マツバボタン
一日、半月、一か月。
間を空けながらも二人は何度も何度も公園で会い、少しずつ仲良くなっていった。
数度あったころにはもう賭けのことなんかすっかり忘れて、菊と会うことが楽しみになっていた。
その間に、紫苑は菊のことをそれなりに知り、紫苑も菊に自分のことを話した。
菊は、幼いころからずっと病院で暮らしてきたらしい。身体が弱く、学校も義務教育の間に一、二度行っただけで、それ以外は真っ白な病室で年上の人たちと生きてきた。
花言葉は、そんな年上の人たちから文字とともに教わったらしい。というよりも、花言葉を覚えるとともに文字を覚えたらしい。
花に興味を持ったのは、菊の母親が見舞いの品として持ってきたのが始まりだったそうだ。
その時の花はセロシアという花だったらしい。
それを見た隣のベッドの住民であるお姉さんが、セロシアの花を見て笑ったのだ。
「菊ちゃんのお母さんはいい花を選んでくるね」
その言葉に幼い菊は首をかしげたそうだ。「どうして?」と。
「その花はセロシアの花と言いって、『希望の灯』という花言葉があるんだよ」
「きぼーのあかり?」
「そう。菊ちゃんは今は身体が弱くて外には行けないけど、希望を捨てずに生きていれば、いつかは希望の灯が菊ちゃんを外へ連れ出してくれるんじゃないかな」
そういってお姉さんは菊の頭を撫でてくれたらしい。
それから菊は花言葉に興味を持って母親に花言葉の辞典を頼んだそうだ。
文字が読めない菊に、お姉さんがやさしく文字を教えてくれて、そうしてたくさん花言葉を覚えたそうだ。
そのお姉さんは、菊が十歳のころ、退院していなくなってしまったらしい。今の居場所はわからないそうだ。
「本当はお礼、言いたかったんだけど、もうどこにいるかわからないし、お母さんも教えてくれないから……」
菊は少しうつむいて、そう、つぶやいていた。
紫苑は頭の中に浮かんだ一つの考えを菊に話そうとして、やめた。
きっと菊もどこかで気が付いていたはずだからだ。ただ、知らないだけなら、ここまで落ちこまないはずだから。
そのお姉さんは退院したのではなくて、もう亡くなっている、なんて。
けれど、菊の母親はなぜ教えないのだろうか。
生きているのら、また会っていろいろ話したいと思える。
もういないのなら、お墓参りくらいしたいと思うはずだ。
どちらともわからない、解があるのに無い状態は、ただの生殺しだと思った。
「紫苑ちゃん。どうしたの?」
一か月前に話した内容を思い出していたためか、菊が不安そうに紫苑の顔を覗き込んでいた。
今日は、六月の中旬だが、これで九度目の邂逅だ。
「あ、ごめん。菊が花言葉に興味を持った時の話を思い出しててね」
ふっと菊の顔に影が差すが、すぐに笑顔になって紫苑を見る。
「紫苑ちゃんと仲良くなれた間接的な出来事だもんね」
「そうだねー」
一つ息を吐き出して、菊を見る。
「さて、菊先生。今日の花はなんでしょうか」
菊も真剣な顔になり、紫苑を見る。
「今日の花はこれです」
紫苑とは逆の場所に置かれていた植木鉢を、菊は持ち上げて紫苑に見せる。
四回目の邂逅から菊は植木鉢に花を植えて持ってくるようになぅていた。
それは、紫苑が花を持って帰るからだ。持って帰られた植木鉢は、花が押し花にされたころ、公園の花壇のそばに置いておけば菊に返還される。
植木鉢に植えられていたのは、直径三センチほどの桃色の花びらを湛えた大きな花だ。葉は多肉質で細く、茎は分岐して植木鉢の中を這うように広がっている。
「これはマツバボタンといって、ヒデリグサやツメキリソウという別名もあります。咲く時期は六月から九月で、花言葉は『可憐』『無邪気』『忍耐』『温和』『にぎやか』『かわいらしさ』などがあります」
「これはこれで、また多いね……」
つらつらと並べられていく花言葉に、紫苑はげっそりとした表情をする。
「そうだね。でも基本覚えるのは『無邪気』『可憐』だけでいいんだよ。これは花の見た目からつけられた言葉だからね」
「? ほかの『忍耐』とかは?」
「『忍耐』『温和』は、短気な男の子が花の美しさに心洗われて、短気を反省しておだやかな性格になったっていうお話から来てるんだよ」
「へぇ……花言葉によくお話がついていたりするけど、そんな単純でいいのかなぁ」
思ったことを口に出せば、菊はふわりと笑う。
「四葉のクローバーがその見つけにくさから、見つけたら幸運になるんじゃないかって言われて、『幸福』ってついたんだけど、単純だよね」
「昔の人って単純な人が多かったのかな……」
「そうなんじゃないかな」
二人で顔を見合わせて笑いあう。
そうして紫苑は菊からマツバボタンの植えられた植木鉢をもらい、そこからは紫苑が学校に行ってない菊に学校のことを教える番だ。
「えーと、前どこまで話したっけ?」
「図書館にはたくさん本があるよってところまでだね。今日は音楽室とか楽器に関してのお話!」
「よく覚えてるね……」
きらきらと目を光らせる菊に、紫苑は感嘆しながらも息を吸う。
「音楽室から行こうか。音楽室の壁は防音材が入ってて、音が外に漏れないようになってるんだよ。たいてい窓ガラス六枚から十枚くらいの広さかな。黒板が前だけあって、後ろにはベートーベンとかシューベルトの肖像画が飾っているところがあるかな。もちろん、ただ壁があるだけの学校もあるけどね」
「ベートーベン、シューベルト……」
「クラシック音楽での有名人だけど知ってる?」
紫苑が訊けば菊は首をかしげる。
「家でCDとか聴ける? 聴けるならCD貸すけど……」
「ほんと!? きくきく! おススメ教えて!」
「はいはい、落ち着けー」
身を乗り出して言ってくる菊を、紫苑は頭を撫でて落ち着かせる。
時折、菊が犬に見えるのが不思議だと思いながらも、この人懐こさのせいかな、と最近思えてきた紫苑だ。
「逆にいつもどんな音楽聴いてるの?」
「音楽……?」
手を口元に当てて、ぶつぶつと呟き始める。
「おんがく、おんがく、おんがく……花しかでてこないよ……おんがくってなんだろ……どういうのがおんがく……? まずなにかしらの曲を聴いたことあったっけ……? 病院で流れていたものもおんがく……?」
「えーっと、菊さん? きくさーん?」
一人の世界に入ってしまった菊に紫苑はため息をつく。
こうやって何かを質問すると答えが出るまで考え続けるのは、菊はよくなる。でもこういう何気ないことできちんと考えられる菊が、紫苑はうらやましかった。
昔からいろいろなことを受け入れるだけで疑問を持たなかった紫苑。
物事を知るために、たくさん考えて答えを出すまで止まらない菊。
受け取り方も、今までの生活環境も、正反対な二人だがどこか惹かれあうものがある、と二人は心の奥底で感じていた。
時間が過ぎて、夕方五時を知らせる音楽が流れる。
菊が顔をあげて音楽が流れてくる方向を見た。
「おんがく……」
「あぁ、そういえば、これも音楽だね」
菊は目を瞑って音楽に聴き入る。
それを横目に見ながら、紫苑はこの曲の名前を調べてこよう、と決めた。
「菊ちゃん!」
音楽が終わるころ、公園内に女の人の声が響き渡る。
声の持ち主を探せば、スーツ姿の若い女の人がカツカツとヒールを響かせながらこちらへ歩いてくる。
「あ、お母さん……」
菊が立ち上がり、呆然とそう零した。
紫苑はそれを聞いて、植木鉢を横に置いてあわてて立ち上がる。
「菊ちゃん、最近体調がいいって言ってたけど、こんな遅くなるまで外にいちゃダメでしょう!」
「ごめんなさい……」
「ほら、帰るわよ!」
菊の腕を引いて、女の人――菊の母親は公園の出口まで歩き始める。
「お、お母さん! いたいって!」
菊の母親の剣幕に固まっていたが、紫苑はハッと我に返り、菊の母親の前に走って立ちはだかった。
「待ってください!」
「……あなたは?」
足を止め、いぶかしげに紫苑を見る菊の母親。紫苑はにっこりと笑う。
「どうも、挨拶が遅れました。菊の『親友』の黒月紫苑です。身体の弱い菊をこんな時間まで連れまわしてしまってすみません。怒るなら菊じゃなくてあたしでお願いします」
ガバリと頭を下げて、菊の母親の足元を見る。
数秒か、数分か、どれだけ経ったかわたらないが、上からため息が落ちてきた。
「頭をあげてくれるかしら?」
ゆっくりと頭をあげれば、無表情の顔があった。その顔をじっと見ていると、一つ息を吐き出し、柔らかい笑みが浮かんだ。
「私は菊ちゃんの母親のスミレといいます。あなたが紫苑ちゃんね。菊ちゃんからよく話は聞いています。菊ちゃんと仲良くしてくれてありがとう」
「え、あ、はい」
態度が豹変したスミレに驚きながらも、ちらりと菊を見れば菊も驚いた顔をしていた。
「お、母さん……?」
「でも」
先ほどとはうって変わって低く冷たい声が響く。
「菊ちゃんの身体が弱いってこと知ってるなら、もう少し配慮もできたはずよね。そこのところどうなの? 菊ちゃんが倒れたらどうするつもりだったの?」
こてん、と首を傾け、菊とよく似た優しい目が冷たく紫苑を貫く。
「すみません。あたしは菊の家など知りません。なので倒れたら救急車を呼べばいいとおもっていました」
眉間にしわを寄せため息をつくと、スーツのポケットから何かを取り出した。
どうやらスケジュール帳とペンのようで、菊の腕を手放すと、何かを書き込んでいく。
「はい、これ。家の住所と私の電話番号、あとメアド。それと私の仕事が空いている日を書き込んでおいたから、時間が合うときに遊びに来なさい。菊ちゃんと一緒に歓迎するわ」
「え……」
渡されたスケジュール帳の切れ端を見れば、確かにいろいろと書き込まれていた。
書かれた日付を見て、たいていが平日だということを確認すると顔を上げた。
「えっと……じゃあ、この日。六月の二十九日。この日なら一日中空いてると思います」
六月二十九日は次の週の木曜日だ。学校は創立記念日だとかで休みだったと記憶している。
「そう。なら菊ちゃんとこの公園で待っているわね」
「あの、何時ごろなら大丈夫ですか?」
「そうねぇ、九時か十時には来てもらえれば大丈夫よ」
「わかりました。九時半を目途に公園に来ます」
スミレは一つ頷くと、菊と一緒に公園を出ていった。
「あ、じゃあ二十九日に待ってるね!」
「うん」
去り際に叫ぶ菊に苦笑しながらも、手を振り返しながら頷いた。
公園の中から二人の姿が見えなくなったころ、紫苑もマツバボタンの植木鉢を持って帰路についた。