菫、薊
六月二十九日。
紫苑は朝早くから起きて、約束の九時半に公園に着くように歩いていた。
あれから脳震盪の症状は全くなく、健康体そのものだった。
困ったことがあるとすれば、数日間分の授業内容のノートがないことだけだった。
公園につけば、花壇では菊が水やりをしており、スミレがベンチに座ってその様子を見ていた。
「菊! スミレさん!」
駆け足で公園の中へ入れば、二人が紫苑を見てそれぞれの反応を示す。
菊がじょうろを持っていないほうの手をブンブンと満面の笑みで振り、スミレはベンチに座ったまま薄らと微笑んだ。
「紫苑ちゃん! おはよー!」
「うん、おはよう、菊」
菊とあいさつした後、ベンチに向かいスミレの横に座る。
「おはよう、紫苑ちゃん。あれからおうちの方は大丈夫そう?」
「あ、はい。もともと一人は慣れていましたし、散らかっていた家を片付けるだけでしたのですぐ終わりました」
帰った時、家は本当に乱闘騒ぎがあったのかと思うほどに綺麗だった。
きっとお母さんが片づけてくれたのだろう、と紫苑は思っている。
あの浮気相手に捨てられそうになった花がどれかわからないほど、キレイであったし、きっとこの花だろうという花も、押し花になっていたので問題はなかった。
「そう、それならよかったわ」
二人で菊の様子を観察しながら二人はゆったりと話し合う。
その間に、菊は水をやり終わったかと思うと、一輪一輪花の状態を観察し、同時に見つけた雑草を摘んでいるようだった。
「この後は、どうするつもりなの?」
「今日は菊におススメのCDとかを持ってきたので、貸そうかなと思ってます。それと、今日はスミレとアザミを教えてもらおうかな、と」
「スミレとアザミ? 私と紫苑ちゃんのお母さんのスミレさんの名前よね?」
「はい。よくよく考えたら、あたしたちの名前って花の名前なんですよね。それなら菊が花言葉知っていそうですから」
「たぶん知っていると思うわよ。なんていったって、自分から初めて覚えようとした花がスミレと菊なんですから」
当時のことを思い出しているのだろう。スミレはとても優しい顔で菊を見ている。
「そうだったんですね。……あー、もっと早く菊に出会えてたらよかったのに。お母さんが先に知り合ってるってずるい……」
「ふふ、そういってもらえると菊も喜ぶと思うわ」
「? 私がどうしたのー?」
一通りやることが終わったのだろう。菊がヒョコヒョコとベンチに歩いてきた。
「あたしの親友は自慢してもし足りないくらい凄い子だって話」
「私の娘は目に入れても痛くないほど可愛いって話よ」
「??」
紫苑とスミレが顔を合わせて笑うなか、菊は一人首をかしげていた。
「それで、菊はもう終わったの?」
「うん。今日の花壇でやることは終わったよー」
「それなら行きましょうか。これ以上外にいたら暑くて干乾びちゃうわ」
スミレが立ち上がると同時に紫苑も立ち上がった。
そしてスミレを先頭に、紫苑と菊は菊の家に向かって歩き出した。
歩いて二、三分くらいだろうか。
公園の出口からグルッと一周してある一軒家の前にたどり着いた。
「ここが私の家だよ!」
「あー、確かにここなら通学中のあたしも見えるわけだ」
公園のすぐそばであるため、窓から紫苑の通る通学路が丸見えだった。
「さ、入って」
「失礼します」
菊とスミレに連れられて家の中に入れば、中はたくさんの花が飾ってあった。本物と偽物が混ざり合っているようで、そこまで強烈な花の匂いはしないが、紫苑が花粉症ならとても辛かったはずだ。
廊下の途中にある階段を上り、二階にある突き当りの部屋に入る。
どうやら菊の部屋のようで、奥の窓の手前にはベッドとその横に花瓶が飾られた棚がある。左手には本棚があり、そのほとんどが花に関するものだ。右手には勉強机があるが、ほとんど触れられていないのか、とても片付いていた。
菊は勉強机の椅子をベッドの横に持ってくると、ベッドに腰かけた。
「座って座って」
「うん」
紫苑が椅子に座ると、菊は嬉しそうに笑って窓を指さした。
「いつもね、紫苑ちゃんと会えない日はね、ここから公園のそばを通る紫苑ちゃんを見てたんだ」
窓から外を見れば、公園と紫苑が通る通学路が見えた。どうやら外から見た窓は個々の部屋の窓だったらしい。
「てことは、あたしの変な行動も?」
「丸見えだったねぇ」
くすくすと笑う菊に、紫苑は顔を赤くする。
菊と会えない日、紫苑は時折公園を歩き回り、ベンチで時間をつぶし、花壇を眺めたりしている。それは菊を待っている行動でもあり、五時の音楽が鳴り響くと同時に帰っていた。
「紫苑ちゃんが来ているのを見るたびにね、行かなきゃって思うんだ。でもね、身体が動かなかったりするんだぁ……。困っちゃうね」
「……そうだね」
なんとなく、紫苑には一つの予感があった。
菊の寿命は、そんなに長くはないのではないか、という予感が。
それは、先日の初対面のスミレの焦り具合や、病院で駆け寄ってきたときは気が付かなかったがあの時相当疲れていたような気がするし、それにアザミの菊が友達だと知った時の声。あれは疑っていたように聞こえたのは、信じたくなかったのではないのだろうか。もう少しで死んでしまう菊が友達なんて、と。
もちろんただの予感で仮設ではあるのだが、どこか納得してしまう部分もある。それに、今の「身体が動かない」という菊の言葉も、それを助長させただけのような気もする。
「さて、今日は何の花を知りたい?」
紫苑の考えていることにも気づかず、菊は明るく聞いてくる。紫苑も考えを頭から追い出し、答える。
「今日はアザミとスミレを知りたい」
「お母さんたちの名前だね」
「そうだね」
菊は本棚から一冊の本を取り出すと、パラパラとめくってスミレのページを開いた。
そこにはスミレの生態系や花言葉とともにスミレの写真が載っていた。
「スミレの花言葉は『謙虚』『誠実』『小さな幸せ』だよ。これも色によっては『愛情』『あどけない恋』といった恋愛関係の言葉もあるよ」
「スミレにも物語があるの?」
「もちろん」
持っていた本を紫苑に渡すと、違う本を持ってきた。
「スミレはギリシア神話と関わりがあってね、こんなお話があるよ」
菊は持ってきた本のとあるページを開いた。そして本の中間部分を指さす。
「ここだね。『イアという美しい娘がいました。太陽神アポロンが彼女に一目ぼれをしますが、イアには婚約者がいたため、アポロンの愛を受け入れようとしませんでした。それに怒ったアポロンがイアをスミレに変えてしまったといいます』アポロンさんもイアさんも報われないよね」
「神様の愛を受け入れないっていうイアもすごいね。神様に見初められるってそうそうないのに」
「そうだね。きっとイアさんはそれだけ婚約者さんのことが大事だったんだよ」
「その話から『謙虚』『誠実』『愛情』とかは来てるのかもね」
「でもそうすると、『小さな幸せ』はどこからきたんだろうね?」
「イアは婚約者との『小さな幸せ』を大事にしたかったんじゃないの?」
「そうかもしれないね」
きっと、スミレさんも菊が元気にしているという『小さな幸せ』を噛みしめているんじゃないか、と紫苑は思う。
「それじゃ、お母さんは?」
「アザミさんはねー……あ、これだ」
スミレの写真が載っていた方の本をめくり、アザミのページを見せてもらう。
「アザミの花言葉は『独立』『報復』『厳格』『触れないで』だね。マイナスに思われがちな言葉ばかりだけど、スコットランドの国花になってなりする花だから、そこまでマイナスなものでもないんだよ」
「へぇ。でも確かに、お母さんは『厳格』であたしを早く『独立』させたがってたようにも思えるなぁ……」
「アザミさんは病院で会うと、いつも紫苑ちゃんのこと話してくれたよ。『私には菊ちゃんと同じ年の娘がいます。仕事が忙しくていつも寂しい思いをさせていますが、私には大切な宝物の娘なので、いつか菊ちゃんに紹介したいです』って」
「なにそれ、あたし知らないんだけど……」
まさかそこまで愛されているとは思っていなかった。
きちんと言葉にしなきゃわかんないっての。と心の中で呟きながら、紫苑は笑みを浮かべる。
「今度、お母さん帰ってきたら、ありがとうって言ってみようかなぁ……」
「アザミさん、喜んで泣いちゃうかも」
「お母さんの泣き顔見るためにちょっと頑張ってみるか」
「紫苑ちゃん、ひどーい。反応ちゃんと教えてね」
「人のこと言えないよ、菊」
「えへ」
談笑を続けていると、コンコンッとドアがノックされ、スミレが入ってくる。
「紫苑ちゃん。これからアザミさんに会ってくるけど、伝えたいこととかある?」
思わず二人で顔を見合わせ噴出した。
「? どうしたの?」
「なんでもないです。ただ、タイミングが合いすぎて怖いな、と」
「?」
首をかしげるスミレに、紫苑は伝言を頼むことにした。
「次の休みを教えてほしい、と。お願いします」
「わかったわ」
それじゃあ、ごゆっくり。とスミレは家を出ていった。
残された紫苑と菊は、持ってきたCDの話などをしながら楽しい時間を過ごし、スミレが返ってきて紫苑が追い出されるまでずっと喋り続けていた。
後日、スミレ経由で教えられた休日に、日ごろの感謝を込めてケーキを作ったら大泣きされたのは余談である。(ケーキが好きなことは菊に教えてもらった。少し菊に嫉妬したのもまた余談だ)