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菊、紫苑

 九月に入りそれなりに立ったある日。その日は、課題がある程度終わり、先生の嫌がらせに近い部活勧誘などもなく、ただ平穏な一日だった。

 スミレからの一通のメールが届かなければ。


『菊ちゃんが倒れて、アザミさんが今一緒にいてくれてる。正門で待ってる』


 菊が倒れた。

 目の前が一瞬真っ暗になり、呆然としている場合でないと思い、走り出す。

 目指すのは正門。きっと車でスミレが待ってくれているはずだ。


「スミレさん!」


 正門には一台の白の軽自動車が止まっていた。

 運転席にスミレが乗っているのを確認し、助手席に乗り込む。


「捕まらない程度に飛ばすよ。しっかり掴まっててね」

「はい」


 校門から出てくる生徒を引かないよう、細心の注意を払いながらも、菊のいる県立病院まで車を走らせる。


「あの、菊が倒れたって」

「今日、体調がいいからって花壇の水やりをやってたわ。でも、お盆過ぎてからはずっと家で会ってたでしょ。もう身体が限界だったみたいで。少し目を離したら、菊ちゃん、倒れてたわ」


 気丈に声を発しながらも、その顔は青くて。

 菊はの寿命は、本当に、あと少しなのだと、そう気づいてしまった。

 確かに、菊はお盆を過ぎてからは紫苑がいつも家に通っていた。勉強をやってみたいという菊に、紫苑が宿題やら小学生用のテキストやらを持って勉強を教えていたのだ。

 花言葉を覚えられるほどの記憶力もあり、理科に関してだけは紫苑も負けるほどに菊は勉強を楽しんでいた。

 でもやはり、毎日会っていればわかるものだ。

 その身体が初めて会った時より細く、力が入らなくなっていることに。

 ほんとは起き上がっているのを辛そうにしていることに。

 それでも、楽しそうに勉強をする菊を止められなかった。

 学校に通っている誰よりも、楽しんで勉強をしていたんじゃないだろうか。


「きく……」


 祈るように胸の前で手を結ぶ。

 どうにか、菊が無事でありますように。

 急いでいるときほど、時間というものは長く感じるもので。

 車が急ブレーキをして止まったのは、学校を出てから五分後のことだったが、紫苑には数時間の道のりにも感じられた。


「紫苑ちゃん、アザミさんが待ってるはずだから、先に……!」

「はい!」


 車を転がり落ちるように降りて、病院の入り口まで走る。

 受付の前にはアザミが待っていた。


「紫苑、病院では走らないでください」


 急いできた娘になんという言い草だ、と思いながらもお母さんがこの様子なら、と息を整える。


「菊ちゃんのことは、向かいながら話します。まずはスミレさんを待ちます。いいですね?」

「はい」


 どこまでも澄ました顔のアザミを見て、思わずため息が漏れる紫苑。

 何があっても冷静なアザミは、いざというときに頼りになると、この時初めて思い知った。

 数分経って、スミレも走ってきた。スミレにも紫苑と同じように走るなと釘を刺したアザミに、苦笑を浮かべる。


「すみません」


 素直に謝るスミレに、アザミは歩き出す。


「行きながら話します」

「お願いします」


 アザミを先頭に、スミレと紫苑が横に並んでアザミの言葉を一言一句逃さないよう聞き耳を立てる。


「まず、菊ちゃんは今は安定しています。しかし、次、昏睡状態に陥れば、危ないでしょう。……いえ、陥らなくても、あと十日間生きられれば、いい方だと、それが先生の見解です」

「そんな……」

「菊ちゃん……」


 どうにかならないのか、と叫びかけて、紫苑はやめた。

 後ろからでは顔が見えなければ、声もいつも通りの感情を押し殺した声だが、どこか泣いている、と紫苑は感じたから。

 アザミが歩みを止め、一つの扉の前に立つ。


「ここに菊ちゃんがいます」


 ゆっくりと開けられる扉がもどかしく感じる。

 扉が全開されると同時に、紫苑は菊のいるであろうベッドに近付いた。


「菊」


 一人部屋の病室で、菊は横たわっていた。

 あまりにも静かに眠っているものだから、紫苑は菊の骨と皮しかないのではないかと思うほど細い手を握る。


「菊ちゃん……」


 次いで、スミレとアザミも中に入ってきて、菊を見る。

 誰も話さない空間に、菊が生きていると教える機械の音だけが響く。


「スミレさん。ここは紫苑に任せてあなたはこちらへ。先生から詳しい話を聞いてください」

「……はい。紫苑ちゃん、頼むね」

「はい」


 スミレの泣きそうな顔に、紫苑はしっかり頷く。


「そこにナースコール、一応、部屋を出て左、三つ目の部屋にいます。なにかあったら……」

「わかってる」


 スミレとアザミは部屋を出ていった。


「菊……」


 機械音だけが響く部屋で、菊の手を両手で握り、祈る。

 菊が目覚めますように。

 菊がもう一度名前を呼んでくれますように。

 菊がもっと長生きしますように。

 いろいろな思いを握っている手から送り込むように祈る。

 すると、強く握りしめてしまったからなのか、菊が身じろぎをした。


「んっ……」

「菊!」


 顔を覗き込んで、菊の呼吸器のせいでほぼ覆われているせいで目元しか見えないが、その目元をじっと見つめる。

 そしてふるふると開かれた目に、紫苑は目の前がゆがんだ。


「菊……っ!」

「し、おん……ちゃ……?」

「よかった、め、さまして……」

「たおれちゃったんだね……。ごめんね、しんぱいかけて……」

「ううん。目を覚ましてくれただけで、あたしは……」


 溢れだした涙が止まらなくて、ポロポロと流しながら菊に笑いかける。


「ふふ……しおんちゃん……」

「なぁに?」

「しおんちゃんは……しおんちゃんには、はなことば、せおわせたく、なかったんだけどなあ……」

「え……?」

「きくはね、『真の強さ』っていうはなことばが、あるの。『高貴』とか、『高潔』とか、あるけど、わたしは、『真の強さ』を、いままで、いしきして、すごしてたんだぁ……」


 ゆっくりと、確実に言葉を紡ぐ菊に、紫苑は泣きながらも笑顔を浮かべる。


「菊、『真の強さ』ってまんまじゃん。まんま菊じゃん」

「えへへ……ちゃんと、なまえにはじない、いきかた、できてたかなぁ……」

「うん……! できてた。あたしにとって、菊はずっと太陽みたいで、初めて会った時も、菊の笑顔がまぶしくて……! あたしが、親友のあたしが、保証する……っ!」


 呼吸器の中で、菊がへにゃりと笑う。


「しおんはね……『追憶』『君を忘れない』『遠方にある人を思う』っていう、はなことばが、あるんだよ……」

「あはっ……なにそれ、あたしにぴったりじゃん。菊があたしの前からいなくなっても、あたし、菊のこと、ずっと思ってられる自信、あるよ?」

「しおんちゃんが、わたしのことで、なくのは、やだなぁ……」

「泣かないよ。菊は、長生き、するんだもん。海外でもいい。治療して、もっと長生き、するんだよ……っ」

「げんきになったら、どこにいく……?」

「四人でさ、ネモフィアの丘に行こうよ。あそこ、写真で見たけどとっても綺麗なんだよ? 花言葉は合わないかもしれないけど、でも……。なんならセロシアの花も見に行こうよ。ねぇ、菊……いっぱい、いっぱい、まだやりたいこと、あるよ。だから、だからっ」


 菊を離さないように、強く手を握りしめる。自分でも痛いくらいに。


「しおんちゃん、あのね、わたしね、しおんちゃんにあえて、よかったよ。しおんちゃんとあうまえ、ことしのなつまで、いきられないって……もっても、ろくがつまでだって、いわれてた……。でもね、なつ、こえられたよ。くがつ、まで、いきられたよ」

「もっと、もっと、生きるでしょ! もっと、生きて、みんなで、今まで以上に、遊びに行ったり……ねぇ、お願い、生きてよ……」


 菊はふふっと笑うと、ゆっくり目を閉じた。


「菊!」


 機械の画面を見て、脈拍が安定していることを確認すると、ただ眠っただけなのだと安堵する。

 菊の手を握ったまま、紫苑は菊の顔を眺め続ける。

 いつ目を覚ましてもいいように、ずっと、ずっと――。

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