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自己主張の過剰/過少

 私は10年くらい前から海外 (アメリカ)の方が向いていると留学に行っていた友達に言われてきた。その意味が今回の語学留学でほんの少しだけ垣間見ることができたように思う。私はどちらかと言えば自己主張をハッキリする方なので、それは前々回書いたように”assertiveness”を重視するアメリカの方が向いているということなのかもしれない。

 とはいえ、自分が常に正しい自己主張の仕方をしていたかと言うとそうではない(し、周りも全くそう思っていないだろう)。「自己主張の仕方」と言ったのは、「自己主張の内容」と区別するためだ。自己主張の内容が正しかったこともあれば、間違っていたこともあっただろう。それをここで云々するつもりはない。ここでは「自己主張の仕方」の話をしたい。というか、反省をしたい。

 私の言い方がキツかったというのは問題の一つだった。「冷たい」とか、「偉そうだ」とか、「そんな言い方されると不愉快だ」とか、内容とは全然関係ないところで反発を受けた経験は数知れず。これは私が日本で自己主張した時に繰り返した失敗だ。この場合、内容の正しさは全く関係ない。そしてこちらの意図も全く関係ない。内容がいくら正しかったとしても、そして別に私が相手を攻撃する意図がなかったとしても、受け手が「攻撃」されたと捉えた時点で、コミュニケーションとして失敗だ。

 自己主張によってギスギスするというのは別に日本だけではないかもしれない。誰だってとやかく言われたらいい気持ちはしないだろう。もしアメリカでも同様なら、アメリカは結構ギスギスした関係が多いのかもしれない。私の二つ目の家のルームメイトの日本人の方は、どうやらそのへんにうんざりしていたようだ。アメリカ人の個人プレーっぷりを相当愚痴っていた。要するに「自己主張ばっかりして独善的・独断的」というところにご立腹だったのだと推察される。私は空気が支配して非合理な結論が出がちな日本型組織のあり方よりも、そうした攻殻機動隊S. A. Cよろしく「チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。あるとすれば、スタンドプレーから生じるチームワークがあるだけだ」という組織のあり方に憧れるのだけれど、それはアメリカのギスギス組織を経験していない単なる語学留学生だからかもしれない。

 もしアメリカで自己主張がギスギスを生むとしても、それは日本人の自己主張への嫌悪とはやっぱり異なるようにも思う。というのも、自己主張が過剰か過少かの差があるように思えるからだ。要するに、アメリカ人は自己主張が過剰に溢れているからウンザリしている。それに対して、日本人は(A)そもそも画一的な状態を好むから(前回書いたように)自己主張はワガママに映りがちであり、(B)そして自己主張が(Aのゆえに)過少だから自己主張に対する免疫が足りていないことに起因して嫌悪感を催す。私の仮説はこうだけれども、別にアメリカの組織だけでなく、日本(型)の組織にガッツリ属しているわけでもないので、あくまで想像だ。

 なんにせよ、自己主張する際には言い方に細心の注意を払うべきだったと反省している。その具体的な方策はまだ試行錯誤の段階というか、全然自信がないので、割愛させてもらいたい。


(補記)筋が通る/通らない

 日本人が自己主張を一般的には嫌悪、忌避しているとしても、その例外がないわけではないことにある時気がついた。任侠映画を見ていると、「それじゃ筋が通ってねえじゃないか!!!」みたいなシーンを目にすることがあるだろう。まあ任侠映画が筋とか関係ないただの殺し合いのドンパチだとストーリーとして成立しないだろう。だから実際にそういう反社会的勢力の世界がどうなっているかは分からないので、任侠映画というフィクションに限った話をしたい。

自己主張の仕方ではなく、自己主張の内容において、重要なのはその自己主張を支える理由づけだ。〈自己主張Cをしているのは理由Rが根拠である〉という表現をしたとしよう。実際には自己主張の仕方も重要だということは人生経験上骨身に沁みているのだが、自己主張C1とC2がぶつかり合っている時に、裁定する際に重要なのはそれぞれを支えるR1とR2だ。自己主張嫌いで、空気が支配する空間ではそうしたR1やR2の吟味はされず「まあまあ」とか「喧嘩両成敗」とか公平性を欠くような形で裁定が下される。

 でも、裁判はそういう事なかれ主義の空間ではないので、R1とR2の妥当性が天秤にかけられ、裁定が下される。こうしたことが日常的に起きているのが任侠映画の世界のように思う。映画の中での言葉を使えば、そうした理由Rは「筋」と表現される。二つの組が争って、その仲介役となる組が現れたら、これは裁判モデルとさえ言えるかもしれない。(その「筋」というのが「カタギ」の感覚からしたら「理由」とみなされないかもしれないというのは、そもそも「理由」とは何かという論点を惹起する。)

 現実社会ではそうした反社会勢力同士の諍いがどうなっているのかは知らないけれど、少なくとも任侠映画は日本社会で一般的な空気で収めるやり方とは違う方法を示唆しているように思う。任侠映画の話をしているので、別に反社会勢力を肯定しているわけではありません。クソどパンピーの小市民の私からしたら反社会性力とか本当に怖いし。

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