“assertiveness”
(前々回に書いた)冷蔵庫問題の話を日本人にしても、自己主張それ自体が忌避されたが(前回の話)、アメリカ人のリアクションは異なった。ホストマザーも仲裁する役目だからもちろんルームメイトと私の話を聞く。そして実際に状況を鑑みて判断を下す。でも、ここで「お互いにまあまあ」と言って、グズグズに終わらせる仲裁者を想像することもできるのではないだろうか。とりわけ、日本人が仲裁すると話もロクに聞かずに〈喧嘩両成敗〉とか言って、ウヤムヤになることは想像に難くない。でも、そのアメリカ人のホストマザーはどちらからも話を聞いて、何が問題かをクリアにして、解決策を提示した。前々回書いたように文脈があって、心情的には私寄りだったけれども、彼女自身も判断の根拠を示した。そのことで「客観性」や「中立性」が一定程度担保されている。
私の英語の先生にこの冷蔵庫問題を話した時も、なぜ私が怒っているかという理由、あるいは何があったのかという事実に話がフォーカスされた。私の自己主張はそれ自体では退けられることがない。その中身が問われる。
アメリカ人は裁判が大好きと揶揄されるし、実際にもう自己主張とワガママの境目がよく分からないようなニュースを聞くこともあるけれど、自己主張をするということに価値が置かれている。自己主張は単に自己利益をむやみやたらと叫んで要求するという意味合いではない。私の冷蔵庫問題以外の話をしよう。
ある時、地下鉄に乗っていたら、私の前に小さな子供二人とその父親が乗っていた。英語を完璧に理解できたわけではないが、どう見ても父親がお兄ちゃんの方を叱っている。お兄ちゃんは「僕じゃない!」って感じで泣き叫んでいた。父親はその子に対して泣き叫ぶのではなく、事情を説明するように求めていた。そして、弟くんの方にも話をするように促していた。要するに、お父さんは小さな子供相手でも理由を言うこと、状況を説明することを求めていた。小さな子供でも自己主張することが求められるのがアメリカ社会なのかもしれない。日本なら「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい!」という理屈もへったくれもないアンフェアな「裁き」が親によって下されることもあるだろう。
別の話を例にしよう。ある日本人女性がアパートで二回強盗に遭った(第14話で少しだけ触れた事件の話)。一回目は窓からパイプを入れられて、物を盗られそうになったそうだ。こうした事件がそのアパートで生じるのはこの時が初めてだったそうだ。アメリカのアパートの一階は犯罪防止のために格子がついているが、その隙間から奪われそうになったそうだ。でも、その時彼女はパイプを掴んで物を奪い返したので、実際の被害はなかった。(ちなみに、みんな彼女の対応が間違いだと言った。物を奪い返そうとして殺されていたらどうするんだ、と。NYは治安が良いとか言われてもそんなことは起こるし、そんな心配までしなければならない。)その数週間後、二回目は強盗が入口の扉を破壊して侵入してきて、彼女は強盗に鉢合わせてしまったらしい。彼女はお金を渡して、心に傷を追った。
このアパートの管理者の責任が問われるべきだが、アメリカ人の知り合いにこの話をしたところ、以下のようなことを言っていた。初回の強盗はアパート側としてもどうしようもなかったのではないか。被害者はこの段階で再発防止のために具体的に何をして欲しいか管理者に具体的に要求するべきだった、と言っていた。無論、彼も管理者に一切の責任が無いと言いたいわけではない。ここでのポイントは再発防止のために被害者が具体的な対策を要求する必要があったと指摘していることだ。そんなものは管理者が自発的にするべきだという考え方ができる。でも、アメリカではそんな簡単に人の善性や自発性を信じてはいけないようだ。自分の身を守るためにも自己主張することが求められる。
実際、“American Values and Assumptions” (「アメリカの価値と前提」)(Gary Althen)というエッセイの中で、「アメリカの価値と前提の一つ」として“assertiveness”というものが挙げられている。元の動詞はassertで、断言する、主張する、我を張ると言った意味だ。形容詞のassertiveは断定的な、独断的なという意味だ。このassertivenessは自己主張という意味で理解していいと思うが、でも、それに自己中心的とかそういう悪いニュアンスを含ませて理解するのは間違いだと思う。
アメリカでは自己主張はそれ自体で悪いことだと見なされていないようだ。この背景には「表現の自由」があるだろう。NBAチームの幹部がチャイナ・マネーに屈して香港支持の表明を撤回したことというニュースがあったが、アメリカ人の先生たちはそれにすごく落胆していた。アメリカは表現の自由を大切しているのに…と。
私はそうしたアメリカ的自己主張や表現の自由への強いコミットメントがすごく素敵だと思っている。正直言えば、日本の「まあまあ」という他人の意見を封殺する表現が心底嫌いだ。でも、やっぱりアメリカ的自己主張もいささか美化されたものであるかもしれない。時に、それは自己主張しない奴の負けを意味し、やった者勝ち・言った者勝ちという風潮を生み出しかねないからだ。だから、あんなやたらめたら訴訟しているように私には見える。
それだけではなく、自分の身を守るためにも、具体的解決策を自己主張する責任が被害者にさえある。これはなかなかシビアだ。先の例で言えば、強盗に遭った側は心に傷を負っている。おそらくPTSDの初期症状ができていたのだろう。私も強盗に襲われたのでそこらへんの気持ちは想像に難くない。そんな状況で再発防止策を自分から提案する必要があるというのはなかなかしんどい。でも、たしかに待っていたって何も変わらないのだから、自己主張を必死になってするしかない。
私自身、そういう意味での自己主張の経験がある。第13話で書いたが、PTSD初期症状が出ていた時に、必死になって休学を認めてもらうために自分で必要書類を集め、自分で交渉した。この時のタフさと言ったら…いつ休学が認められるのかもよく分からず、その交渉だけではなく授業にも出席しなければならず、もちろん、基本的に病院以外は英語であり、メンタル絶不調がさらに悪化していった。
論語には「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉があるそうだ。
同してばかりで異議申し立てを認めない日本の息苦しさもイヤだが、自己主張とワガママの境界線が壊れるのは息苦しいし、そして自己主張をするというのはかなりタフなことであり、自己主張というのはそんな生易しいものではない。そして、和するということはそういう自己主張のし合いとは異なるだろう。
これらのことを踏まえると、今まで私が言われてきた「まあまあ」という言葉から、別のニュアンスを聞き取ることができる。
「お前が言っていることは俺もよく分かっている。でも、そんな口に出したら、野暮ってもんだぜ」
って。




