月と鍵の紋が刻まれ、神々しさすら感じる。
月の女神により、神々の世界への扉は開かれた。
そう言って差し支えの無い眩い光景。
「月蝕よ、閉ざせ」
しかしそれは無情に閉じられる。
回された鍵に連動し扉は輝きを明日見さんに与え、閉じられる。
閉じた扉は黒ずんだ金色の光になり、明日見さんへ変化を与えていく。
黒を主体とし金色を細部にそえた優美なドレス。
月のイヤリングと黒曜のティアラは、足元まで伸びた金色の長髪をドレスと共に引き立てる。
両腕には黒のドレスグローブが付けられ、右手首には持っていた鍵がリング状になり、余裕をもって嵌められる。
足元は澄んだ青のハイヒール。
透明感があり、覗く黒のハイソックスはハイヒールに脆弱な印象を与えていた。
「援護を。お嬢様」
「早く行きなさい、駄犬」
猿に向かい走り出すなウートさん。
短いやり取りで凄いなと思った矢先、明日見さんは王様が座りそうな金と黒の椅子を作り出し、こともあろうか座り出す。
「明日見さんは戦わないの?」
「いいの。アイツが遊んでいる間、少し話をしましょう」
わたしは戦えないので、これが二人のやり方だと納得して仕方なく頷く。
「八重咲さん、だっけ。……つかぬことを聞くけど、もしかして高校生で学校は早苗第二高校?」
「う、うん。どうして分かったの」
「私は私立の赤心高校で、貴女の名前は聞いたことあったのよ。お人好しの女子生徒がいるって」
なるほど。
わたしの高校の近くにある私立校だ。
わたしが良くも悪くも有名になっているのは、美友ちゃんづてで聞いていたので、明日見さんが知っていてもおかしくは無い。
「まぁオネロスだったのは知ら――、ねぇ貴女のポベトルは?」
「……その、この前アリスって言う子に……」
石畳にヒビが入る音が聞こえた。
足元からはほんの僅かだが、黄色の粒子が立ち上っている。
明日見さんを見ると、宝石めいた碧眼に怒りの色が浮かんでいる。
「アイツ、またか」
「だから、ドッペルには何も出来ないの」
「……。アイツは後にして、悪夢――八重咲さんの言うドッペルとは戦うのは無理ね。人間は素の状態でやり合える奴は、ほぼいないって聞くし」
ため息をついて頬杖を付く明日見さんは、話題を反らすために別の話をしてくれる。
ウートさんの言う通り、これ以上に無いくらい怒っているようだ。
「となると。こっちに来なさい、やえ……。ちょっと長いわね」
「そう言う人は初めて見たよ」
「撫花で良いよね。とにかくここに座りなさい」
明日見さんの言う通りに、彼女の椅子に腰かける。
右側に寄ってくれたお陰で、彼女に抱きつく形だが何とか座れている。
微かに香るフローラルの匂いに、色白の肌。
整った顔立ちと、心の底から綺麗だと思う手先。
変身前を見ていなかったら、本当のお姫様と絶対に勘違いする。
ただ……
「ねぇ、明日見さん」
「何。貴女も名前で呼んで良いわよ」
「優月さん。何でこんなに胸を盛ったの」
あからさまに強調された胸。
身長はさっきと変わらず、しかしわたし以上のサイズになっているそれは、どうしても気になってしまった。
優月さんは視線を必死に反らし、苦し紛れの言葉を口にする。
「別にいいじゃない。夢なんだから。お姫様になって胸も大きくて、とっても美人。ほら女の子の憧れとして変じゃないでしょう」
「うん、そうだね」
少し涙目になっていたので、これ以上言及はせずに頭を撫でる。
見た目通り髪の質が良く、つい梳くように撫でてしまう。
「もういいから、ウートの所に行くわよ。あまり待たせると、アイツ放置プレイとか言い出すから」
「この状態から? どうやって?」
「勿論、こうやって」
優月さんがヒールの踵で地面を軽くノックをすると、そこから黄色の光が波紋みたいに広がり消える。
不思議に思っていると、地面についていた足がどんどん離れていく。
まさか、椅子が飛んでる?
「気楽にしてて良いわ。直接戦闘はウートの領分よ」
魔法の箒。
連想したのがそれだったが、それとは比べ物にならないほど不可思議に椅子が動き出す。
座っているわたしたちは不自然なレベルでそのままで、優雅に金色の尾を引きながら椅子が舞う。
椅子の上なら、何をやっても落ちそうにない。
「空間ごと飛ばしているから、私たちは固定されているの。ほら」
椅子が逆さまになる。
私たちは髪の毛一本も地面へは向けられず、優月さんの意のままなのが見てとれる。
しかも分かり易くしてくれたのか、椅子の周りには黄色の粒子が球状となってその範囲を視覚化してくれている。
「あっ、ウートさん」
空高くから地面を見上げるという中々無い体験をしながら、黒い猿の攻撃を捌いているウートさんを見つける。
猿の動きを予測して、最小限の手間で動いている彼は戦うというよりかは踊っていると言った方がしっくりくる。
それだけ、綺麗で無駄の少ない動きだった。
今度は見上げるから見下ろす形に戻る。
囲んでいた黄色の粒子も空間に溶けていく。
説明の為にだけしてくれたのだ、用が無くなったらする必要は無いのだが、一種のアトラクションみたいで少しだけ楽しかった。
元の体勢に戻ったことで周りを見る余裕ができ、戦っているウートさんから視線を外す。
どうやら相当高い所まで上がっていたらしく、頂上にあった城が平行に見えるほどだ。
見下ろす町並みは変わらないが、遠くの方まで変わらない風景は夢の世界なのだともう一度実感させる。
高さがあるのは城が建つなだらかな山付近のみで、後は一面平らな世界。
「――拘束せよ」
優月さんの言葉に腕輪が反応する。
下ではウートさんたちの周囲に黄色の炎が疎らに点火される。
それに気が付いたのか、ウートさんの動きが変わる。
今までは距離を付かず離れずの立ち振る舞いだったのが、急激に近寄り動きの切れが鋭くなる。
猿が大振りをした所で間髪入れず懐に潜り込み、真下から顎に向けて素早い拳を打ち込む。
猿の足取りはふら付き、明らかに弱ったところへ黄色の炎たちから閃光が伸びる。
一瞬で金色の鎖に変わった光は猿を見事に縛り上げる。
危険は感じ取れているのか暴れようとしている様子はあるものの、力が思うように入らないようだ。
「終わりね」
縛られた猿に、ウートさんは一歩一歩近付いていく。
金色の炎が灯された右手を手刀の形にし、横なぎで猿の体を払い抜ける。
声を上げる暇もなく炎によって燃やされ、残ったのは優月さんが出した金色の鎖のみ。
一連の手際があまりにも綺麗で、わたしとの違いが嫌というほど分かってしまう。
知識も、能力も。
さらに言えばポベトルとの関係も。
優月さんとウートさんの方が数段上だ。
戦闘というには淡々としていて、言うならば悪夢を狩る作業。
自分の有利な状況に持ち込み、何度もこなした経験による型にはめて、繰り返してきた終わりの道筋を通るだけ。
ここにきて、わたしの二人の印象は奇妙な狼と苦労している人から、あのアリスとナイトメア同様に"熟練の悪夢狩り"に変わっていた。




